創世記30:25-43 『祝福の理由』 2006/10/01 松田健太郎牧師
創世記 30:25~43
30:25 ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。30:26 私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」
30:27 ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」
30:28 さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」
30:29 ヤコブは彼に言った。「私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。30:30 私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」
30:31 彼は言った。「何をあなたにあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。30:32 私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。30:33 後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」
30:34 するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」
30:35 ラバンはその日、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真黒のものを取り出して、自分の息子たちの手に渡した。30:36 そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼っていた。
30:37 ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、30:38 その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがついた。
30:39 こうして、群れは枝の前でさかりがついて、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産んだ。
30:40 ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真黒いものとに向けておいた。こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。
30:41 そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。
30:42 しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。
30:43 それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。
さて、今日もこれまでのお話の復習から始めたいと思います。
双子の兄エサウから長子の権利を騙し取ったヤコブはエサウからの恨みを買い、追われるようにして家族のもとを去りました。
やがて目的地だった叔父ラバンの家にたどり着きます。
そこで出会ったラバンの娘ラケルに恋し、結ばれるために7年ラバンのもとで仕えますが、騙されてラケルの姉、レアと結婚してしまいます。
その後念願のラケルとも結婚するのですが、この時点で14年間、ヤコブは叔父ラバンの下で奴隷同然の働きをする事になってしまいました。
これが、先週まで進んだお話だと思います。
① 聖書の中の一夫多妻
ヤコブはふたりの奥さんを持っていた事になりますね。
その後ヤコブは、ふたりの奥さんの奴隷との間にも子供を授かりますから、そういう意味ではヤコブは4人の奥さんがいたのと同じです。
ヤコブ以外にも、旧約聖書の中にはたくさんの女性を妻にした人がたくさんいます。
そしてそれが子孫繁栄という祝福をもたらしたかのように見える。
実際にイスラエルの12部族は、ヤコブが4人の妻達(奴隷も含めて)との間に授かった12人の息子達から始まっています。
そこで、人間は一夫多妻制の方がいいのだと言い始める人たちがでてくるのです。
統一教会の文鮮明や、モルモン教の一部の人たちはそれを実践していますね。
聖書に出てくる偉大な信仰者達はたくさんの妻を持っている。
だから一夫多妻は正しい事であり、一夫一婦制は人間が作り上げた制度に過ぎないというわけです。
しかしこの様な教えは、まったく聖書的ではありません。
聖書が教えているのは、人類が罪によって堕落した存在だという事です。
旧約聖書の登場人物達も間違いなく、一人残らず、罪によって堕落した状態にあります。
だからたくさんの失敗をするし、罪も犯すのです。
一夫多妻は、この当時の社会では常識でした。
そしてそれは、堕落した人間の常識だったということです。
旧約聖書の人々は、神様に従った結果としてたくさんの妻をめとったわけではなく、常識や欲望に従ってたくさんの妻を持ったのです。
神様がアダムに与えたのはエバだけで、他にも助けが必要だとは言いませんでした。
“そしてふたりは一体となる。”と、聖書には書かれているのです。
聖書の登場人物がたくさんの妻を娶った時、そこには必ず悲劇がもたらされています。
ダビデ王は、自分の子供たちが互いに争い、殺しあうのを見ることになりました。
ソロモンは1000人もいる妻達の影響を受けて神様から離れ、信仰を失い、偶像を拝むようになっていきました。
アブラハムが奴隷ビルハとの間に授かったイシュマエルの子孫であるアラブ人は、現代にいたってもイサクの子孫であるイスラエル人を悩ませ続けています。
ヤコブの結婚生活もまた、悲劇にあふれたものでした。
ラケルとレアは互いに嫉妬し、祝福として与えられた子供の数を競い、醜い争いを繰り返しました。
そして子供たちの間にもその争いが継承されていくことになるのです。
世界中の多くの文化の中で一夫多妻の時期を通ってきた事は確かです。
また、現代では一夫一婦の制度を取っている国においても、例えばアメリカでは結婚と離婚を繰り返し、一度に結婚する相手はひとりでも、生涯を見てみれば多くの妻や夫と結婚しているのと変わらないという状況が生まれています。
日本では「不倫は日本の文化だ」などと言って、制度上結婚している相手はひとりでも、一度に何人もの相手と結婚しているのと同じような状況が起こっています。
そういう意味では、堕落した人間にとって、一夫多妻は自然の成り行きなのかもしれませんね。
② ラバンとヤコブの確執
30:25 ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。
30:26 私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」
ラケルにとって初めての、そしてヤコブにとっては11人目の息子が産まれたころ、ヤコブはラバンに、「そろそろ故郷に帰りたい。」と申し出ます。
ということは、この時点でラバンに仕える期限である14年が経ったことですね。
しかし、ラバンはそう簡単には行かせてくれません。
30:27 ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」
30:28 さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」
神様がヤコブに与えられた祝福によって、彼もまた祝福を受けていたということを、ラバンはよく理解していました。
信仰をもたないラバンも、神様がヤコブを祝福しているということはまじないによって知っていたんですね。
そんな神様の力を認めていながらも、ラバンは決して神様にひざを屈めることなく、自分の利益が増えることだけを願って、まじないと、偶像に頼り続けたのです。
ラバンはヤコブに、報酬を与えるから自分のもとに居続けるようにと言って、ヤコブが去る事を認めようとしませんでした。
ラバンにまったく聞く耳が無い事を知ったヤコブは、作戦を切り替えます。
ヤコブはこの様に応えました。
「わかりました。お給料などいただくには及びません。ただお義父さんの群れの中から、黒毛の羊と、ぶち毛とまだら毛の山羊を全部下さい。それを報酬として下さるなら、またあなたのために喜んで働きましょう。」
色で分けると、羊と山羊の毛を見れば、誰のものかということがすぐにわかります。
これならばヤコブがラバンの羊の世話をしていても、密かに盗んで自分のものにする事もできないことになります。
羊といえば普通は白、山羊は濃い茶色か黒が普通です。
黒い羊だとか、ぶち毛やまだらの山羊なんてそれほどいるわけではありません。
そんなわずかな報酬で済むならば、ラバンにはなんの痛手にもならないのです。
こんな好条件は他にはないだろうと、ラバンでなくても計算できるようなことでした。
ラバンは喜んで引き受けたのです。
ところが、それだけでは済まさないのがラバンの恐ろしい所です。
ラバンは自分の群れから黒い羊やぶち毛、まだらの山羊を分けると、それを自分の息子達のものにしてしまいます。
「さあ、この群れから自分の分を取りなさい。」とヤコブに渡されたのは、真っ白い羊と、黒や濃茶の山羊ばかり。
その群れの中にはヤコブのものとなる羊や山羊は一頭もいませんでした。
ラバンの底意地が悪いにも程がありますよね。
ヤコブはまったくゼロからスタートしなければなりませんでした。
しかし、このラバンの羊と山羊の群れから、黒毛の羊やぶち、まだらの山羊が生まれたら、それは全てヤコブのものになります。
ヤコブは決してそこではあきらめることはなかったのです。
さて、ヤコブがとった作戦はこうでした。
ポプラ、アーモンド、すずかげの若枝の皮をはいで、その白い所をさかりがついた家畜にいつも見せるようにしたのです。
この当時の人々は、交尾の時に見た色が、家畜の毛色に影響を与えると言われていたんですね。
事実、その枝の前でさかりがついた群れは、ぶち毛やまだらのものを産みました。
そのやり方が飲み込めてくると、今度は強そうな家畜にはその枝を見せ、弱そうなものには枝を見せないようにしました。
すると、強い家畜がぶち毛やまだらの毛で生まれてきて、普通の羊や山羊は弱いものばかりになっていきました。
ヤコブの家畜の群れは強くなり、ラバンの家畜は弱いものばかりの群れとなっていったのです。
みなさん、交尾をしている家畜に白いものを見せると、その白いのが毛色に出てくるってご存知でしたか?
この時には枝の白い部分を見せたので、その白い筋の部分が毛色に出てきたわけです。
ということは、ハート型の模様を見せたら、ハート柄の家畜が生まれてくるんでしょうかね?
もちろんそんなわけはありません。
ハート型を見せようが、何を見せようが、それが生まれてくる子供の毛色に影響を与えるはずはありませんね。
こんな事には、何の科学的根拠もありません。
ただの迷信です。
では、なぜそんな迷信が現実のものとなったのでしょうか?
それはそこに神様が特別な介入をもって働いて下さったからです。
この様にしてヤコブは、神様の介入によって危機を乗り超えて行きます。
ヤコブは自分が知恵と策略によって財産を得たと思っていたかもしれませんが、それはただひたすら神様の力によりました。
それは、虐げられたものをそのままで捨てておかない神様の愛によるのです。
③ にもかかわらず
私たちの中にはどうも、神様の力を法則のようなものとして考えようとする傾向があるように思います。
「こうすれば神様はこのようにしてくださる。」という方程式のようなものが欲しいわけです。
良い事をしたら神様に愛される。
悪い事をしたら罰があたる。
この様に祈ったら祈りが聞かれる。
いい人には祝福が与えられ、悪人は滅ぼされる。
こういう価値観で聖書を読んでいくと、聖書がまったく判らなくなっていきます。
自分の身に起こる全ての良いことが、自分の行いから来ているわけではありません。
先週、“罪の実を刈り取る”というお話をしましたが、全ての苦しみが罪の行いから来ているわけではないのです。
神様からの祝福を自分の行いとの対価によって見出そうとすると、「あいつはあんなに悪い事をしているのに祝福を受け、私はこんなに神様のために働いているのに、ちっとも幸せにしてくれない。神様は意地悪だ。」という事になっていきます。
神様からの祝福を受ける方法。
前にもお話しましたが、それはひとえに、神様からの祝福を祝福として受け取るということに他なりません。
それを聖書では信仰とよんでいるのです。
ヤコブは、がんばった分の対価として祝福を受けたのではありません。
ヤコブはあれだけ努力して長子の権利と父からの祝福を受けたにもかかわらず、それらを手放さなければなりませんでした。
ヤコブはあれだけ一所懸命仕えたのにもかかわらず、ラケルではなくレアと結婚させられました。
ヤコブはあれだけ誠実に仕えたにもかかわらず、ラバンに騙され続けたのです。
しかしそれと同時に、ヤコブは父親や兄を騙したにもかかわらず、決して祝福を失う事はありませんでした。
ヤコブは重婚という罪を犯していたにもかかわらず、子宝に恵まれました。
ヤコブが信じていた羊や山羊をまだらにする方法は間違っていたにもかかわらず、しかもそんな迷信に頼っていたにもかかわらず、神様はヤコブの分の家畜を増やしてしてくださったのです。
私たちも同じです。
神様を無視し、自分の道を歩み続けてきた私達は、神様に愛される価値など無いにもかかわらず、神様は変わらぬ永遠の愛をもって私たちを愛し続けています。
私達には決して自分の力で償う事が出来ないほどの罪を持っているにもかかわらず、神様は私たちためにひとり子を送り、十字架に架けて私たちの罪を贖って下さったのです。
神様の無条件の愛と、祝福とは、もう私たちに与えられています。
どうか信仰を持って、その愛と祝福を受け取って下さい。