エズラ4:16 『 エズラ2 敵の妨害 』 2014/09/07 松田健太郎牧師

エズラ4:1~6
4:1 ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、
4:2 ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。「私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえをささげてきました。」
4:3 しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」
4:4 すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。
4:5 さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。
4:6 アハシュエロスの治世、すなわちその治世の初めに、彼らはユダとエルサレムの住民を非難する一通の告訴状を書いた。

先週からエズラ記のシリーズが始まり、今日は2回目です。

ユダ王国を滅ぼし、捕囚していたバビロン帝国がペルシャ帝国によって滅ぼされ、ユダの人々は解放されることになりました。
ペルシャのクロス王は勅令を出し、エルサレムに神殿を再建する許可を出しました。
それによってユダの王族だったゼルバレルが5万人を引き連れ、エルサレムへと帰還します。
イスラエルの第2の出エジプトが始まったわけです。
この最初の帰還の時に帰ってきた5万人の人々は、神殿を再建することに使命感を持っていた人たちでした。
でも多くの人々は、70年の捕囚生活の間に、バビロン帝国での生活がすっかり身についてしまい、ユダ王国に帰る事をためらっていたのです。
私たちクリスチャンもまた、この世での生活や価値観に執着していると、自由にされ、新たな命を吹き込まれても、なかなか新しい環境に入っていく事ができなくなります。
私たちはいつでも、在日天国人であるというアイデンティティを忘れないでいる必要があります。
ここまでが、先週のお話でしたね。

それでは、無事にエルサレムに帰還した最初の人たちに、この後どんな事が待っていたのでしょうか?
今日はエズラ記の3~4章の辺りを共に考えていきたいと思います。

① 神殿の礎
さて、エルサレムに着いた人々は、早速神殿の再建に取り掛かります。
5万人の人たちがいましたから、作業は滞りなく進み、エルサレムに到着した翌年には基礎作りを終得る事ができました。
次にユダの人々は、ダビデ王の規定に従って、礎が築かれたことを喜び賛美したのです。
エズラ3:11 そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。

まだ礎だけとはいえ、破壊された神殿は70年の間放置されていたのです。
瓦礫だけが残ったところがきれいにされ、そこに礎が建てられたのを見るのは、彼らにとって大きな喜びでした。
しかし、そこにあったのは単純な喜びだけではありませんでした。

エズラ3:12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。
3:13 そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。

祭服を着て、ラッパを吹き鳴らして喜ぶ人々の中に、同じくらいの大声で泣き叫ぶ人たちの姿もあったのです。
そこにいた人たちは、喜びの叫びと、悲しみの鳴き声を区別することができなかったと書かれています。
喜びの場にあって、嘆きの涙を流していたのは、最初の神殿を見た事がある老人たちでした。

彼らはなぜ悲しみ、なぜ鳴き声を上げたのでしょうか?
それは、ようやく出来上がった神殿の礎が、自分たちの知る美しかったあの神殿に比べ、あまりにもみすぼらしかったからです。
かつてソロモン王によって建造された壮麗華美な神殿は跡形もなく、今や素人集団によって作られた神殿の土台だけです。
失った栄光の大きさを改めて実感し、年老いた人々は涙を流したのでした。

しかし、同じ時代に活躍したハガイ書には、この事に関してこのように書かれています。

ハガイ2:3 あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
2:4 しかし、ゼルバベルよ。今、強くあれ。―主の御告げ―エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。―主の御告げ―仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。―万軍の主の御告げ―

彼らは、自分たちの失敗の大きさを嘆き、後悔の念と、みじめな気持ちでいっぱいだったかもしれません。
しかし、神様はそのようには見ていませんでした。
私たちは、いつまでも過去の影響にしがみ付き、失ったものの大きさを嘆いていてはいけません。
かつての自分と今の自分を比較して、悲しんでいてはいけません。
たとえ私たちがみじめな気持に打ちひしがれていても、神様は私たちともにいて下さると約束されているのです。

② サマリヤとの戦い
さて、新たな神殿を再建する人々の前に、新たな問題が起こりました。
ユダの北側、かつてイスラエル王国があった場所に住んでいたサマリヤ人が、彼らの元を訪れてきたのです。
サマリヤ人といえば、イエス様がしたよきサマリヤ人というたとえ話や、イエス様が井戸端で女性と出会った、あのサマリヤです。
サマリヤ人は、バビロン捕囚が起こる前、アッシリア帝国によって捕囚された人々です。
そこはかつてイスラエルだった場所でもあり、彼らの中には確かにイスラエル人の血も混ざっていました。
そして、かつてイスラエルだったころの名残としての信仰も、残っていないわけではなかったのです。
彼らは、自分たちも同じイスラエル人として、神殿を共に建て上げ、礼拝を捧げたいと申し出てきました。

エズラ 4:1 ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、
4:2 ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。「私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえをささげてきました。」

一見、素晴らしい申し出であり、労働力を必要としているユダヤ人たちにとっても、裏しい申し出だったのではないかと聞こえます。
しかし、これはそんなに単純で、喜ばしい話ではありませんでした。
1節に書かれているように、彼らはユダヤ人たちの敵だったのです。
ユダヤ人のリーダとなっていた、ゼルバベルとヨシュアは、この申し出を断ります。

エズラ 4:3 しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」

なんだか折角の申し出を冷たく断って、ユダヤ人たちは嫌な人たちに聞こえなくもありませんが、そうではないのです。
サマリヤ人たちの企みは、もともとこの働きの中に入り込み、利用する事にありました。
それを証拠に、その企みがうまくいかなかったサマリヤ人たちは、脅したり、ペルシャ帝国の王たちに手紙を書いて、この神殿の再建をあの手この手で妨害しようとしたのです。

ゼルバベルたちは何とかその難を逃れたものの、サマリヤ人による嫌がらせと妨害工作は、何年もの間しつこく続きました。
そしてその妨害工作によって、ダリヨス王の治世が始まるまでの数年間、神殿建築の工事は、中断を余儀なくされてしまったのです。

③ 神の宮を建てる時
ここで書かれている神殿、神の宮は、私たちクリスチャンにとって何を意味しているでしょうか?
私たちクリスチャンにとっての神の宮とは何ですか?
教会でしょうか?
そう言う事もできなくはないかもしれませんが、聖書にはこのように書かれています。

Iコリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

神の宮とは、クリスチャンとなり聖霊が内に住んで下さる、私たち自身なのです。
エズラ記が伝える歴史は、神の宮を建てようとする時、そこには敵からの妨害が起こる事を教えてくれています。

私たち神の宮が建てられて行くというのは、私たちが霊的に成長していくという事です。
私たちクリスチャンの霊的成長とは何ですか?
聖書の知識が増える事でしょうか?
より熱心な信仰を身に着けていく事でしょうか?
それもないとは言いませんが、私たちが霊的に成長した時に起こるのは、私たちがより私たちらしくなって、神様に創られたままの本来の自分に近づいていくという事です。

私たちはより神様を愛し、より隣人を愛するようになり、自分に与えられている使命を明確にし、忠実に生きていくようになります。

しかし、そこには妨害が起こります。
そして、その妨害は時として激しいものです。
経済的な問題に直面したり、大きなケガをしたり、健康を害したり、人間関係のトラブルに巻き込まれたり、仕事を失ったり、大切な人を亡くしたり、次から次へと問題が起こって私たちを苦しめます。
そのすべてが霊的戦いの結果とは言えないかもしれませんが、私たちの信仰生活とは、戦いそのものなのです。

ユダヤ人たちが、この問題に対してどのように立ち向かっていったかという事を、私たちは来週見ていく事になります。
今は、私たち自身の霊的戦いに立ち向かう方法だけを、御言葉の中から読んで、今日のメッセージを終わりにしましょう。

エペソ6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

今日ここにいるひとりひとりが、主の宮を建て上げる戦いに勝利することができますように。

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