創世記29:10-30 『神の訓練の時』 2008/10/19 松田健太郎牧師

創世記29:10~30
29:10 ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。
29:11 そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。
29:12 ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。
29:13 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。
29:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。
29:15 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」
29:16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
29:17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。
29:19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。
29:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
29:21 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」
29:22 そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。
29:23 夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。
29:24 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
29:25 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」
29:26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。
29:27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」

29:28 ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。
29:29 ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。
29:30 ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。

アメリカにあるヒューストン警察局が、『子供を非行に走らせる12の方法』という冊子を発行しているそうです。
その本にはこのように書かれています。

1. 幼いころから、子供が望むものは何でもすべて与えましょう。そうすることで、子供はこの世界は自分に何でも与える責任があると信じて大人になります。
2. もし子供が悪い言葉を口にしたら、笑ってあげましょう。そうすれば子供は、自分はかわいいので何をしても許されると思い込みます。
3. しつけや強制を一切してはいけません。子供が大人になるまで何もせずに待ち、成人したら「さあ何でも自分で決めなさい。」と言って人生に送り出します。
4. 「あなたは間違っている。」という言葉を決して使ってはなりません。それは罪悪感を心に育てるものだからです。それさえ気をつけていれば、子供がやがて大きくなって車を盗んで逮捕されたとき、「生まれた環境が悪い」とか「自分は社会から虐げられている」と信じるようになります。
5. 散らかしたものは全部大人が片付けてあげましょう。子供のために何でもやってあげれば、子供はやがてすべての責任を他人に押し付ける人間として成長します。
6. 子供が何を読むか、何を観るかは自由に決めさせましょう。食器やグラスはきれいにしても、子供の心はごみで満たしておくべきです。
7. 子供の見ている前で、頻繁に夫婦喧嘩をしましょう。そうすれば、やがて家庭が崩壊したとしても、子供はさほどショックを受けずにすみます。
8. 子供がお金を欲しいと言ったら、躊躇せずにすべて与えましょう。自分でお金を稼ぐなんて考えさせてはなりません。
9. 食べ物、飲み物、その他望むものは何でも与えて満足させてやりましょう。欲望はいつでも満たされるべきだという事を教えることができます。
10. 近所の人、教師、警察官が何か子供に注意しても、あなたは必ず子供の側に立ってあげましょう。ほかの人たちはあなたの子供の事をよくわかっていないのですから。
11. やがて子供が本当に大きな問題を起こしてしまったら、あなた自身の身を守るために「あの子のために何もしてやれなかった私が悪いのです。」とあやまりましょう。
12. 以上のことをすべて守っていれば、あなたの人生には間違いなく悲しみが待っています。さあ、その悲しみに備えましょう。

警察がこのような皮肉たっぷりの書き方で冊子を作ったりするところが、さすがアメリカですね。
しかしこの冊子は、子供をいま喜ばせることだけがその子の将来を幸せにするわけではないという事を教えてくれています。
叱られたり、散らかしたものを片付けるのはとても嫌な事ですが、そのような経験なしには正しいことを学んでいくこともできないのが子供たちでもあります。

聖書にはこのように書かれています。

ヘブル 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
父なる神様も、愛を持って訓練を与えて、私たちを成長させて下さいます。
今日は、ヤコブが経験しなければならなかった様々な出来事を通して、神様が私たちに与えてくださる訓練の事を学んでいきたいと思います。

① 罪の刈り取り
ヤコブは生まれ故郷を離れ、お母さんリベカの薦めに従って叔父さんにあたるラバンの住む村にやってきました。
慣れない長旅の中で相当つらい思いをして来たのでしょう。
井戸のほとりで出会った女性が、図らずもラバンの娘ラケルであると知ると、ヤコブは喜びのあまり声をあげて泣いてしまうほどでした。

やがてヤコブは、7年間ラバンの下で仕える事を条件に、ラケルとの結婚を約束しました。
このラケルのために、ヤコブは一生懸命に働いたんですね。
愛する人のために働く7年は、あっという間に過ぎていきました。
そして待ちに待ったラケルとの結婚。
ラバンは皆の衆を集めて、祝宴を催しました。
そして夜になると、ふたりは初めての夜を共に過ごすわけです。

次の朝、ヤコブは目を覚ますと、ようやく掴み取った幸せを確認するように、隣に眠るラケルの顔を覗き込みました。
しかし、抱きかけた幸福感も一挙に吹き飛ばされて、ヤコブは仰天して飛び起きる事になったのでした。
「ラケルじゃない!」
そこにいたのはラケルではなく、彼女の姉レアでした。
昨日ヤコブが結婚式をあげ、初めての夜を共にしたのは彼が愛するラケルではなく、なんと姉のレアだったのです。
結局ヤコブは、ラケルと結婚するために、さらに7年をラバンの下で働く事になりました。

ラバンに騙された!
でもそれだけではありません。
結婚させられたレアが、声色を変え、同じ香水をつけ、しぐさを真似、手を尽くして彼を騙したのでした。
さらに言うなら、この事には自分が愛するラケルも協力していたはずです。
故郷から離れてやっとたどり着き、無報酬で7年間働いてきた報いがこれでした。
何という裏切りでしょう。
どうしてこの様な目にあわなければならいのか・・・。

でもね、よく考えてみてください。
ヤコブが元々、故郷を離れなければならなくなったのはどうしてでしたか?
ヤコブが兄エサウの欲望を利用して騙し、目の見えないお父さんに“弟”なのに“兄”ですと嘘をつき、手をつくして騙した結果だったのではないでしょうか。
今ヤコブは、ラケルと結婚したいという欲望を利用して騙され、自分は“姉”なのに“妹”ですと嘘をついて騙されたのです。

この経験を通してヤコブは気づかされるのです。
自分が兄と父にした仕打ちが、どれほど彼らを傷つける裏切りだったのかという事を・・・。


こうしてヤコブは、レアとラケルというふたりの妻を持つ事となりました。
それだけではなく、その後ヤコブは、ふたりの奥さんの奴隷との間にも子供を授かりますから、ヤコブは言わば4人の奥さんをもっていたのです。
ヤコブ以外にも、旧約聖書の中にはたくさんの女性を妻にした人がたくさんいます。
そこで、一夫多妻制は聖書的な結婚制度である、と言い始める人たちが出てくるのです。
イスラム教もそうですが、統一教会の文鮮明や、モルモン教の一部の人たちはそれを実践していますね。
しかし聖書にはこの様に書かれているのです。

創世記 2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
アダムの助けはエバだけで、他にも助けが必要だったとは書かれていませんね。

ふたりがひとつとなる事、それこそ神様が示された正しい結婚のあり方です。
しかし、私たち人間は堕落して、罪の影響を受けた存在です。
人々がやがて神様が意図したことから離れ、自分の都合や欲望に従った慣習を作っていったのです。
旧約聖書の時代、彼らが生きていた文化ではたくさんの妻を持つことも普通のことでしたが、それが正しいわけではまったくありません。
むしろ多くの場合、一夫多妻の文化が彼らに悲劇をもたらしたのです。

ダビデ王は、自分の子供たちが互いに争い、殺しあうのを見ることになりました。
ソロモンは1000人もいる妻達の影響を受けて神様から離れ、信仰を失い、偶像を拝むようになっていきました。
アブラハムが奴隷ビルハとの間に授かったイシュマエルの子孫であるアラブ人は、現代にいたってもイサクの子孫であるイスラエル人を悩ませ続けています。

ヤコブの結婚生活もまた、悲劇にあふれたものでした。
ラケルとレアは互いに嫉妬し、祝福として与えられた子供の数を競い、醜い争いを繰り返しました。
そして子供たちの間にもその争いが継承されていくことになるのです。

彼は後に、自分の人生を振り返ってこの様に言っています。

創世記 47:9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

彼が自分で撒いた罪の種は、彼にそう言わせるほど手ひどく、彼を苦しめることになりました。
しかしそれはただ苦しみをもたらしたというだけではありません。
幸いの妻を失うきっかけにもなり、彼を後々まで苦しめることとなった12人の子供たちは、やがて12の部族へと増え広がって行き、子孫が星の数ほどになると言われた神様の約束を、現実のものへと近づけていったのです。

私たちの目には、ただ苦しみであり、受けて当然の罪の報いとしか見えないこともあります。
しかし、その経験の中で私たちが悔い改め、主に立ち返るとき、神様はその様な中からも祝福を与えることができるのだという事を忘れないでいただきたいのです。
それは、聖書にこの様に書かれてある通りです。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


ヤコブが故郷を離れた時、その旅は、エサウの怒りがさめるほんの少しの間のはずでした。
しかし、家を出てから帰るまでに、何と20年の月日が経ってしまったのです。
ヤコブは長子の権利と祝福という権力と喜びを手に入れるつもりだったのに、その後の20年間を、彼は奴隷同然の扱いの中で生きることとなったのです。
それもまた、あまりと言えばあんまりの境遇だったかもしれません。
彼が手に入れようとしたものの正反対の事を、彼は味わうこととなったのですから。
しかし、彼が20年間ラバンの下で学んだのは、ただ卑屈になったり、人や境遇を恨む事ではありませんでした。
人の上に立とうとした彼は、20年の間、人に仕えることを学ばされたのです。

イエス様がこの様に言われたのを覚えていらっしゃるでしょうか。

マタイ 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

イエス様のこの言葉を実践させられるかのように、偉くなろうとしていたヤコブは、仕えることを学ばされました。
そしてその経験を通して、彼の人格は練られ、神様の選びと祝福を受けるに相応しい器へと変えられていったのです。
故郷から離れて、20年間を過ごしてきたある日、ヤコブは神様に語られました。

創世記 31:3 主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」

それは時が満ちて、ヤコブが十分に整えられ、彼にもともと与えられるように計画されていた長子の権利と祝福に相応しくなったからではないでしょうか。

今、試練の中にいる方はいらっしゃるでしょうか?
それはもしかしたら、私たちが訓練され、祝福に相応しい人として作り変えられているプロセスなのかもしれません。
私たちがこの苦難から少しでも離れる秘訣は、主に素直になって主に従うという事です。

私たちが頑なになって過去の自分に縛られるほどに、私たちは同じ試練を経験し、同じ罪からなった実を刈り取り続けることになります。
その経験を通して神様が何を示そうとしているのかを知り、悔い改めるべきことは悔い改め、私たちはより主の身丈に近づいて成長するようにと導かれています。

試練は陣痛と同じです。
そこには耐え難いほどの痛み、苦しみが伴うこともありますが、その後には素晴らしい祝福が待っています。
皆さんが、今の試練だけに目を留めて絶望するのではなく、信連の中で整えられて主に従い、やがて来る祝福に希望を持つことができますように、心から祈ります。

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