Iコリント12:12-32 『 賜物2~神の体としての選び 』 2011/07/31 松田健太郎牧師
Iコリント 12:12~32
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
皆さんは、どうしてこの教会に来ているのでしょうか?
「この教会が好きだから。」という方もいらっしゃれば、「別に来たかったわけじゃないけど、家族が来ているから。」とか、「友達が来いと言うから。」という方もいらっしゃるかもしれません。
でも、実は皆さんがこの教会に来ているのは、神様の導きによるのだ、言う事もできるのではないでしょうか?
この教会との出会い、この教会につながる人達との出会いというものは、決して偶然起ったわけではなく、神様が出会わせてくれたのではないかと思うのです。
では、クリスチャンの方にお聞きしたいと思います。
皆さんは、どうしてクリスチャンになったのでしょうか?
この問いに関しては、ひとりひとりが“救われた証”という形で話す事ができるかもしれません。
その方法は、千差万別でしょう。
でも、もしかしたら、「自分がキリスト教を選んだ。」と思っていたりしませんか。
しかし聖書にはこう書かれています。
エペソ 1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
私達がクリスチャンになって、この教会に集っているのは、わたし達が選んだからではなく、神様がわたし達を選んだ結果なのです。
まだクリスチャンではない皆さんも同じです。
皆さんもまた、神様の選びによって今この場所にいて、信じているわけでもないのにこの教会でこうしてメッセージを聞いているのです。
では、わたし達は何のために選ばれたのでしょうか?
神様はわたし達を選んで、どうしてようとしているのでしょうか?
① 選ばれたわたし達
こうして、“選ばれた”という話をしているとついつい、わたし達は救われるために選ばれたのだと思ってしまうかもしれません。
じゃあ、クリスチャンにならない人達はどうなのでしょうか?
その人達は、神様の選びの中になかったから救われずに、地獄に行く事になるという事でしょうか?
しかしもし、誰が天国に行き、誰が地獄に行くのかという事が神様の選びによって決められているのだとしたら、それはあまりに酷い話ではないでしょうか?
それでは、救われる人は救われるけど、救われない人はどうやっても救われないという事になり、ならわたし達が伝道する意味も何もなくなってしまいます。
それに、わたし達が救われる事が神様の選びの目的なのだとしたら、わたし達は救われた瞬間に天国に上げられればいいのです。
それどころか、最初からこの地上での生活をする意味すらないではありませんか。
救いのチャンスは、地上で生きる全ての人の上に等しく与えられている事なのです。
わたし達の選びは、救いのためのものではありません。
じゃあ何のために選ばれたのかと言えば、わたし達が神様の手となり、足となり、教会という体の一部となるために選ばれたのです。
一体、どうして、わたし達が選ばれたのでしょう?
他の人達ではなく、どうしてわたし達だったんでしょうか?
わたし達が良い人間だったからですか?
それとも、わたし達が賢く、神様の手足として良い働きをしそうだったからでしょうか?
そういう訳でもありません。
聖書にはこの様にも書かれています。
Iコリント 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
まぁ、愚かで弱いと言うだけが選ばれた理由だったらちょっとやりきれないですね。
もちろん、それだけが理由ではありません。
わたし達が神様の手足となるべく選ばれたのは、わたし達に与えられている個性が必要だからです。
わたし達は時として、「もっと積極的になれたらいいのに。」とか、「もっと優しい人間だったら、良いクリスチャンになれたんじゃないか。」と思ったりするものです。
でも、人を陰で支える事ができるわたし達や、厳しさを発揮できるわたし達を、神様は選んだのです。
わたし達の個性は、罪のために歪んでしまって、本来の役割を果たす事ができていないかもしれません。
しかし、わたし達がもっているその個性自体は、決して不十分でもダメなものでもなく、こんなわたし達だから神様に選ばれたのだという事を忘れないで頂きたいのです。
② 体の一部であるという事
では、わたし達が神様の体の一部であるという事がどういう事なのかという事を、もう少し突き詰めて考えて行きましょう。
わたし達が体の一部であるという事は、第一にわたし達はそれぞれ違う役割をもって生きているという事です。
この様に書かれている通りです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
これは結構有名な個所ですし、人はそれぞれ違うんだという事は言い尽くされてきた、当たり前の事のように思えるかもしれません。
でも、案外みんな忘れてしまうのがこの部分だったりもします。
例えば、伝道の賜物を持っている人が、他の人達が自分と同じように人を救いに導いていないのを見て怒りだしたりするんです。
「大宣教命令は全てのクリスチャンに与えられている事なのだから、みんなが伝道しなければならないはずだ!」というわけです。
でも、伝道者としての賜物を持っていない人は、持っている人と同じような方法では伝道できないでしょう。
わたし達には、個性に従ってそれぞれに与えられた賜物というものもあるのですから、誰もが同じような方法で神様に仕える事ができるわけではないのです。
第2に、わたし達はそれぞれに助け合っていく必要があるという事です。
味覚が発揮されるために必要なのは口や舌だけではありません。
食べ物を口に運んでくる手が必要であり、食べ物をかみ砕く歯が必要です。
同じように、わたし達に与えられている賜物は、必ずしもひとりだけで発揮できるとは限りません。
先ほどの伝道のケースで言うならば、ある人は直接伝道する事ではなく、教会に来た人に親しく話しかける事によって伝道に貢献したり、祈りによってサポートするという事もあるのです。
そして、そのような助け合いがなければ、ひとりの人の直接伝道だけで誰かがクリスチャンになるという事はあまりないでしょう。
わたし達ひとりひとりが、与えられている個性や賜物に従って、ある人は教会の外で証人となって人々にイエス様の栄光を表し、ある人はまだイエス様と出会っていない家族や友人を教会に連れて来、ある人は新しく来た人たちに話しかけ、教会で有意義な時間を過ごしていただき、ある人は雰囲気作りをし、ある人は聖書の真理を伝え、ある人は信仰に躓いている人を立ち直らせるのです。
どの賜物が優れているとか、どういう働きが劣っているという事ではありません。
全てが神様から与えられているものであり、わたし達の役割は、与えられた賜物を用いるという事だけです。
神様はそれ以上の事を求めてはいないのです。
③ 心をひとつにして
そんなわけで、全ての賜物はお互いに助け合い、補い合うという事がなければうまく機能しません。
脳みそに手や、目や、口がくっついているだけでは生きていくことができないのと同じ事です。
聖書にはこの様に書かれていました。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
わたし達は、ひとりでも神様との関係を手にし、救いを受ける事はできます。
しかしわたし達クリスチャンは、ひとりだけでは、神様から与えられた役割をうまく果たす事ができないのです。
だからわたし達は教会に集い、ともに主にある家族として交わり、共に愛し合い、共に祈り合い、共に成長していく必要があるのです。
メッセージを聴くだけなら、インターネットで聞く事ができます。
賛美するだけなら、CDで十分です。
しかし、共に神様の体として生きる事は、他のクリスチャンとの交わりなしにはできません。
教会には色んな人がいますから、気の合わない人もいるでしょう。
器官としての性質も違いますから、ウマが合わないという人もひとりやふたりはいるものです。
しかし、だからと言って、その人はいない方がいいわけではないのです。
同じ事が、他の教会との関係の中でも言う事ができます。
世の中には色んな教会があり、わたし達に合う教会、合わない教会があるでしょう。
でも、ひとりひとりのクリスチャンがお互いに協力しなければひとつの体としての役割を果たす事ができないように、教会同士が互いに認め合い、協力し合う事がなければ、わたし達はキリストの体としてうまく機能する事はできないと思っています。
わたし達日本中の教会の心が一つになったとき、初めてそこにリバイバルが起るのではないかと僕は思っています。
教会の中に、必要のない人はいません。
教会の外にも、クリスチャンになる必要のない人、ならない方がいいような人もひとりもいません。
わたし達の個性、わたし達の賜物は様々ですが、わたし達はその違いを乗り越えて、心をひとつにしなければなりません。
わたし達をひとつにするのは、主イエス・キリストへの愛、それだけです。
Iコリント 13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。