マタイ25:14-30 『 賜物1~1タラントを用いて 』2011/07/24 松田健太郎牧師

マタイ 25:14~30
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

教会には、元気な教会もあれば、元気がない教会もあります。
一般的に考えると、若い人達が集まる教会は元気があり、年配の方が多い教会には元気がないような気もしますが、必ずしもそうとは限りません。
若者は活気を求めるので、元気のある教会に若者が集まるという傾向は、確かにあるかもしれません。
でも、若者がたくさん集まっても元気がない事もあるし、年配の方ばかり集まっていても活気がある教会だって存在するのです。

激しい賛美が歌われているかどうか、大声でメッセージする説教者がいるかどうかという事も、実は直接的な関係があるわけではありません。
まぁ、そういった要素も、教会を活発にするひとつの要因となるかもしれませんが、それがすべてではないのです。

賛美が活発かどうか、みんなが大声で祈り、説教者も活動的かどうかというのはともかくとして、教会というものは元気がなければならないと僕は思っています。
本当の意味で元気な教会というのは、ムリをして元気にふるまったり、笑顔を作ったりする教会ではなく、みんなが御霊に満たされた教会だと思うからです。

では、教会を元気にするためにはどうすればいいか。
私たちの教会が、もっと元気と喜びにあふれた教会となるためにはどうしたらいいかという事を、今日は一緒に考えて行きたいと思います。

① 活き活きとして魅力がある教会
実は、教会を元気にする手掛かりのひとつとなるのが、今日の聖書箇所の話だと思うのです。
そこで、この聖書箇所をもう一度よく見て行きましょう。

3人のしもべが、主人が留守の間にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けられました。
主人が帰って来た時、5タラント預けられていた人は10タラントにして返しました。
2タラント預かっていた人は、4タラントにして返しました。
主人はこのふたりのしもべを喜び、それぞれに預けていたお金と、自分達が稼いだ分のすべてをしもべたちに与えました。
しかし1タラント預かっていた人は、それを土に埋めて隠し、主人が帰って来た時にそれをそのまま返しました。
主人はそれを聞いて激怒し、このしもべから1タラントを奪うと、10タラント与えられたしもべにそれをあげてしまいましたというのが、このたとえ話のあらすじです。

今日はこのたとえ話の解説をするのが目的ではないので、出し惜しみせずにどんどんこのお話しのポイントをお話ししていきますね。
この話のポイントは、第1にわたし達クリスチャンには、それぞれ今の自分の力に応じたタラントガ預けられているという事です。
第2に、預けられているタラントは、使わなければならないという事です。
第3に、タラントを使わなければ、わたし達はそれ自体を失ってしまうという事です。

教会を元気にする方法、また私達ひとりひとりのクリスチャンが力に溢れ、活気にあふれる方法がここにあります。
わたし達には、神様からそれぞれに預けられているタラント(賜物)があり、それを用いなければならないのです。
それを使えば使うほど、わたし達は力を受け、元気が出て、信仰も増します。
しかしそれを使わなければ、わたし達はクリスチャンとしての魅力を失い、信仰的にも死んだようになってしまいます。
本当に元気があり、魅力のある教会というのは、多くの人達が与えられた賜物を用いている、活き活きとした教会なのです。

② たった1タラント!?
しかし、このたとえ話を読んだ人の多くが、二つの部分に疑問を抱くのです。
ひとつめの疑問は、この3人のしもべたちは、どうして同じ額ではなく、5タラント、2タラント、1タラントだったのかという事です。
ここに疑問を持つ方の多くが、自分自身を1タラント与えられたしもべとして投影します。
そして、「こんなの不公平じゃないか! これでは、最初から1タラントしかもらえなかったしもべがかわいそうだ。」と言うのです。

そのような疑問をもってしまうのは、1タラントがどれくらいの価値があるのかという事を知らないからです。
1タラントというのは、6000デナリの価値があります。
そして、1デナリは大体労働者の1日分の給料です。
単純にするため1デナリを1万円と換算すれば、1タラントというのは6000万円です。
6000万円ですよ、みなさん。
「どうして自分はたった1タラントなんだ?」という額ではないですよね?
どんだけ気前のいい主人なんだと言う話なんです。
もう、しもべに預けると言うような常識を遥かに超えているのです。
これは、「留守の間、ちょっと預かっておいて?」というようにして預けられたものではないでしょう。
明らかに、普段は見た事がないような額の大金。
わたし達の主人はそれをわたし達に預け、「これを好きに使ってみなさい。」と渡されたのです。
そう考えると、これだけの額をケチケチと土に埋めてしまうと言う事が、どれほどおかしなことかもわかってくるのではないでしょうか?

わたし達は、自分に預けられた6000万円を見ていたらいいのです。
どう考えても、それだけで十分。
いや、それ以上です。
ところが、これを隣の人達のものと比較し始めた時、何かが変わってくるのです。
途端に、自分が与えられているものは少ないような気がしてきてしまう。
6000万円が自分の元にあること自体が大きな恵みなのに、「オレの主人は何と不公平で、意地悪なんだ。」と思えてきてしまう。
「あいつが預かっているように6億円くらいあればともかく、6000万円程度に何ができるものか。」と思えてくるのです。

皆さん、金額は問題ではないのです。
このたとえ話はこの様に書かれているのです。

25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

5タラントには5タラントの使い方、2タラントには2タラントの使い方、1タラントには1タラントの使い方があります。
わたし達に与えられているものは、わたし達の能力に応じた、わたし達にとってもっとも用いやすい賜物です。
隣の人のタラントを見るのではなく、自分に預けられているタラントをいかに使えばいいのかを考えるべきなのです。

③ タラントはなくなるか?
さて、このたとえ話を聞いたわたし達が持ってしまいがちなもうひとつの疑問は、「このタラントを使って、もしも無くなってしまったらどうなるのだろう?」という事ではないでしょうか?
そもそも、主人からお金を預けられて、それを元手に金儲けをできるやつの感覚がおかしい。
お金を預かっているのだから、1タラント預けられたしもべのように、無くならないように管理して、そのままで返すのが筋なのではないか?

イエス様は、そういう話をしたくて、このタラントのたとえ話をしたのではないのです。
わたし達が神様から預かっているのは、お金ではなく、賜物です。
このたとえ話は、敢えてビジネスに失敗した人の話をしていないのです。
もし、「失敗したらなくなる。」という話がしたいのであれば、3人のしもべが出てくるなら、ひとりくらい預かったタラントを使って失敗して、少なくなってしまったしもべが出てきてもいいでしょう。
でも、イエス様は敢えてそういう人を出しませんでした。
それは、わたし達に与えられている賜物が、使う事によっては決して失われないものだからです。

逆に、イエス様はこの様に言っています。

25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

イエス様が言いたいのは、あなた達に与えられている賜物は、それを使う事によっては絶対になくならない。
しかし、もしそれを使わないのであれば、あなたはせっかく預けられているそのタラントさえ失い、一文無しになってしまうよと言う事なのです。

わたし達クリスチャンは、与えられているタラントを使わなければなりません。
それを使わないからと言って、もちろん救いそのものを失ってしまう訳ではありませんが、タラントを使わないクリスチャンは神様からの力を失い、輝きもなく、ただ救われただけのクリスチャンとなってしまいます。
そのようなクリスチャンにも、そのようなクリスチャンが集まる教会にも、元気や魅力は何もありません。

「わたしに与えられている賜物なんて…、あまり役に立ちません。」なんて言わないでください。
それは決して謙遜ではなく、神様に預けられているものを軽んじる事です。
わたし達、全てのクリスチャンには賜物が与えられているのです。
そして、それを用いるならわたし達はもっともっと活き活きとし、もっともっと輝きを増し、もっともっと豊かになるのです。

これからの1週間、どうか皆さんおひとりおひとりが、それを祈りながら探し求めて見ていただきたいのです。
そして、その賜物をどうやって用いたらいいのか・・・?

来週の教会で、自分の賜物を探る適正テストをお渡しします。
そして、希望者のためには、礼拝の後の時間に一緒にやりたいと思います。
もちろん時間のない方は朝の礼拝だけで帰っていただいても、大丈夫ですし、そのテストは家でやっていただければいいですが、午後に一緒にやりながら、賜物に関してもう少し詳しく話し合えればいいなぁと思っているのです。

今日を含め、3週間の間に、自分自身に与えられている賜物についてしっかりと考え、神様に仕えるという事に関してよく理解できる時となれば幸いです。

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