創世記15:1-6 『あなたなら信じますか?』 2006/06/18 松田健太郎牧師
創世記 15:1~6
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
皆さんが自分の人生に不安を持つのはどの様な時でしょうか?
何も心配しなくても良い人生を一生送ることができれば素晴らしいでしょうが、厳しい現実を前にして、時には不安になってしまうこともあるのではないでしょうか?
経済的な不安、健康の不安、老後の不安、考え始めたらきりがありませんね。
では、信仰上の不安というのはどうでしょうか?
自分は本当に救われているんだろうか?
天国に行けるのだろうか?
あるいは、私達が信じている神様は本当に正しい神様なのだろうか?
辛い事が続いたり、問題が解決しないことが長かったりすると、私達の信仰は揺らいでしまう事があります。
今日の箇所でアブラムが直面していたのも、そのような信仰の危機でした。
アブラムがどのようにしてその危機を乗り越えたのか、今日は一緒に学んでいきたいと思います。
① 来たれ、論じ合おう
ケドルラオメル王との戦いに勝利し、ソドムの王を通して誘惑する悪魔との霊的な戦いを切り抜けた後、アブラムは極度の不安の中にいました。
ケドルラオメル王たちはいつ報復のために戻ってくるかわからない。
しかも、自分が王になるチャンスを棒にふり、自分のものにしてもいいと言われた戦利品まで全部返してしまった。それだけの財産があればいざと言うときに役立つだろうに・・・。
そのような不安や後悔の中にあるとき、私達の信仰は容易に揺らいでしまいます。
そこで神様は、まずご自分からアブラムに語りかけて下さいました。
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
私達は恐れに駆られると、まず自分で身を護ろうとしてしまいます。
そんな時に私達は、萎縮してしまったり、必要以上に攻撃的になったり、自己卑下して深い傷を受けないようにしようとします。
私達はそのようにして自分の身を護らないと生きていけませんでした。
でも私達はもう恐れなくていいと神様は言います。
神様が私達の盾となり、護って下さるからです。
そして神様は、ソドムの王になるよりも、また戦利品をすべて自分のものにするよりももっと大きな報いが与えられる事を保障して下さいました。
しかし、そんな言葉もアブラムの心を動かしません。
15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
どんなに慰められても、どんなに嬉しい事を保障してくれても、約束が果たされていない。
「神様は私の子孫を、地のチリのように増やして下さると約束して下さったのではありませんか?
でも、見てください。私には、この年齢になってもまだ子供ひとり与えられない。
このままでは私達の規定に従って、私のしもべエリエゼルが後継ぎとして認められてしまうでしょう。
神様、あなたがどれ程私の耳に心地よい約束をして下さっても、それが現実のものとならなければ何の意味もありません。
神様、見てください。このままでは、私の奴隷が跡取りになるだけですよ。」
これは、言ってみれば神様への挑戦です。
神様のすることに文句をつけて、もう楯突いているに等しい。
こんなことしようものなら、“ゴロゴロピッシャーン!”と、突然天から雷が降ってきて真っ黒焦げにされてしまうんじゃないか。
なんて、そんな風に思っていませんか?
これは罰当たりなことではありません。
不信仰でもない。
この時アブラムは、確かな信仰をもって、神様と言い争っているのです。
同じような状況に置かれた時、私達ならどうするでしょうか?
「子供が与えられないのか御心だったんだね。」とあきらめてしまったり、「神様なんて本当はいないんだ。」と信仰を失ってしまうのではないでしょうか。
納得がいかないのに、いくら黙って従っていても、わだかまりが残るだけです。
それでは、神様と本当の意味で親しくなることは決してありません。
人間関係もそうですよね?
私達現代人はすぐに争いを避けてしまいがちですが、納得のいくまでとことん話し合ってみて、初めてお互いのことが本当に理解できるようになるものです。
もちろん感情をぶつけ合うだけではお互いの溝が深まるだけですが、“喧嘩するくらい仲が良い”という言葉が表しているように、もやり方次第では関係をさらに深くする喧嘩だってあるのです。
皆さんも時には、神様と良い喧嘩をしてみてはいかがでしょうか?
② 信仰による義
アブラムの訴えに対する神様の返答は、決して理屈に合ったものではありませんでした。
約束なんて信じられないというアブラムに対して、神様はまた新たな約束をしたのです。
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
「エリエゼルではない。あなたの血筋から生まれて来る者が跡を継ぐのだ。」と言い聞かせた後、神様は外へと連れ出しました。
そこに広がるのは満天の星空です。
この時アブラムが目にしたのは、今私達が見ることができるような、東京の星空ではありません。(東京の星空では片手で数えられてしまいますね。)
当時のイスラエルで見える星空というのは、私達の想像を絶する絶景だった事でしょう。
皆さんは満点の星空というのを見たことがあるでしょうか?
僕は小学生のまだ低学年の時、台風開けの夜中2時頃、名古屋大阪間の高速道路を走る車の中から見た記憶があります。
まさに気が遠くなり、吸い込まれてしまうような星空を、眠さも忘れ、車の窓に顔をへばりつけていつまでも見ていました。
後にも先にも、あんな星空は見たことがありません。
そんな星空を見上げ、神様が語る言葉を聞いたとき、アブラムはその星空を眺めながら何を思ったのでしょうか?
そこに見たのは、神様が創造した広大なる宇宙です。
永遠に広がるその宇宙を、神様が創造した。
その神様が、今アブラム自身に語りかけ、約束しているのです。
「星を数える事ができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムには、これだけで十分でした。
アブラムは確信したのです。
今見えている全てのものを創造したのは、神様だ。
その創造主である神様の約束ほど、確かなものはないと。
だから彼は、それを信じました。
そして神様にとっても、彼が信じたというそれだけで十分だったのです。
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
アブラムは、神様が約束を果たす結果を見る前に、神様の言葉を信じました。
それは、彼に約束したこの神様こそ、宇宙の創造主であり、真実な方なのだという事、そしてその神様が彼を愛してくれているという事がわかったからです。
その信仰によって、アブラムは正しい者として神様に認められました。
これを少し難しい言葉で、信仰義認と言います。
行いによってではなく、信仰によって私達は神様に正しいものと認められ、救いを受けるというのが、私達クリスチャンの信仰の根底にあるものです。
パウロは手紙の中でこの様に言っています。
ローマ 4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
ガラテヤ 3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
私達は、イエス様が十字架にかけられた時、その場にいたわけではありません。
イエス様が復活したのを、この目で見たわけではありません。
天に昇られてから2000年経った今も、イエス様はまだ再臨されていません。
それでも主に信頼し、十字架によって罪が贖われたことを信じるなら、私達はその信仰によって義とされるのです。
これがモーセの時代に起こった事でなくてよかったですね。
もし神様がモーセの信仰を義としたという事になっていたら、私達は十戒を始めとする律法を守らなければ、救われたという確信を持つ事ができなかったでしょう。
しかし、神様はアブラムの信仰だけを見て、義と認められたのです。
私達も同じです。
十字架を信じるなら、私達はもう救われているのです。
③ 主はあなたと共にいる
ここで私達が忘れてはならない事があります。
アブラムが信仰を確かにした後も、約束された子供はすぐに与えられなかったということです。
神様の度重なる約束の後も、神様がアブラムと特別な契約を結んだ後も、アブラムが明確な信仰を持って神様に義とされた後も、目の前にある現実は少しも変わらない。
私達もそうではないでしょうか?
イエス様を救い主として信仰告白した後も、洗礼を受けた後も、何も変わったように思えない。
日々の生活は楽にならないし、苦しい時に神様が“じゃ~ん”と現れて、危機から救ってくれるということもない。
クリスチャンになったらたちまち良い人になれると思っていたのに、相変わらず意地悪はするし、陰口はたたくし、あいつはやっぱり赦せない。
救われたらこの心の傷は癒されると思っていたのに、この病は取り除かれると思っていたのに、少しもよくなる兆しがない。
それでも少しずつ足を進め、失敗しては後戻りし、それでも神様を信じて生きていく中で、ある日突然、少しずつ変わり始めている自分に気がつくのです。
それは、私達がどんなに辛い時も、私達はもうひとりではなく、神様が常に一緒に歩んでいて下さるからです。
最後にひとつの詩を紹介したいと思います。
有名な詩ですのでご存知の方がほとんどかもしれません。
「砂の上の足跡」というタイトルの詩です。
ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。
すると彼の人生の道には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。
「神様、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番あなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」
神は答えられた。
「わが子よ。私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時は私があなたを背負って歩いていたのだ」
皆さんは、信仰によって神様と繋がっているでしょうか?
もし繋がっているなら、どんなに辛い時でも、主が共に歩んで下さっています。
不安な時でも、苦しい戦いも、神様が盾となって下さっています。
そのことを決して忘れずにいてください。
その信仰が神様の喜びとなり、神様と皆さんの距離は、ぐっと近づいていくはずです。