創世記13:2-18 『信仰は借りられない』 2006/05/28 松田健太郎牧師
創世記 13:2~18
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。
ある人が、素晴らしい牧師と出会いました。
この人はこの牧師の人柄に感動し、その人がいる教会に通い始めました。
その教会に来ている人々はみんなこの牧師を尊敬していましたし、教会に来ている人々も素晴らしいクリスチャンばかりでした。
ある日礼拝の終わりに、牧師が会衆を前にしてこのように問いかけました。
「みなさん目を閉じて、心を安らかにして祈りの時を持ちましょう。
今日この礼拝に参加されている方の中には、クリスチャンではない方もいらっしゃいますが、イエス・キリストの十字架の赦しは、あなたのためのものでもあるのです。
もし今日、あなたがイエス・キリストを心の王座にお迎えし、キリストの救いに預かりたいと決心をされた方がいらっしゃったら、手を上げていただけませんか?」
目を閉じて手を上げる何人かの人々の中に、その人の姿もありました。
しかし、この人は心の中ではこのように思っていたのです。
「この先生の言う説教は難しくてさっぱりわからん・・・。
救いとか、十字架とか、罪の赦しとかいうのはよくわからないけれど、でも他にも手を上げてる人がいるようだし・・・。
それにこの先生、話は難しいけど素晴らしい人だし、この人の言う事だったら間違いがなさそうだから、よし、私もクリスチャンになろう!」
この時手を上げた方々は、そのあと皆の前に招かれ、その場ですぐに洗礼を受けました。
さて、みなさんに質問します。
この人は救われているんでしょうか? いないんでしょうか?
この問いに対する明確な答えを、すぐに出す事はできません。
教会によっても、あるいは教会の中でも意見が分かれてくる難題ですから、皆さんの中でも答えが分かれるのは当然の事です。
結局救いとは神様が決める事であって、僕たちがある人の救いを決定する事なんてできません。
私達がそれを判断するということではなく、聖書を通して語りかけて下さる神様の声に耳を澄ませつつ、そのことを共に学んでいきましょう。
① 借り物の信仰
今日はアブラムの話から少し反れて、アブラムの甥のロトに注目していきたいと思います。
アブラムが神様に導かれ、行く宛ても判らないまま旅立ったとき、アブラムの父や兄弟が挫折する中でロトだけが、アブラムについて行きました。
先日お話したように、アブラムの旅立ちは信仰の冒険でしたから、ロトはアブラムにとって信仰の仲間だったという事ができるかもしれません。
ロトがアブラムについて旅立った時の事は、聖書の中ではあっさりと書かれています。
創世記 12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
あまりにサラリと書かれているので見落としてしまいますが、ここにアブラムとロトの決定的な違いが描かれています。
アブラムは主の声を聴き、それに従い旅立ちましたが、ロトはアブラムについて行っただけだったという事です。
ロトにとっては、アブラムの言う神様の導きというのはよく判らなかったんです。
ロト自身は神様の声を聞いたわけでもなかったし、神様に突き動かされて旅立ったわけではありませんでした。
それでも他の兄弟や親戚のように留まるのではなくて、アブラムと共に当てもない冒険に旅立ったのは、アブラムを心から慕っていたか、アブラムが聞いた神様の声に何か真実があることを感じたかどちらかでしょう。
まさに冒頭でお話した人と同じような状況だったわけです。
でも、私達の信仰だってこんな風だったんじゃないでしょうか?
情にあついのが私達日本人です。
キリスト教のことは何か外国の宗教のような気がしてよく判らないけど、パイク先生やヤング先生の人柄や熱心さに心を動かされて、あるいは両親がクリスチャンだったから、あるいは妻がクリスチャンだからクリスチャンになったという方は少なくないはずです。
何しろ僕自身も、好きだった女の子がクリスチャンだったからという理由で洗礼を受けてしまったのですから。
とは言っても、“皆そうなんだからそれで良いんだ”で済むだけのお話ではないのも事実です。
私達が信仰者として信仰の冒険に旅立った以上、私達自身の信仰がどの様なものであったとしても、信仰者としての祝福が与えられ、同時に信仰者としての試練をも受けることになるからです。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
先週のメッセージで学んだことですが、アブラムの失敗によって、結果的に彼らは多くの財産を得ることになりました。
そしてアブラムが得ることになった財産は、実際に試練を経験したアブラムだけのものではなく、一緒にいたロトも受けることになった訳です。
しかしせっかく与えられた財産でしたが、表面的には祝福を受けたように見えた財産も、今度はその財産が新たな試練を生み出していくことになります。
貧しい時には助け合わないと生きていけなかった彼らですが、豊かになってくると互いが邪魔になって争いが起こってきてしまったのです。
もしそこに確かな信仰があるなら、貧しさも豊かさも、共に神様からの祝福となりえます。
しかし神様からの祝福も、私達が真の信仰なしに受け取ろうとするなら、せっかくの祝福が試練にしかならないという事があるのです。
私達は神様からの祝福を受ける準備ができているでしょうか?
あるいは試練を乗り越えていくための準備はできているのでしょうか?
② 人に依存した信仰
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
これまでロトは、叔父であるアブラムについていき、アブラムの決断に任せて歩んできました。
しかし、いつまでも頼りにしているわけにはいきません。
いつか別れが来て、自分自身の信仰で決断しなければならない時が必ず来ます。
私達は礼拝に出て、牧師のメッセージを通して神様の御言葉を学ぶ機会を毎週持っています。しかし、いつまでも牧師を通してしか神様の声が聞けないようではいけません。
私達は日々の生活を送っていく時に、すべてを牧師に相談するわけにはいかないからです。
例え事ある毎に牧師や他のクリスチャンに相談をするとしても、いつその人たちと別れなければならなくなるか判りません。
自分で決断しなければならない状況に置かれた時、私達はそこに信仰の試練を受けます。
その時の選択次第で、私達に与えられるものが祝福にも、困難にもなるのです。
アブラムとの別れによって、ロトは信仰を試される時がきました。
ロトはどのような選択をしたでしょうか?
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
ロトは目に見えるものによって自分の決断を下しました。
物質的な欲望からでた肉的な決断で選択されるのは、いつも罪と堕落の世界です。
気をつけていただきたいのは、ロトは信仰がないことの罰によってソドムが与えられて苦難にあったのではなく、自分からトラブルの種であるソドムを選び取ったのだという事です。
本来罪人である私達は、例えクリスチャンとして新たに生まれ変わっていても、いつも正しい選択をし続けることはできません。
時には失敗するのも当然でしょう。
しかしだからこそ、普段から信仰の目を見開いて、神様の御言葉に耳を澄ませ、祈りを通して神様の御心を知る習慣を持っていなければなりません。
牧師や先輩クリスチャンの忠告を聞くとも大切です。
しかし、私達には直接神様との交わりを持つ特権が与えられているのです。
せっかく与えられたその特権を使わなければ、本当に必要な時に神様の御心を見誤り、ロトのように大きな選択ミスをしてしまうことになるかもしれません。
今、生活の中で皆さんがしようとしている選択は、神様の御心にかなっているでしょうか?
もう一度そのことに思いを馳せて、ご自分で神様に尋ねてみたらいかがでしょうか?
③ 信仰の自立
日本人のクリスチャンの多くが、3年以内に教会から離れていってしまうという統計があります。
この国にクリスチャン人口が全然増えないのは、決してクリスチャンになる人が少ないからではなく、信仰を失ってしまう人があまりに多いのです。
この様な状況が起こってしまうのは、情に篤い日本人の特性のために、私達の信仰が神様ではなく人に結びついてしてしまっているためです。
大好きだった牧師が別の教会に異動になってしまったら、教会から離れてしまう。
信用していた牧師の本性が見えてしまったから、信仰を失ってしまう。
自分を教会に導いてくれた人との仲が悪くなって、クリスチャンを辞めてしまう。
人に結びついている信仰は、人との関係がなくなれば簡単に切れてしまうのです。
神様に直接繋がっている信仰は、ちょっとやそっとの試練に負けて切れてしまうことがありません。それは、神様が私達に直接語りかけて、忘れかけていた祝福を思い出させて下さるからです。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた
ロトが目を上げて見渡した時に見たものは、肉的な繁栄と罪への誘惑でした。
神様に結びついているアブラムが、信仰の目を上げて見渡した時に見えてきたのは、目の前に広がる、すでに与えられた神様の約束と、祝福でした。
どうか皆さんも今、目を上げて見渡して見てください。
皆さんの目の前に広がっているのは、この世の誘惑でしょうか、それとも神様の祝福でしょうか?
今の皆さんがロトのような信仰を持っていたとしても、決して落胆しないで下さい。
先ほども言った様に、殆どの人が信仰を持った時には、ロトのような信仰だからです。
私達が望むなら、私達は少しずつ神様の助けによって成長していくことができます。
下心でクリスチャンになった僕が、今は牧師になっているんですから、保障します。
また、求道中の皆さんは救いや十字架を完全に理解できないからといって恐れないで下さい。全部理解するまで待つ必要なんてありません。
クリスチャンかどうかということは、知識によるのではなく、信仰によるのですから。
一緒に成長していきましょう。
借り物ではなく、いつかは本当の信仰に・・・。