創世記24:1-16 『イサクの結婚』 2008/08/24 松田健太郎牧師
創世記 24:1~16
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。
24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。
24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。
しばらく続いたアブラハムの物語も、今日でお終いになります。
このアブラハムの物語を締めくくるのは、約束の子であるイサクのための嫁探しの話なんですね。
実を言うと、2年前に創世記からお話した時には、この箇所からメッセージをする事はありませんでした。
それは、この話が直接的な福音の話からは少し外れた部分だからです。
しかし、どこをとっても大切なメッセージがあるのが聖書です。
そういう意味では、長くこの教会に来てくださっている方にも、新鮮な気持ちでメッセージを聞いていただくことができるのではないかと思いますが、今日はこの箇所から読み取るべき事を、分かち合って行きたいと思います。
さて、アブラハムは彼が乗り越えなければならなかった数々の試練を乗りこえて、祝福に満ちた老後を過ごしていました。
多くの土地を所有したわけでもなく、決して贅沢な暮らしができたわけではありませんが、これと言って何かに不自由する事もなく、必要なものはすべて備えられた暮らしをする事ができていたのです。
しかし、最愛の妻のサラも127年の生涯を終えたのを見届けると、自分にも死期が近づいているのを、アブラハムも感じ始めたのではないでしょうか。
死を意識し始める中で、アブラハムには、ひとつだけ気がかりなことがありました。
それは、おくてでのんびり屋だったイサクが、なかなか妻を娶ろうとしないと言う事です。
妻がいなければ子供をもうけるという事もありません。
しかしイサクが子供を作らない限り、子孫が星の数ほどに増え広がるという神様の約束も成就しない事になります。
折りしも、母親を失ってイサクは傷心の中にあります。
そんな中でアブラハムは、イサクのために妻を捜すことも彼に与えられた役割だという事に思い立ったのです。
① アブラハムの願い
アブラハムは、もっとも信頼が置けるしもべを呼び寄せました。
これは、かつてイサクが与えられる前、養子に迎えて後を継がせようと思ったしもべ、エリエゼルだったかもしれませんね。
アブラハムはこのしもべを呼び出し、イサクの嫁探しという重要な使命を与えたのでした。
アブラハムが命じた、イサクの妻のための条件は、ふたつあります。
第一に、カナン人の中からではなく、アブラハムの故郷に行って親族の中から妻を見つけると言う事です。
それは、偶像を崇拝しているカナンの娘からではなく、まことの神様を信仰している人の中からイサクの妻を選ぶべきだとアブラハムが信じたからです。
妻の信仰というのは、実はとても大切な事ですね。
アダムが食べてはならないはずの善悪の知識の実を食べてしまったのは、妻であるエバの言葉を聞いたからでした。
そしてアブラハム自身も、妻の信仰が揺らいだ時に、大きな失敗をしています。
神様は男性の助け手となるために、女性を創ったと聖書には書かれていますね。
それは、女性が男性のヘルパーでしかないと言う事ではなくて、男性にとって女性のサポートが、どれ程大きくて大切なものであるかという事を現しているのです。
女性の男性に対する影響力は、それ程大きなものとなり得ます。
カナンの人々がもっていた信仰は、とても淫らで腐敗したものでしたから、なお更その妻から受ける影響が危惧されたのかもしれません。
これからの子孫に信仰が継続されていくためにも、イサクの妻はまことの神様を信じる人でなければならなかったのです。
アブラハムが明示したもうひとつの条件は、イサクが妻の住む土地へ移住するのではなく、妻となる女性を必ずカナンに連れて帰るということでした。
それは、神様がアブラハムに示した約束の地はカナンだったからです。
約束の地がカナンであるのに、イサクがここから離れなければならないのでは、御心から反れている事になります。
カナンを出なければならないという必然性が出てきた時点で、それが神様の御心ではありえないという事です。
カナン人の中から嫁を探せばどれだけ簡単だったでしょうか。
あるいは、よい女性がいたらその人に合わせてその人の故郷に住むと言うなら、どれだけ可能性も広がったでしょうか。
しかし、アブラハムはこれまでの経験と信仰に従って、神様の御心を第一にしました。
それは、神様のご計画に必要なものは、全て神様が備えて下さるはずだという信仰がアブラハムの中にあったからです。
私達の思いから来る事であれば、それが良い結果になるとは限りません。
しかし、それが神様の計画であれば、それは必ず最善であり、それに必要なものは神様が備えてくださるのです。
私達も、そのように神様を信頼する事ができたらいいですね。
② しもべの祈り
さて、私達がしもべの立場だったとしたら、このような厳しい条件の中でイサクの嫁探しをするのは、相当に難しい事だったかもしれません。
しかし、アブラハムに長年仕えてきたこのしもべは、伊達に年を取ってきたわけではありませんでした。
アブラハムに仕えていく中で、彼は信仰者として実に多くのことを学んできていたのです。
彼がナホルの町に着いて最初にしたのは、まずは祈るという事だったのでした。
24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
このしもべに驚かされるのは、目的の人に今日会わせて下さいと言うその信仰の大胆さと、ただでさえ厳しい嫁探しの条件をさらに引き上げたと言う事です。
しもべは、神様がイサクのために定めていた女性として、未知の旅人にいっぱいの水を飲ませ、さらにラクダも飲ませてくれる人を導いてくださいと祈ったのでした。
このしるしは、ただ単に御心の女性を見分けるためのものではありません。
イサクの妻の条件として、見知らぬ人に配れる優しさを求めたのです。
そこに求められているのは、山上の説教でイエス様が教えた事と同じです。
右の頬を打つ者に左の頬を差し出し、下着を取ろうとしている者に上着をも与え、1ミリオン強制する元と共に2ミリオン行く(マタイ5:40~42)という愛を求めたのです。
さて、神様は時を越えて、全ての必要を満たしてくださる方です。
彼がまだ祈り終わらないうちに、ひとりの女性が水がめを肩に乗せてやって来ました。
創世記 24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。
24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
ラクダは、一度に80リットルの水を飲むのだそうです。
そしてこの時このしもべが連れていたラクダは10頭。
単純に考えても800リットルの水を汲み上げるために、リべカは井戸から何回水をくみ上げなければならなかったのでしょうか。
その労力を考えると、このしもべがイサクの妻として求めていた条件がどれだけ大変な事だったかがわかるでしょう。
このしもべが挙げた条件のハードルは、そんな女性が本当にいるのだろうかと思わせるほど、高い条件だったのです。
この女性の名前はリベカと言いました。
そして彼女はアブラハムの兄ナホルの孫でした。
その時このしもべは、彼女こそ神様が示してくださったイサクの妻であることを確信したのです。
神様はこのふたりを、常識ではありえないタイミングで出会わせたのでした。
神様は、私達が祈るからその結果、行動を起こして願いを叶えてくれるのではありません。
私達の祈りをきくずっと前から私達が何を求めているかをご存知で、それを備えてくださっているのです。
それは、マタイの福音書にこの様に書かれている通りです。
マタイ 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
③ 祈る事の大切さ
イサクがどのようにしてリベカと結婚するに至ったのかという話は、イエス様が生まれるために大切な経緯ではありますが、聖書を読めばそのまま判る事でもあります。
ですから今日は、この箇所から学ぶべき事にもっと焦点を当てて見て行きたいと思います。
私達がアブラハムやしもべから学ぶ事ができるのは、彼らの祈りの姿勢です。
ひとつには、アブラハムがそうだったように、私達が神様の御心を第一として求めていくという事です。
そしてもうひとつは、しもべの祈りがそうだったように、私達が具体的に祈り求めるという事です。
さてそれにしても、もし神様が私たちに必要なものを知っているのであれば、私達が祈ってそれを知らせる必要などないのでしょうか。
これは、実に多くの方が一度は考える事のようですが、皆さんはどの様に考えていらっしゃるでしょうか。
多くの場合、私達は祈る時、自分が何を願っているのかと言う事を神様に伝えようとするのではないかと思います。
でも、祈りの本当の目的は、そこではないように思うのです。
聖書にはこの様な言葉が書かれています。
ヤコブ 4:2bあなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
また、この様な言葉もあります。
Iヨハネ 5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
私達は、自分の願いを神様に伝えて、神様の心を変えるのではありません。
私達が祈る事の大きな目的のひとつは、祈りを通して私達の思いが神様のみこころに近づいていくためのものです。
祈りを通して変わっていくのは神様ではなく、実は私達の方なのです。
神様は、私達が何を必要としているのかと言う事を私たち以上によく知っています。
でも神様は、それをそのまま私たちに与えるのではなく、私達がそれを求める事を待っている事があります。
私達がそれを求める前に与えられても、それが必要だという事に気がつけなくて受け取ろうとしないかもしれません。
あるいは、自分の求めているものと違えば、本当はそれが自分の求めているものより素晴らしいものであっても、私達が喜んで受け取る事ができないからです。
何より、私達の思いが神様に近づいていくという事は、神様と思いが通じ合っていく事に他ならないのです。
ですから、私達の思いがもっと明確になるためにも、心の中だけで祈るのではなく、祈りを声に出して言葉にする事は大切な事です。
それは、神様がそれを聞き取るためではなく、私達の思いが明確になるためなのです。
また、その祈りは、私達が心から求める事でなければなりません。
神様は私達の表面ではなく、心を見られるお方ですから、私達がどれだけ表面的に模範的な祈りをしても、それが私達の心から求める祈りでなければ何の意味もないのです。
そして、誰かに祈ってもらうのではなく、自分自身が心から求めて祈らなければならない事もたくさんあるのです。
皆さんが神様と最後にお話したのはいつだったでしょうか。
ぜひ、もっと頻繁に祈り、もっと身近に神様を感じていただきたいと思います。
私達は祈りを通した神様との対話を通して、神様の思いと近づいていき、内側から変えられて行くのですから。
祈り方が判らないと言う方もいらっしゃるでしょう。
来週からのメッセージは、祈りについてお話をしていく事になりますから、ぜひ9月の終わりまでしっかりとメッセージを聞いて受け取っていただきたいと思います。