II列王記9:1-10 『⑯目的・手段・動機』 2011/05/15 松田健太郎牧師

II列王記9:1~10
9:1 預言者エリシャは預言者のともがらのひとりを呼んで言った。「腰に帯を引き締め、手にこの油のつぼを持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。
9:2 そこに行ったら、ニムシの子ヨシャパテの子エフーを見つけ、家にはいって、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、
9:3 油のつぼを取って、彼の頭の上に油をそそいで言いなさい。『主はこう仰せられる。わたしはあなたに油をそそいでイスラエルの王とする。』それから、戸をあけて、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」
9:4 そこで、その若い者、預言者に仕える若い者は、ラモテ・ギルアデに行った。
9:5 彼が来てみると、ちょうど、将校たちが会議中であった。彼は言った。「隊長。あなたに申し上げることがあります。」エフーは言った。「このわれわれのうちのだれにか。」若い者は、「隊長。あなたにです。」と答えた。
9:6 エフーは立って、家にはいった。そこで若い者は油をエフーの頭にそそいで言った。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。
9:7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。
9:8 それでアハブの家はことごとく滅びうせる。わたしは、アハブに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまでを、イスラエルで断ち滅ぼし、
9:9 アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。
9:10 犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、だれも彼女を葬る者がいない。』」こう言って彼は戸をあけて逃げた。

今回で列王記のシリーズは16回目になります。
今日取り上げるのは、北イスラエルで10番目の王様となるエフーという人の話ですが、エフーにスポットライトを当てる前に、そのバックグラウンドを理解していただかなければなりません。

皆さんは、アハブ王という王様の事を覚えているでしょうか?
アハブという王様は、悪い王様ばかりと言われる北イスラエルの王様の中でも、最悪の王として知られている人物でした。
アハブがなぜ最悪の王だったのかと言えば、異国人イゼベルと結婚して、邪教であるバアルの信仰をイスラエルに広めたからです。

その神殿には神殿娼婦として若い娘達が働かされ、生贄として赤ん坊が捧げられていました。
邪教でなければよかったという事ではありませんが、神の祭司として選ばれたイスラエルが、神様から離れて邪悪な信仰に身を染めてしまったことを、神様は嘆き、怒り、悲しんだのです。

その後、預言者エリヤや、エリシャたちの活躍によって、バアルの預言者達の多くは倒され、アハブ王もアラムとの戦いの中で、流れ矢に当たって死んでしまいました。
しかし、最悪の王であるアハブ王が死んだ事によってバアル信仰の脅威は去ったかと言えば、残念ながらそうではありません。
アハブの次にはその息子のアハズヤが王となり、アハズヤが病気で死ぬとその弟であるヨラムが王となりました。
そしてアハブの妻イゼベルがいつでも背後で糸を引いてイスラエルを支配していたのです。
黒幕であるイゼベルを倒し、イスラエルに蔓延したバアル信仰に決着をつけなければならない。
その役割を担ったのが、今日の個所の中心人物となるエフーという王様なのです。

① 凶暴な男エフー
エフーは、もともと北イスラエル軍の隊長でした。
彼はアハブ王に仕えていたわけですが、アハブ王家を倒すために油注ぎを受け、反乱を起こすわけです。
この男がまた、神様に王として選ばれたとは信じられないくらい凶暴な男なのです。

預言者エリシャは、エフーを神様に仕える器として任命するために預言者たちを遣わせ、油注ぎをさせるわけですが、彼らに対してこのように言って忠告しています。

9:3 油のつぼを取って、彼の頭の上に油をそそいで言いなさい。『主はこう仰せられる。わたしはあなたに油をそそいでイスラエルの王とする。』それから、戸をあけて、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」

エフーに油を注いで王として任命したら、ぐずぐずしていないでそこからすぐに逃げなさいという訳です。
「すぐに逃げなさい。」って、一体どんだけデンジャラスな奴なんだという感じですよね。
まぁこれはイゼベル達を警戒して言った事かもしれませんが、それにしてもエフーは、それだけ危険な任務を任せる事ができるような男だったという事なのです。

エフーは油注ぎを受けると、すぐさま王としての名乗りを上げ、その足で現イスラエルの王であるヨラムを殺してしまいます。
それだけでなく、たまたまそこに居合わせたユダの王であるアハズヤも殺し、さらに勢いに乗ってアハブ王の妻だったイゼベルも殺してしまうのです。

さらにエフーは、民を集めてこの様に宣言しました。

II列王記 10:18 エフーは民全部を集めて、彼らに言った。「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。
10:19 だから今、バアルの預言者や、その信者、および、その祭司たちをみな、私のところに呼び寄せよ。ひとりでも欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルにささげるつもりである。列席しない者は、だれでも生かしてはおかない。」これは、エフーがバアルの信者たちを滅ぼすために、悪巧みを計ったのである。

エフーはこのようにしてウソをつき、バアルを信仰する人々や、それだけでなくバアル信仰に反対をしない人々もみんな集めて、皆殺しにしてしまったのです。

こうして、イスラエルの人々を苦しめ、真の神様に仕えようとする人々の心を悩ませてきたバアル信仰の脅威は、イスラエルから取り除かれました。
この部分において、エフーはイスラエルのために偉業を成し遂げたのです。

② 目的と手段
しかしこの話は、わたし達に深刻な疑問を投げかけます。
エフーは、バアル信仰を根絶やしにするという目的のためには手段を選ばず、ウソをついたり、疑わしいものは躊躇なく殺すという血も涙もない方法でその目的を全うしました。
これは、本当に神様の御心に適うものなのでしょうか。

神様はこの様に言っているんです。

II列王記 10:30 主はエフーに仰せられた。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」

この部分だけを見ると、これは全て神様の御心であるかのようにも思えます。
神様はこんなエフーを評価している。
ではこれは、正しい事だったのでしょうか?
しかし、その直後には、この様に書かれている事をわすれてはなりません。

II列王記 10:31 しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。
10:32 そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。

エフーの心は神様から離れていて、正しい道を歩もうとしなかった事がわかります。
そう考えると、エフーが本当の意味で神様の御心に適う事ができたとは考えにくい事です。
そしてその結果として、エフーの王朝は4代まで続いたものの、イスラエルの領土自体はどんどん削られていました。
エフーは必ずしも祝福されていたわけではないのです。

エフーの失敗のひとつは、バアル信仰を滅ぼすという目的に目を奪われ過ぎて、手段を選ばなかった事です。
しかし神様は、表面的なものよりもその内側をご覧になられる方ですから、手段も目的と同じくらい、場合によってはそれ以上に重要なのです。

わたし達もまた、目的に目を奪われて本質を見失ってしまう事があります。
学校の成績を上げるという目的のために、心の豊かさを失ってしまったり。
家庭を支えるという目的のために、家族の交わりを見失ってしまったり・・・。
しかし、そこに祝福がない事を、わたし達は何度も経験してきたのではないでしょうか?

そして、“神様のためだ”という目的に目が奪われるあまり、本当に御心に適った方法から離れてしまう事さえあります。
例えば、クリスチャンを増やしたいという思いのあまり、人々に恐れを抱かせたり、逆に聖書の真理をまげて、何でもいいから洗礼を受けてしまえばいいというのは決して正しい事ではありません。
わたし達が献金や奉仕を捧げる姿勢、人との接し方、本当に御心に適う方法はどこにあるのか、考える必要がある事はたくさんあります。
わたし達はいつでも、御心に適う方法を持って目的を果たしていきたいものです。

③ 間違った動機
エフーの第2の失敗は、動機が間違っていた事です。
バアル信仰は、確かにイスラエルから取り除かれる必要があり、エフーはそれを成し遂げました。
でもそれは、エフー自身の野心を叶えるためであって、神様の御心を求めた結果ではありません。
むしろエフーは、神様を利用しようとしたのです。

時として、わたし達もこのように、神様を利用しようとしている事があります。
自分の願いを叶えてもらうために祈り、良い事をする。
祝福された人生を送りたいから、神様を信じる。
実はそれは、本当の信仰から来たものではなく、自分の利益のために神様を利用しようとしているんですよね。
神様は、そんなわたし達の心なんてお見通しです。
それがわかっていても、神様はわたし達を受け入れて下さるかもしれません。
でもそれだけでは、わたし達が本当の喜びを味わう事は決してできないのです。

本当の喜びは、わたし達の思いが実現する所にあるのではなく、神様と共にあるのです。
いつも主と共に生きたダビデは、その喜びをこのように表しています。

詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

この喜びを味わいたいと思いませんか?
そのために必要なのは、わたし達が自分の思いや必要より優先して、神様の御心を求める事です。
そうすれば、わたし達の喜びは、わたし達が何を受けるかではなく、神様と共にあることそのものの中にある事がわかってくるはずです。
そして気がつけば、わたし達の求めていた必要も満たされている事を発見するのです。
この様に書かれている通りです。

マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

何かを受けるためではなく、神様と共にいる喜びに満たされて、純粋な動機で神様の御心を求めるなら、わたし達は正しい方法を用いて、神様の目的を果たす事ができます。
そしてその事が、わたし達に新たな喜びをもたらす事になるのです。

わたし達はすでに、イエス様の十字架による罪の赦しという大きなものを与えられています。
今度は、わたし達が心から主に仕える時なのではないでしょうか?

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