創世記1:25-28 『人生の目的を知るために』 2008/04/06 松田健太郎牧師
創世記 1:25~28
1:25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
2006年2月に発表されたギャラップの世論調査によると、日本人の人生観とはこのようなものだったそうです。
① 85%は自分が何のためにいるのかわかっていない。
② 48%は自分の現状にまあまあ満足している。
③ 36%の人は他の人になりたいと願っている。
④ 11%の人は生まれてこなかった方がよかったと思っている。
⑤ 4%は人を殺してもいいと思っている。
2年経った現在、耳にするニュースの内容を聞いていると、このパーセンテージは決して少なくはなっていないと感じますね。
多くの方々がこのような人生観をもってしまう現実の背景には、いのちや自分の人生というものに意味を見出す事ができていないという事があるのではないでしょうか。
私達は学校で、「生命の起源」を学びます。
そこで私達は、何もないところから偶然に生命が生まれ、それが偶然に進化を重ね、そして今私達が生きているのだと学びます。
それが科学であり、真実であると教えられるわけです。
私達の命の起源が偶然の産物だということは、私達の存在そのものが偶然でしかないと言う事です。
そして、その様なメッセージを私達は学校だけではなく、メディアを通してしつこいくらい聞かされているのです。
進化論的人生観は、他にもさまざまなメッセージを私達の無意識に植え付けます。
「生きることは競争だ。」
「進化は、勝ち残ったものだけに与えられる特権である。」
「もし競争に負けるなら、お前たちには価値がない。未来がない。」
もうひと昔前になりますが、少年が子供を殺して、子供の首を切断するという悲しい事件がありました。
その時その少年は、「人もゴキブリも一緒だ。」と言っていたんです。
進化論的価値観の中では、確かに人もゴキブリも同列です。
全てが偶然でしかないのであれば、人生には意味も、目的もありません。
快楽だけを求めていればいい。
私達の価値観で、正しいとか間違っているなんて言っても、何の意味もない事になります。
実は私たちは、これまでの教育でこのような価値観を叩き込まれ続けてきたのです。
でも、私たちは本当に偶然生まれてきただけの存在なのでしょうか?
私たちもまた生存競争の中にあって、勝ち残らなければ価値のない存在なのでしょうか?
聖書の答えはNoです。
希望を持ち続けることが難しい現代、私たちは何度もこの所に立ち返って、自分がどういう存在なのかを確かめる必要があるのではないでしょうか。
① 偶然ではない
創世記 1:1 初めに、神が天と地を創造した。
この言葉から始まる聖書は、この世界にある全てのものが偶然によって生まれたのではない事を示唆しています。
全てが何もないところから、神様によって、緻密な計画を持って、そして愛を持って創造されたということです。
皆さんの中に、偶然に生まれてきた人はひとりもいません。
何かの間違いでも、確立の問題でも、不幸な出来事でもなく、自然のいたずらによるのでもありません。
例え皆さんの両親が、「あなたは望まれて生まれてきたのではない。」と言ったとしても、神様が望んで、神様の計画によって生まれてきたのです。
詩篇 139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
全てが計画され、決められてしまっているんじゃ、おもしろくないじゃないか、という人もいるかもしれません。
いえいえ、神様の計画は私達の想像をはるかに超えて素晴らしいのです。
イエス様がこんな譬話をされていますね。
魚が欲しいと言う子供に、蛇をもってくるような父親がいるだろうか?
たまごが欲しいと言う子供に、さそりを持ってくる父親がいるだろうか?
失敗ばかりする私達でさえ、愛する我が子のためには最善のものを与えようとするのだから、全能の神が私たちに与えようとしてる最善は、全てに勝る素晴らしいものなのです。
Iコリント 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
私たちの罪は、神様が与えようとしている最善のものを受け取ろうとしないで、自分の目先の思いによって欲しいものを手に入れようとしてしまう事です。
自分が生まれてきたこと自体に意味がないのだから、欲しいものを手に入れる事が最善のことと思えます。
むしろそれ以上に正しい事なんてない。
だから私達は、自分の人生に満足する事ができません。
欲しかったものを手に入れてもなお空しい。
決して満たされる事なく、ただ欲望が増していくだけです。
そして、人生には意味を見出す事ができない・・・。
目の前に、今まで見た事もない機械があったとして、それが何の機械なのかを知るためにはどうしたらいいでしょう。
取り扱い説明書を見るか、その機械を作った人に聞けばいいのです。
そうすれば、私達はその機械が作られた目的を知るだけでなく、実際にその機械を使う事だってできるようになるでしょう。
聖書が、私達の人生の取扱説明書です。
そして何よりも私たちに必要なのは、私たちを創造して下さった神様に立ち返る事です。
私達が神様に立ち返るとき、私達は自分が何のために生き、どのようにして生きればいいのかを知る事ができるのです。
② 神のかたちとして
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
先ほど読んでいただいたこの聖書箇所に、私達人間と言う存在を理解するためのひとつの手がかりがあります。
私達は、神様のかたちに造られた存在なんだという事です。
“神様のかたち”ってどういう事ですか?
神様には手と足が2本ずつあって、目と鼻と口があるという事ですか?
そう言えばマンガに出てくる神様ってなぜか、真っ白いひげで杖をついたおじいさんですよね? そういう事ですか?
いいえ、神様はおじいさんではありません。
神のかたちに造られたという事、これを簡単に言うなら、神様が私たちをご自分の性質に似せて造られたという事です。
私達人間は、自分自身で判断できる理性と知性をもった存在です。
私達人間は、道徳をわきまえる事ができる存在です。
私達は神様や人とコミュニケーションをとり、愛し合う事ができる存在です。
私達は自由意思をもって行動する事ができる存在です。
そして私達は、肉体は滅んでも、魂は永遠の中で生き続ける存在です。
みなさん、炊飯器にご飯を炊く機能がついているのは偶然だと思いますか?
そんなわけはありませんね。
私達がこのような存在として造られたのには、もちろん理由があり、意味があるのです。
私達が創造された目的を無視して生きようとするなら、そこにはムリが生じてきます。
炊飯器でだって、壁に釘を打ち付ける事はできるかもしれないけれど、あまりうまく打ち付ける事はできませんし、そんな事をしてたらいつか壊れてしまいますよね。
皆さんの人生は、どこに焦点が向けられているでしょうか?
私達が目を向け、耳を傾けるべきなのは、自分自身ではありません。
私達が焦点を定めるべきは、この世界ではありません。
私たちを造り、この世界の全てを創造した神様に向ける事こそ、私達の人生を知る鍵なのです。
③ 壊れた私達
今、皆さんは造られた目的のままに生きていることができていないかもしれません。
理性が与えられているはずなのに、感情に流されてしまう。
道徳は判っているのに、誘惑に乗って道徳から外れてしまう。
神様や他の人を理解する事ができず、愛する事ができない。愛がわからない。
色々な価値観に縛られて自由を失ったり、自由の名の元に完全にコントロールを失ってしまう。
新約聖書にたくさんの手紙を残したパウロでさえ、あるべき自分から離れた事をしてしまう自分の性質に苦悩しています。
ローマ 7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
私達が生まれたままの自分では自然に目的を果たす事ができないのは、私達の中に罪があって、全てをあるべき形から引き離しているからです。
言ってみれば、炊飯器が壊れてしまって、スイッチを入れてもご飯を炊く事ができない状態にあるようなものです。
だからパウロは嘆くのです。
パウロ 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
炊飯器なら買い換えればいいのです。
でも、私たちの人生は簡単に買い換える事ができるようなものではありませんね。
だから私達は、私たちを造ってくださった神様の元に行くのです。
聖書にはこのように書かれています。
ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
神様に至る道はひとつしかありません。
でも、誰にでも通る事ができる道です。
もしみなさんが、まだ神様の元に行き着いていないなら、イエス様を今日救い主として受け止め、救いの道を歩み始めてみてはいかがでしょうか。
聖書のすべてを理解している必要などありません。
炊飯器の仕組みがわからなくても、説明書どおりに取り扱えばご飯を炊く事ができるように、神の子であるイエス様を救い主として受け入れるだけでいいのです。
神様が、皆さんが歩むべき道を明確に示してくださいますように。