出エジプト20:8-11 『主にある安息の中で』 2007/09/16 松田健太郎牧師

出エジプト 20:8~11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

今日は4つ目の戒めを一緒に学んでいきたいと思います。
4つ目の戒めは、安息日を守らなければならないという戒めです。
この戒めは、実は僕にとってはとても難しい戒めなのですが、皆さんにとってはどうでしょうか?

今でもそうですが、イエス様の時代にも、ユダヤ人たちはこの安息日を聖なる日として守り、労働をしない日としていました。
そのために、何が労働に当たるのかという事をこと細かに表し、安息日にはその条件から外れないように気をつけて生活しなければならなかったのです。

一度に長い距離を歩くとそれは労働とみなされるので、数百メートル毎に休憩用の椅子が設置され、休み休み行けば安息日を守っている事になりました。
今でもイスラエルでは、安息日の時にはすべてのエレベーターが自動運転になり、全ての階に止まりながら行き来するだけとなるそうです。
それは、エレベーターのボタンを押すという行為が労働とみなされるためなのです。

その様にして全ての労働をする事が禁じられ、人助けをすることも、安息日を破る汚れた行いだと断定する社会の中で、イエス様はその価値観に真っ向から逆らいました。
イエス様は安息日に病の人を癒し、当時労働として安息日にしてはならないと信じられていた行為を行ったのです。
それを見ても、ただ労働をしないという事がこの戒めの本質的な意味ではないという事がわかりますね。

安息日とは一体何なのでしょうか?
今日はこの安息日の戒めを通して、神様の思いを知り、神様の愛をいっぱい受け止めていきたいと思います。

① 休むことの大切さ
私達の体は、休まなければならないようにできています。
この地上にいる間の私達の体には、色々な部分で限界がありますから、休まないで活動し続けると重大な故障を起こしたり、病気になってしまう事もあるでしょう。
神様から与えられている7日間に1度の休息は、私達の体にとってもっともバランスが取れた休息の時間だと思います。

私達が適度な休みを取らずに長時間活動していると、それに対して体が警告を発し始めます。
肉体的な倦怠感に襲われたり、時には心が鬱状態になって嫌でも働き続けることができないという抑止力がかかるわけですね。
忙しく働いた後に鬱的な気持ちになって落ち込んだりするのは、実は健康な証拠なのです。
時にはそうして心も体も休ませなければ、私達は病気になるまで際限なく働いてしまうからです。

だとすると、「週に一度は休みなさい。」と言うのだから、こんな素晴らしい、こんなに簡単な戒めはないと考える方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、「休みなさい。」と命じてくださっているのは本当に素晴らしいことだと思います。
でも、簡単なことかと言えば、必ずしもそうではないのです。
誰でも自然に、簡単にできる事なのであれば、わざわざ戒めとされる必要はありませんね。
罪人として、自然のままの私達は休む事ができない。
だからこそ、神様が特別に戒めとして、「休みなさい。」と言う必要があるわけです。

私達はどうして休む事ができないのでしょうか?
いや、実際のところ、休みたくない人なんていません。
休む事ができるなら、いつでも休みたいし、いつまでも休んでいたいものです。
でもそういうわけにはいかない。
私達は生きていかなければなりませんから。

私達には責任があります。
生きていくための責任、家族を養っていくための責任、子供たちを育てる責任、そういった責任を果たすためには、休んでいる時間なんてないような気がしてきてしまうのです。

あるいは、私達には使命というものがあります。
私達が生きている理由、夢、生きがい、そういったものに突き動かされるようにして私達は働きます。
人から必要とされ、頼りにされるなら私達はそのためにならいくらでも働こうとします。
誰かに必要とされたいという、私達の根底にある欲求を満たそうとしているのです。

誰かの役にたっているという実感が伴う以上、私達は休んでいるよりも働いている方が安心できるのです。
働かない事は、自分が人から必要とされないことを意味しますから、愛されるためにはもっと働かなければならない。
仕事中毒(ワーカホリック)になったり、過労死するまで働いてしまう人たちは、この様な思いから仕事をし続けてしまうのかもしれません。

ここでもう一度、この第4の戒めを注意深く見てみましょう。
この戒めは、「たまには休んだ方がいいよ。」とか、「休んでもいいんだよ。」という戒めではありませんね。
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」というのが、ここに書かれていることです。
そして他の箇所には、安息日を破るものは民から追い出されなければならないというような厳しいことまで書かれています。
安息日は、確かに絶対に守らなければならないものだったのです。

私達は放っておくと、仕事や行いの中に自分の存在価値を見出して、それだけを生きがいとしてしまうようになる。
その裏にある心理も、仕事を神としたり、自分自身が神となって全てをコントロールしようとする罪根ざしたものに他なりません。

イスラエルの人々は、安息日を聖なるものとして守る事によって、自分が神となって働きすぎてしまうという状況にストップをかけることができたのです。

② 主により頼む事
そうは言っても、「休んでいたら仕事がなくなってしまう。」とか、「休んでしまったら、生活していく事ができない。」と皆さんは考えるかもしれません。
それは当時のイスラエルの人々にとっても、いやむしろ彼らにこそ、もっと切実な問題だったはずです。

いち日いち日をギリギリの所で生活していた彼らにとって、週に1度を働かないという事は生きるか死ぬかを分ける問題となります。
安息日が大収穫のチャンスと重なったら、その日を逃したら多くの野菜や果物がダメになってしまうかもしれない。
安息日の前日までに十分な蓄えを得る事ができなければ、家畜や子供たちが餓えてしまう事になるかもしれない。
しかし、休むことは神様から与えられた使命です。
だからこそ人々は、全てを主が備えてくださるという事を、信じなければならないのです。

安息日のもうひとつの意味がここにあります。
安息日を守るという事を通して、イスラエルの人々は全てを神様に委ね、神様を信頼して生きるという事を、身を持って経験したのです。

イエス様がこの様な話をしたことを、ルカが書き記しています。

ルカ 12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

私達は生きるために労働をしなければならないという責任の部分と、全てを創造し支配する神様を信頼してゆだねる部分とのバランスを取る事は、私達には難しい事です。
イスラエルの人々は、安息日を守る事を通して、その微妙なバランスを学びました。
私達はついつい自分を神様の位置に置いてしまい、全てを自分の力でやろうとしてしまう傾向がありますから、この様な訓練が必要なのかもしれませんね。

③ 私達にとっての安息日
さて、主にある安息というのは、私達にとってはもう少し深い意味もあります。
聖霊を与えられ、神様がいつも共にいてくださるという素晴らしい恵を受けた私達現代のクリスチャンにとって、安息日とはどのような意味をもつのでしょうか?

この戒めの最後の部分に、どうしてこの戒めが与えられたのかという理由が書かれています。
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
そして、ヘブル人への手紙4章10節には、この様な言葉があります。
「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

私達、現代に生き、聖霊を与えられているクリスチャンにとって、主にある安息とはただ単に仕事をしないという事ではありません。
自分の力や努力によって生きる人生を止め、自分のわざを休み、神様の力、聖霊によって歩む生き方をする事こそが主にある安息です。

イエス様は、安息日にも他の日と同じように人々を助け、癒し、食べさせました。
それは、安息日になされるのは人のわざではなく、神様のわざが表れる日であり、イエス様のわざは全て神様から与えられたものだからです。
聖霊が与えられ、私達の内にいつでも神様のわざが現れている私達にとっては、週に1度ではなく毎日が安息日という事ができるのです。

神様が世界を創造したとき、7日目に休んだ事を覚えて、この安息日は定められました。
皆さんは、神様が7日目に創造のわざを休まれたのはなぜだと思いますか?

それは、6日間の創造によって、神様がすべての創造に満足なさったからです。
人間の創造を持ってこの世界を創られた時、神様は嬉しかったのです。
すべてに満足し、喜びみ満たされたからこそ、神様はその日安息されたのです。

してはならないことばかり増えてしまう様な、束縛を受ける事が安息ではありません。
私達は主の安息を、創造された事を喜ぶ日として祝しましょう。
また、私達が背負おうとしている不必要な重荷から解放されて、主の力によって生きることが安息に入るという事なのです。
私達はこの安息の時を、自由を喜ぶ時として受けましょう。

イエス様はこの様に言われました。

マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

みなさんが、主にある安息の中で安らぐ事ができますように。

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