II列王記6:15-17 『⑮あなたの目が開かれる時』 2011/05/08 松田健太郎牧師

II列王記6:15~17
6:15 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

世の中には、色んな物事の見方というものがあります。
イエス様は、わたし達が何をどのように見るかという事に関してこの様に言っています。

マタイ 6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

わたし達が何をどのように見るかという事は、わたし達の全てに影響してくるものです。
わたし達の物事を見る目が健全であれば、わたし達は光を見て心が明るくなり、わたし達の行動も光に満ちたものとなります。
しかし、わたし達の見る目が健全でないなら、わたし達はそこから悪い影響を受けて、外に現れてくるものも薄暗いものになってしまうのです。

結論を先に言うと、わたし達は神様の視点で見る事ができたら、いつでも光を受けている事ができます。
でも、実際にはなかなかそういうわけにはいかなくて、わたし達はネガティブなものに目を向けてしまったりして、心が薄暗かったりするのではないでしょうか。
それではわたし達は、どのようにすれば神様の視点で見る事ができるようになるのかという事を、今日は一緒に考えて行きたいと思います。

① 素のままのわたし達は、神様の視点で見ていない
それでは、今日の聖書箇所をもう一度見てみましょう。
アラムの兵士たちに包囲されている事に気がついた時、エリシャの召使いたちは恐れおののきました。

6:15 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
しかし、エリシャはまったく落ち着き払っています。
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。

同じ危機的状況に面していても、パニックに陥ってしまった召使いと、平安の中にあったエリシャとでは何が違ったでしょうか?
それは、同じ状況の中で何を見ているかという事が全く違ったのです。

預言者エリシャの目には、炎の馬と戦車が辺り一帯と埋め尽くしているのが見えていました。
神様が彼らと共にいて守って下さっているので、どんな数の兵士たちに囲まれていたとしても大丈夫だという事がわかっていたのです。
一方で召使いたちには、天の軍勢の姿などまったく見えていませんでした。
彼らは、霊的なものに対してまったく盲目だったのです。

生まれたままのわたし達は、罪のためにこのエリシャの召使いたちと同じように、霊的な目が開かれていません。
まぁこういう言い方をしてしまうと、何か悟りを開いて開眼しなければならないようなイメージになってしまうかもしれませんが、つまりは神様の視点で見る事ができないという事です。
なぜなら、元々わたし達は罪によって神様との関係が断たれてしまっているので、神様の視点も理解する事ができないのです。

聖書を読んでいても、わたし達は自分勝手な読み方をしてしまい、なかなか神様が言いたい事を読みとれない事があります。
崖の上で遊んでいるような危険な状態にあるのに、見えていないために、思わぬところで罪の実を刈り取る事もあります。
逆に、神様がいて下さるから大丈夫だという状況の中でも、パニックに陥ってしまったり、勝手にあきらめて絶望してしまうような事もあるのです。
それはすべて、神様の視点で見る事ができないために起ってしまう事です。

しかし何より厄介なのは、見えないという事それ自体より、見えていない事に気が付いていないという事ではないでしょうか。
何しろ、見えない事が当たり前なので、わたし達は今見えているものが全てだと思ってしまいがちなのです。
そして全ての事がわかっているつもりで、人の知恵によって他の人を導こうとしてしまいます。
しかしイエス様は、そんな人達に関してこの様な話をしています。

マタイ 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

マンガの世界では、獲物を追いかけながら勢い余って地面がない所に出てしまっても、気がつくまで落ちないで走っているという事があります。
しかし現実ではそういう訳にはいきませんね。
地面がなくなれば、見えていなくても落ちるのです。

自分が見えていないという事がわかっていれば、わたし達は気をつけて歩く事も出来るし、見る事ができるようにと望む事もできます。
わたし達に必要なのは、まず自分が見えていないという事に気がつくという事なのです。

② 神様がわたし達の目を開かれる
では、どうすれば見る事ができるようになるのでしょうか。
詩篇の中で、この様に預言されています。

詩篇 146:8a 主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。

神様が、盲目になっているわたし達の霊的な目を開いて下さるのです。

わたし達の目が見えないという時、わたし達は眼鏡をかけたり、コンタクトレンズを入れたり、場合によっては手術をしたり、義眼をいれるという治療が必要になります。
罪によってわたし達の霊的な目は完全に失われてしまいましたから、わたし達にはそれよりももっと深刻な治療が必要です。
そこには、新しい目が創造される必要があるのです。
目を作る事ができるのは誰でしょう?
義眼ではなくて、本当の目をわたし達に与える事ができるのは、全てのものを創造した神様だけです。
わたし達の霊的な目を開く事ができるのは、ただ神様だけなのです。

福音書の中では、生まれつき目が見えない人の目を開くイエス様の奇跡が何度も描かれています。
ある時には、生まれつきの盲人を癒したのを見た人達が、このように話している言葉が記録されています。

ヨハネ 9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。

この出来事は、ただ単にイエス様が病気を癒したというだけの話ではありません。
生まれつき目が見えない人が見えるようになったという事を通して、ひとつにはイエス様が神様ご自身であるという事。
そしてもうひとつには、イエス様こそがわたし達の霊的な目を開いて下さるお方だという事を表しているのです。
わたし達もまた、イエス様の御前に出て、イエス様に目を開いてもらう必要があります。
わたし達が心からの信仰をもってイエス様に癒してもらう時、わたし達の霊的な目も開かれて、わたし達の見る世界が変わるのです。

召使いの目が開かれた時、彼はエリシャの周りに火の馬と戦車が取り巻いて山に満ちているのを見ました。
わたし達は、この様な形で神様の力を目撃する事はあまりないかもしれません。
しかし、わたし達はこれまで理解できなかった聖書の言葉が理解できるようになり、神様の導きをもっと明確に知る事ができるようになります。
わたし達は避けるべき道と歩むべき道を見出すことができ、神様の守りをもっと実感して、大抵の事では揺るがない平安を得る事ができるのです。

③ 目が開かれれば人生が変わる
半分注がれているジュースを見て、「もう半分ない。」と考える人もいれば、「まだ半分ある。」と考える人もいます。

アフリカに行った靴のセールスマンの話を聞いた事がある人もいるでしょう。
あるふたりの靴のセールスマンが、アフリカのある国に派遣されました。
ひとりはがっかりして帰ってくると、話にならないという事を部長に告げました。
「あそこには靴のマーケットはありません。なぜならみんな裸足なのです。」
ところが、もうひとりのセールスマンはいつまでたっても帰ってきません。
心配になった部長が国際電話をかけると、彼は意気揚々としてこう言ったのです。
「部長、ここのマーケットは無尽蔵です!なぜなら、みんな裸足なのです!」

みんな裸足だから靴は売れないと見るのか、みんな裸足だから靴が売れると見るのか、見る人によって全く違うのです。
そして同じ状況の中で、ひとりの人はあきらめてしまい、もうひとりは偉大な成功を治めるのです。

ただそこにチャンスを見出したり、ポジティブでいるというだけでも大きな変化があります。
ましてや、わたし達の目が開かれて、他の人にはわからない神様の視点で見る時、わたし達の人生はどれほど大きく変わる事でしょうか?

クリスチャンになっても、わたし達を取り巻く環境は変わりません。
わたし達の人生には、相変わらず病気もあり、嫌な人間関係があり、タンスの角に足の小指をぶつける事もあります。
むしろ他の人から理解されなかったり、今までにはなかった誘惑が起ったり、難しい部分も増えるかもしれません。
しかし、それにも関わらず、わたし達の人生は変わるのです。
それは、わたし達の周りが変わるのではなく、わたし達自身が変わるからです。

わたし達の目は、開いているでしょうか?
かつて開かれた目も、今は再び閉じてしまっているかもしれません。
もし、神様の視点に立つ事ができていないと感じるなら、わたし達は求める事ができます。
かつて詩篇の作者は、この様に祈りました。

詩篇 119:18 私の目を開いてください。
私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

今、わたし達もこの様に祈りませんか?
イエス様は、わたし達の目を必ず開いてくださいますから。

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