出エジプト2:11-15,3:1-5 『主の時を待つ』 2007/04/22 松田健太郎牧師
出エジプト 2:11~15、3:1~5
2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。
2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。
2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
私達が信仰生活を送る中で、明らかに神様の御心に適っていると思える事なのに、それが実現しないという事があります。
例えば、ある人が救いに導かれる条件がすべて整っているのに関わらず、その人が信仰を受け入れない。
あるいは、自分がするべき仕事や奉仕はわかっているはずなのに、そこへの道が開かれない。
私達が望んでいる道が開かれない時には、本当にがっかりしますね。
神様が全知全能であり不可能がないなら、それと同時に、神様が私達を愛しているというなら、どうしてそれが実現しないのだろうという思いに駆られたりします。
道が開かれない理由に関しては色々あるでしょうが、今日はモーセの経験を通して、その意味の一端を共に学んでいきたいと思います。
今日も御言葉を通して、神様の豊かな恵みと祝福を受けていきましょう。
① モーセの挫折
モーセは40年間をパロの元で、王女の息子として過ごしました。
しかし、その様にエジプト人の元で育てられる中にも、自分がヘブル人(イスラエルの民)であるという自覚もしっかりと育まれていました。
3年の間、自分の本当の母親が乳母となって育て、教育したからかもしれません。
そんなある日、宮廷でヌクヌクと育てられてきたモーセは、ヘブル人がどの様な苦役を強いられ、扱われているかを目にしました。
2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
エジプト人がどれ程ひどくヘブル人を扱っているかを見て、モーセの中では正義感がふつふつと湧き出していました。
自分の同胞であるイスラエルの人々を、このエジプトの圧制から解放したい。
いや、それこそが自分に与えられている使命に違いない。
皆さんは、自分が何のために生まれてきたのか、自分という人間がこの世に創造されてきた意味を考えた事があるでしょうか?
神様は、私達一人一人を、目的をもって創造されたはずです。
私達がその目的と出会う事ができた時、自分の生きがいをそこに見出す事となるのです。
モーセの生い立ちを考えてみてください。
生まれてすぐに殺される運命にあったはずのモーセが殺される事なく、エジプトの王女によって拾われ、育てられ、当時のヘブル人としては望めない様な教育を受ける事ができた事。
全てがこの時のために備えられていたのではないか、とモーセはそのように感じたのかもしれません。
自分の同胞であるヘブル人を助けよう。
その一点にモーセの気持ちは集中しました。
それは確かに、彼の信仰から生まれた思いだった事でしょう。
そして彼は、早速実行に移したのです。
2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
この時は、モーセが突発的に動いた結果でした。
仲間を助けようという思いから、勢い余ってエジプト人を殺してしまったのですね。
しかし、それも仕方のない事だとモーセは思っていました。
そして何よりも、助けた同胞のヘブル人は、理解してくれるに違いないとモーセは思っていたのです。
ここから全てが始まる。
やがて同胞が自らのところに集まり、内側からクーデターを起こしてエジプトを乗っ取ってしまおう。
それが、モーセの計画だったのかもしれませんね。
しかし、事はモーセの思い描いていたようには進みませんでした。
2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。
モーセにしてみれば、「今は仲間通しで争っている場合ではない。イスラエルの民が結束して、今こそエジプトに対して反乱を起こす時だ。」といさめたかった事でしょう。
しかし、思いがけない事をこの同胞は口にしたのです。
2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。
モーセの心は、彼らを救いたいという情熱に燃えていました。
しかし、イスラエルの人々にはその準備が全くできていませんでした。
反乱を起こすどころか、エジプト人を殺してしまった事によって自分達がどれ程罰せられる事になるかという結果の方を恐れていたのです。
みんなの心はひとつにならない。
このままでは、クーデターどころかモーセだけが捕らえられ、犬死にしなければならない事になる。
そう考えたモーセは、エジプトを後にするしかできませんでした。
何がいけなかったのでしょう。
ひとつには、方法がいけませんでしたね。
突発的に、感情に任せてエジプト人を殺してしまった事。
それは自分の思いから先走った事であって、神様のご計画ではありませんでした。
そして何よりも、神様の時は、この時はまだ満ちてはいなかったのです。
私達の思いがたとえ神様の計画と一致していても、先走って自分自身の力によって行動したのでは、それは決して実現しません。
私達は、私達を通して神様が働いてくださる時を待たなければなりません。
私達の肉の力には限界があり、自分の力だけで神様のご計画を成し遂げる事なんてできないからです。
へブル 11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
モーセは、一度エジプトを去らなければなりませんでした。
しかし、それは自分の命が惜しかったからではありません。
その時にモーセは、これが神様の時ではない事を知ったのです。
これこそ御心と思っていた事柄なのに、道が閉ざされてしまう時があります。
でもまだその時でないなら、神様の時が満ちるまで待つことも必要です。
もしそれが本当に神様の御心ならば、それは最善のタイミングで実現し、そこにはより大きな祝福が待っているのだからです。
② 無力を感じる時
モーセは、エジプトの宮廷で教育を受け、40年間の訓練を受けました。
しかし、200万人を超えるイスラエルの人々を導くためには、そこで得た知識は、十分ではなかったのです。
モーセは、異邦人の土地であるミデヤンに寄留します。
そこで、モーセはミデヤン人の女性チッポラと結婚し、荒野において羊飼いとしての暮らしを始めました。この間、モーセは羊飼いをしながら何を学んだと思いますか?
たくさんの羊をどうやって導くか、そういう事もあったかもしれません。
ミデヤンの祭司だったチッポラの父親から、祭司としての役割を学んだという事もあったでしょう。
しかしミデヤン人が信じていたのは、イスラエルの神ではなく土着の信仰でした。
モーセにそこからが学べる事がそれほど多くはなかったでしょう。
その上、モーセは当時もっとも学問も進んでいたエジプトで帝王学を学んできました。
そこで直接的に学んできた知識に比べて、ミデヤンの田舎で過ごす永遠とも思える時間、それは一見とても無駄に思える時間だったことでしょう。
ミデヤンの地で、モーセはさらに40年という月日を費やす事になります。
それは私達にとって、永遠とも思える月日ですね。
それはモーセにとって、祈りと忍耐の時でした。
それこそモーセに不足していた、とても大切な要素だったのです。
それは、モーセが自分自身の力に頼らず、神様の力により頼む事ができるためでした。
そして、イスラエルの人々にとっても、彼らの神様の助けが必要だという事を理解するための年月でもあったのです。
神様がモーセを用いられる時には、モーセはすでに80歳になっていました。
常識的に考えれば、ふつう80歳は全ての働きから引退していなければならない年齢です。
もう、自分の力を頼りにできず、次の世代の人たちにがんばってもらわなければと感じる年齢なのではないでしょうか?
しかし、その時こそ、神様がモーセをイスラエルの指導者として召すタイミングだったのです。
IIコリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
モーセが80歳になった時、モーセは肉体的には弱くなっていた事でしょう。
しかしその時こそ、神様がモーセの弱さの上に、強さを表すことができる時だったのです。
③ 神様に近づく
皆さん柴とは何ですか?
柴とは普通、何に使われる木か、ご存知でしょうか?
「お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。」
“しば刈り”と聞くと、僕達の世代に馴染み深いのは芝生を刈る作業です。
芝刈り機というものもありますね。
僕は子供の頃、お爺さんはどうしてわざわざ山に行って、芝を刈らなければならなかったのか不思議で仕方がなかったものです。
柴というのは、薪木に使われる木です。
だからよく燃えるんですね。
モーセはある日、羊を連れて、神の山として知られるホレブ山脈に来ていました。
そこで、モーセは柴が燃えているのを見つけたのです。
しかし、その柴は不思議な事に、激しく燃えているのに燃え尽きる事がない。
いつまでもそのままの形を整えて燃えているのです。
この時、神様はようやくモーセの前に現れて、今こそイスラエル開放のために動き出すときだと語りかけられたのでした。
私達は、モーセの目の前に起こった出来事ほど、大変な奇跡を目にする事はないかもしれません。
ですが、私達の日常の中に神様が示して下さる恵みは、決して少なくはないはずなのです。
私達はそれに気づかなかったり、気づいても、神様が見せて下さった力にばかり意識が言ってしまって、それがどんな意味を持っているかということに、思いを寄せません。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
私達にもこの態度が大切です。
私達を助け、導きを与えてくださったその事だけに目を取られるのではなく、神様がその出来事を通して、私達に何を語りかけようとしているのか、読みとる必要があるのではないでしょうか?
そこに、私達が福音を語るべき人が与えられているかもしれません。
私達が次になすべきことのヒントが、ひとつの出来事の中に示されているかもしれません。
いずれにしても、モーセはその出来事にだけ関心を払って素通りするのではなく、そこに表されている事をもっと知ろうとして近づいた時、神様の声を聞いたのです。
「モーセ、モーセ」と、神様はモーセを名指しで呼び出しました。
神様は、「おいお前」とか、「そこの人間」という形で私達を認識していません。
私達ひとりひとりを、名指しで知り、愛し、私達自身でさえ知らないような事まで知ってくださっているお方なのです。
皆さんをも、神様は名指しで呼ばれます。
しかし神様の御心、神様の計画は今みなさんが持たれている予定とは違うかもしれません。
だからと言って、私達はがっかりしたり、あきらめたりする必要はありません。
それが御心なのであれば、神様の最善の時に必ず実現する事ですし、御心がそこにないのであれば、もっと素晴らしいご計画が、皆さんの上に待っているはずだからです。
「モーセ、モーセ」と名指しで呼び出されたとき、モーセは応えました。
「はい、ここにおります。」
いま、この様な応答が求められています。
私達も神様の時が来るまで静かに待ち、時が満ちた時には「はい、ここにおります。」と応える信仰を持っていたいものです。
今の私達には難しいかもしれません。
しかし、必ずその時が来ることを私達は知っています。
主の時が満ちるのを、私達は共に期待して待とうではありませんか。