エレミヤ8:4-15 『 エレミヤ4 倒れたら、起き上がらないだろうか 』2014/02/02 松田健太郎牧師

エレミヤ8:4~15
8:4 あなたは、彼らに言え。主はこう仰せられる。「倒れたら、起き上がらないだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。
8:5 なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。
8:6 わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。
8:7 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。
8:8 どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。
8:9 知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。
8:10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に与え、彼らの畑を侵入者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
8:11 彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
8:12 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、彼らの刑罰の時、よろめき倒れる」と主は仰せられる。
8:13 「わたしは彼らを、刈り入れたい。―主の御告げ―しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」
8:14 どうして、私たちはすわっているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで死のう。私たちの神、主が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。
8:15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、いやしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。

① 悔い改めない民
皆さんは、転んだことがありますか?
産まれてから、一度も転んだことがないという人はいないと思います。
そして、転んでから起き上がらなかったという人もいないのではないでしょうか?

私たちの人生には、失敗する時があります。
転んだら、起き上がればいいのです。
僕自身、このメッセージの原稿が、完成間際にすべて消えてしまうというトラブルに見舞われました。
その時は、大変ですが1からやり直せばいいのです。

転んだら起き上がるように、私たちは罪を犯した時には悔い改める必要があります。
その罪から離れ、神様に立ち返るという事です。
神様は、転んではいけないと言っているわけではありませんし、私たちが罪を犯してしまうことも知っています。
必要なのは、私たちが起き上がり、悔い改めるという事なのです。

しかし、ユダ王国の人々は、そうではなかったと神様は嘆いています。
倒れたら、倒れたまま、起き上がろうとしない。
罪を自覚していながら、そこから神様に立ち返ろうとしない。
開き直ってその道を進み、滅びの道を進み続けるのです。

8:7 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。

空の鳥や動物だって、自然法則をわきまえているのに、ユダの人々はそれに従わない。
彼らが神様に立ち返らないという事は、それくらいありえない出来事だと神様は言っているのです。

ユダの人々の罪は何だったでしょうか?
彼らの最大の罪は、偶像崇拝でした。
彼らは当時の王、ヨシヤ王によって、律法に即した生き方を示されたはずでした。
彼らは確かに、神殿での礼拝を再開し、表面的には信仰のある人々として振る舞いましたが、バアル信仰と言う邪悪な偶像崇拝も続け、そこから離れようとはしませんでした。
彼らは、表面的には貞淑な妻を装いながら、身も心も欲望にまみれてしまっていたのです。

ユダの人々には、確かに律法が与えられました。
それは、彼らが正しい道に立ち返るため、神様が与えた道しるべであり、最後のチャンスでもあったでしょう。
しかし人々は、神様に立ち返ろうとしなかったのです。
最後のチャンスでもあった律法を、彼らは自分勝手に解釈し、書き換え、本来意図したものとは違うものに変えてしまいました。
民衆だけではなく、彼らを導くべき祭司や預言者たちが、率先してそれを行ったのです。

神様は、私たちに助けの手を伸ばします。
私たちが傷つき、苦しみ、滅びるままでいいとは思っておらず、進むべき道を示し、教えてくださいます。
しかし、私たちがそれを受け取ろうとしなければ、そこには何の意味もありません。
救いを拒み、受け取ろうとしない人を救う事は、誰にもできないのです。
それが神様でも・・・。

② 滅びゆくまま
神様は、このように言います。

8:13 「わたしは彼らを、刈り入れたい。―主の御告げ―しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」

良い地に植わわっていいれば、木は良い実をならせます。
間違ったところに植わわった木は、やがて枯れてしまうでしょう。
神様に植えられてそこに救いの実を成らせることを期待されているのに、ユダというブドウの木、イチジクの木は、葉が萎れてしまっています。
神様によって良い地に植えられたのに、この木は実を成らせず、葉がしおれているのです。
問題があって枯れてしまおうとしているユダを、神様はもう助け出さず、滅びるままにすると言っているのです。

福音書の中でも、同じようなことがありましたね。
イエス様が空腹を覚えてイチジクの木を見ると、そこには実がなっていませんでした。
イエス様はその木を呪い、するとその木は枯れたという話があります。
それも、同じような事を示すために起こった出来事です。
神様が、変わるつもりのない人を助けることはないのです。

ユダの人々に変わるつもりがなかったことを、この言葉がよく表しています。

8:14 どうして、私たちはすわっているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで死のう。私たちの神、主が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。
8:15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、いやしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。

人々は、彼らが神様に背いた結果、さばきを受けることを知っていました。
「神様は私たちを滅ぼすだろう。」
彼らは落ち込んでこそいますが、だから悔い改めようという発想にはなりません。
彼らは、ひたすら自分の思う道を進み続け、滅びの道を選び続けるのです。

③ その罪は誰のせい
では、どうしてユダの人々は悔い改めることができなかったのでしょうか?
悔い改めることが、どうしてそんなに難しいのでしょうか。
このことに関して、僕は自分自身の中でなかなか悔い改めることができない罪について考えてみました。

もちろん、僕の状況はユダの人々とはずいぶん違います。
彼らは滅びに向かって進んでいましたが、僕はすでに罪の赦しを受け取り、救われていますから。
でも、私たちの内にある行いとしての罪は、放っておいていいものではなく、やはり悔い改めるべきものですよね。
それが僕の成長につながり、神の国を立て上げていく事になるわけです。
でも、できない事もあるじゃないですか?
「愛しなさい」と言われているのに愛せなかったり、「赦しなさい」と言われても赦せないこともあります。
「いつも喜んでいなさい」と言われても、「喜んでる場合じゃね~!」というのもあるわけです。
自分の中にしぶとく残る自己中心や、邪な思いは、簡単になくなるものではありません。
そのような思いが自分の中にあることを、悔い改めるべきだという事はわかっています。
でも、悔い改めることができない。
悔い改めようとも思えない。
それは、なぜなのでしょう?

その中でわかった事があります。
私たちは、罪の原因を自分の外に見出そうとする時、罪を悔い改める事が難しいのだという事です。

あの人は何も悪くないのに、自分の中に偏見があって愛せない。
それは自分が悪いんだなぁと思えれば、悔い改めようと思えるのです。
でも、「愛せない、赦せないのはあいつが悪いからだ」と感じているなら、私たちはなかなかその罪を悔い改めることができません。
むしろ自分は被害者だ、と感じてしまう事すらあります。
少なくとも、その罪の責任は自分ではなく、相手の方にあると錯覚しているのです。

「悪いのは自分ではないので、自分は悔い改める必要がない。」
しかし、愛さない、赦さないという罪を犯しているのは自分自身でもあります。
それを悔い改めるかどうかを決めているのも、やはり自分自身です。
その人を愛せない、赦せない罪の責任は、相手ではなく自分にあるのです。

創世記の一番最初、罪人となったアダムに何が起こったかを見ると、この状態そのものが罪の結果だという事が見えてきます。
アダムが禁じられていた善悪の知識の木から食べた時、神様はこのように尋ねました。
「あなたは、食べてはならないと命じておいた、あの木からとって食べたのか?」
その問いにアダムはどう答えたでしょう?
「あなたが私のそばに置いたこの女が、私に食べさせたのです。」
アダムは、禁断の木の実を食べた罪を、エバのせいにしました。
その背後にサタンの企みがあったことも確かでしょう。
アダムはさらに、その罪の原因を神様が作ったかのようにさえ言っています。
罪の原因は、外側にあるように思えるかもしれない。
しかし、それを食べるという罪を犯したのは、他の誰でもない自分自身です。

私たちは、多くの事を人のせいにします。
自分がこんな性格になったのは、両親の育て方が悪かったからだ。
自分が誘惑に勝つことができないのは、自分が生きてきた環境のせいだ。
自分がいつも喜んでいることができないのは、そもそも神様が悪いからだ。
しかし、自分の罪を人のせいにし続ける限り、私たちがその罪を悔い改める事はできない。
滅びの道を進み続けるか、人生を呪いながら同じ場所をグルグルと廻りつづけるしかありません。
私たちがそこから解放されるためには、それが自分自身の問題だという事を認識して、方向転換するしかありません。
それを、悔い改めと呼ぶのです。

ユダの人々は、自分たちの不幸を神様のせいにし、自分の欲望を満たしてくれる偶像崇拝に走りました。
それが、神様を悲しませることだとわかっていても、自分が変わることは拒み続け、滅びの道を進み続けたのです。

そこから抜け出す事ができないユダの人々のために、救いたくても救いを拒み続ける人々のために、神様は嘆き、悲しんでいます。

エレミヤ8:21 私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。
8:22 乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。

私たちはどうするでしょう。
人を呪い、社会を呪い、環境を呪い、神を呪って今のままの人生を歩むでしょうか?
それとも、自分の過ちに気づき、周りは変わらなくても、今の自分にできる事をして、そこから抜け出していくでしょうか?
私たちは、自分の人生を選択することができます。
皆さんが、倒れても、起き上がる人生を歩むことができますように。

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