出エジプト20:1-17 『私たちを神様に引き寄せる律法』 2007/08/19 松田健太郎牧師

出エジプト 20:1~17
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

普段の生活の中で、僕が牧師をしているという事を話すと、すごく驚かれる事がたまにあります。
「牧師さんも普段着はラフな格好をしていらっしゃるんですねぇ。」と言われるんです。
「・・・すみません、この格好で講壇に立っているんです。」と言うとさらに驚かれるのですが、最近はその反応が楽しめるようになってきました。
でも、こんな格好で牧師をしている僕がすごいのではありませんね。
こんな格好で講壇に立つことを許してくださっている、この教会のみなさんの寛容さがすごいのだと思います。

同じような話の流れで、キリスト教のことに関して質問を受ける事も少なくはありません。
「キリスト教にはどんな戒律があるんですか?」と聞かれたり、牧師である僕が結婚している事をすごく驚く方もいらっしゃいますね。
そう考えると、日本人にとって一般的なキリスト教のイメージは、やはりどちらかというとカトリック的な教会だったり、プロテスタントの中でもピューリタン的な、酒もタバコもダメという禁欲的で清貧な堅物として見られているんだなぁと実感します。
そういうイメージを持った人が、僕みたいな人間でも牧師をやっていると知ったら、確かにびっくりするのかもしれませんね。

さて、私達は今日から数週間の間、十戒を代表とする律法について学んでいきます。
律法というのは、神様から与えられた特別な法律と考えていただいたらわかりやすいでしょうか?
法律、それ自体が厳しいイメージを持っています。
法律を破れば罰を下されるわけですから、怖い事ではありますね。
律法主義という言葉はあきらかに悪い意味として使われますし、私達の自由が著しく制限されてしまうように感じます。

クリスチャンになって間もない女の子がこの様に言っているのを聞いた事があります。
「新約聖書は、愛と赦しにあふれていてすごく好きだけど、旧約聖書は、神様が怖くて厳しい感じがして読みたくありません。」

新約聖書の神様と、旧約聖書の神様は違う神様なのでしょうか?
もちろんそんな事はありません。
どちらも、愛と赦しにあふれた神様であるはずなのです。

来週から十戒をひとつひとつ学んでいく前に、律法がどうして与えられたのか、どうして私たちに律法が必要なのかという事を一緒に考えていきたいと思います。
この学びが、皆さんの中にもあるかもしれない誤解を解いて行く助けになったら嬉しいですね。

① 正しい事がわからない事を知る
私達は、文化というものを第一にするか、人権というものを第一にするのか、環境の保護を第一とするのか、経済的な発展を第一とするのか、道徳倫理がもっとも重要なのか、何を大切なものと考えるかによって、“何が善か”という問いに対する答えも大きく変わってしまいます。

もっと身近な話をすると、家計簿の事情を第一にするなら近所のジャスコやダイエーで食材を買ったらいいのです。
でも、もっとおいしいものを食べたいならデパートで食材を選びます。
時間に余裕がない人は、食材を買って調理するのではなくレストランで食べます。
時間にもお金にも余裕がないなら、吉野家の牛丼かもしれません。
健康を第一に考えるなら、何を選んで食べるかと言う選択肢もまた変わってくるでしょう。
この様に、「全ての事において、何が正しいかはその人の見方次第であって、絶対的に正しい事は存在しない。」と考える方がたくさんいるのです。

なるほど、この世界に神様がいないのだとしたらそうかもしれませんね。
あるいは、私たち個人の価値観だけを言うのであれば、その様に言えるかもしれません。
でも、この世界の中心は私たちではありません。
この世界を創造した神様が中心なのですから、正しさの基準も神様と共にあるのです。

私達人間の常識や価値観は、正しさの基準にはなりません。
私達の中には罪があって影響を与えているからです。
私達は自分の中の常識や正しさと他人を照らし合わせて、「あの人は酷い」という事で腹が立ったりしますが、そもそも自分の中にも正しさはないという事なのです。

原罪は、私たち人間が神様から離れ、勝手な正しさを求めたところから始まっています。
だから私達は、何が正しいのかという事を神様から示されなければならない。
それが、律法の目的。
律法が存在する理由です。

例えば、十戒の中に示されている言葉の多くは禁止事項です。

20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

私たちはこれらの事を神様から示されなければならないのです。
つまり、そう言われなければ他の神々を作る事が悪い事だと認識できない。
だから私たちは真実の神様を見るのではなく、他に神々を作ろうとする傾向があるという事です。
偶像を作る事が神様を傷つけるという事がわからず、神様は目に見えないのだからと当然のように偶像を作り、それを神として崇めてしまう。
私たちの自然のままの考えが神様の御心からかけ離れ、罪を犯しているということを、律法が教えてくれます。

私達に悪気がなくても、罪は罪です。

私たちにそのつもりがなくても罪を犯しているなら、結果としてその実を刈り取る事になります。(ガラテヤ6:8)

私達が不用意に罪を犯し、罪の実を刈り取って痛い目に合わなくてもいいように、神様は人々が進むべき道を指し示してくれています。
律法は私達の生活を制限し、窮屈にするために与えられたものではなく、私達が幸せに生きるために与えられているもの。
律法もまた、神様の愛からきたものなのです。

② 正しい事ができない事を知る
さて、何が正しい事なのかを示されたなら、私達がどのようにして生きていったら正しい人間なのかという事が明確になりますね。
正しい人だけが天国に行くのだとすれば、天国に入るためには律法に従った生き方をすればいいのです。
そうですね?

ところが、そこに大きな問題があるのです。
それは、正しい者でなければ完全に守る事ができないのが律法だからです。
そして、正しい者はひとりもいないのです。
それは、「義人はいない。ひとりもいない。」と書かれている通りです。

パウロはローマ人に宛てた手紙でこのように書いています。

ローマ 3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

律法は神様の正しさを示したものなのに、私達は律法を行う事によって自分の正しさを証明する事ができません。
それは、誰にも律法を完全に守る事ができないからです。
だからこそ、私達が律法と向き合うときに得るのは「自分は天国に行ける」という確信ではなく、むしろ罪の意識であり、自分の無力さを思い知らされる事になります。
これが、律法の厳しい面です。

多くの人たちが旧約聖書を怖いと感じるのはこのような部分ですね。
律法は私達の罪を明らかにするものでもあるからです。
自分の足りない部分、醜い部分、正しくない部分がどんどん示されていってしまう。
そこに例外はありません。

アドルフ・ヒトラーも、マザーテレサも、神様の目には同じひとりの罪人です。
あの人に比べて自分はなんといたらないのだろうと劣等感を持ったり、あの人に比べたら自分の方がましだと優越感に浸るのは本当にむなしい事です。
どちらも罪人であることに代わりはないのです。

私達はそれをしっかり認識していないと、人を裁いたり、自分の罪に鈍感になってしまいます。
もちろん私達は健全な批判というものができなければなりませんが、自分の罪を棚に上げた一方的な批判は何ももたらしません。
それはむしろ、神様を偽りだとする事に他ならないのです。

Iヨハネ 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

③ 罪の赦しと贖いの必要を知る
我々は、全て等しく罪人である。
それは真実ではありますが、それだけで終わってしまったのでは何の希望もありません。
私たちにとって幸いな事に、聖書はそこで終わってはいないのです。

ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

ここに私達の希望があります。
私達には罪があるので、確かに自分自身の行いによって神様に近づく事が不可能です。
しかし、罪のないお方であり神そのものであるイエス・キリストが十字架にかかり、私達の代わりに罪の罰を受けてくださった。
私達がそれを信じて、自分の救いとして受け取るなら、私達はその信仰によって救いを受ける事になるのです。

イエス様が十字架で流された血によって、私達の全ての罪が贖われ、聖められた。
でも、それによって私達が正しい人間になったわけではありません。
私達は相変わらず正しい者にはなっていないにも関わらず、神様によって正しいものとみなされるのです。

聖書全体が、私たちをイエス様の救いへと誘い、私たちに恵を与えています。
来週からはいよいよひとつずつ十戒を取り上げていくことになりますが、どうか行い主義的に律法を受け取るのではなく、その先に示されている救いの恵を受け取ってください。

申命記 5:33 あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。
あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。

詩篇 19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、
主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

みなさんの人生が、喜びに満ちたものとなりますように。

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