創世記32:1-32 『ヤコブからイスラエルへ』 2006/10/08 松田健太郎牧師

創世記 32:1~32
32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。
32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。
32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。
32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」
32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」
32:7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、 32:8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。
32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。
32:10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」
32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。
32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」
32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、
32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」
32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、 32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。
32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。
32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

僕が覚えている限り、ここ2~3年の間にこの教会で今日の箇所からメッセージが話されるのは、今日で4回目です。
それは、僕自身がこの箇所を示されることが多いということもありますが、この西葛西国際キリスト教会にとって何度も語られなければならない重要な箇所のひとつなのかもしれません。

今日はそんな重要な箇所であると共に、ヤコブの話の最後、クライマックスです。
そんな訳で、今日はいつもよりも少し長めのお話になると思いますので、少し心の準備をして聴いていただければ幸いです。

 

さて、皆さんは先週までのお話を覚えていらっしゃるでしょうか?
双子の兄エサウから長子の権利を騙し取ったヤコブはエサウからの恨みを買い、追われるようにして家族のもとを去りました。
ヤコブはやがて目的地だった叔父ラバンの家にたどり着きます。
そこで出会ったラバンの娘ラケルに恋し、結ばれるために7年ラバンのもとで仕えますが、騙されてラケルの姉、レアと結婚してしまいます。
その後念願のラケルとも結婚するのですが、そのためにさらに7年をラバンのもとで費やす事になりました。
それからヤコブは、ラバンから家畜を得て財産とするために、さらに6年をその地ですごすことになります。
その間にヤコブは11人の息子達を始めとして、多くの家畜の群れ、男女のしもべたち、そしてらくだやロバなど多くの財産を持つようになっていきました。
しかし、エサウの怒りがおさまるまでのほんの少しの間と思っていた滞在は、この時には実に20年という月日となっていたのです。

① ヤコブが抱える問題
先週のお話の後にもラバンのもとを離れるまでにもうひと悶着あったのですが(創世記31章)、ヤコブたちはなんとかラバンの家を後にし、故郷に向かう事ができました。
久しぶりの故郷への旅路の途中、ヤコブはあるものと出会います。

32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。

皆さんは覚えていますか?
ヤコブがエサウから逃れるために故郷を後にした最初の夜、天から地に延びるはしごの上を、御使いが行き来するのを見ましたね?
ヤコブは帰り道の途中、再び御使いたちを目にしました。
神様はこの20年間、最初から最後までずっとヤコブと共にいました。
ヤコブが気づいていたかどうかは別としても、神様の陣営はいつでもヤコブの傍らにいて、彼を守り続けていたのです。
彼がこの地でもう一度御使いを目にしたとき、神の陣営に守られているという安堵とともに、自分の故郷に帰ってきたのだという感慨のようなものがヤコブの中で広がってきたのではないでしょうか。

「長い旅だった。しかし、私は帰ってきた!」
膝をかがめ、彼は地面に口付けでもしたかったかもしれません。
出て行くときにはほとんど手ぶら同然だったヤコブは、豊かな財産と、ふたりの妻、11人の息子達と共にベェル・シェバに戻ってきたのでした。
しかし、彼が故郷に戻ってくるということは、兄エサウと対面しなければならないことも意味していたのです。

皆さんの中にはありませんか?
ずっと昔の事なのだけれど頭のどこかにいつも引っ掛かって、離れない問題。
忘れよう忘れようとするのだけれど、努力すればするほど思い出して夜も眠れなくなってしまうような事。
今ヤコブは、エサウと顔と顔をあわせなければならない。
そのことに対する恐怖心、エサウへの恐れこそ、ヤコブが20年忘れる事もできなかった最大の問題だったのです。

ヤコブは心配だったので、エサウのもとに前もって使者を送っていました。

32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。
32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。
32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」

20年前、自分が長子の権利を奪い、何とかエサウの上に立とうとあがいてきたヤコブが、今やエサウに膝をかがめようとしています。
しかしどこかわざとらしいのです。
ヤコブはこの20年間、ラバンという策略の達人と戦いながら、人に取り入る方法とか、処世術のようなものを身につけてきたのかもしれませんね。
このようにして、ヤコブはまたも自分の作戦によって解決の手段を探っていたのです。

やがて、エサウのもとに送った使者が帰ってきて報告しました。
32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

その報告を聞いて、ヤコブはみるみる真っ青になっていきます。
「四百人・・・? 四百人も引き連れて、エサウは何をするつもりなのだ?」
ヤコブの全身を、たちまち恐怖心が支配していきました。
「何とかしなければ・・・。」
ヤコブはさらに策略をめぐらし、何とかエサウの手から逃れる方法を考え始めました。

② ヤコブの解決方法
恐怖に駆られている時には、私達は何でも悪い方に悪い方に考えてしまうんですね。
使者が、エサウは四百人の人々を連れてこちらに向かっている聞いた時、ヤコブは四百人の武装集団を思い描いていたのかもしれません。
「そう言えば、エサウ様はヤコブ様を歓迎してやらなければと言っていましたよ。」と使者が報告すれば、ヤコブは「エサウが言う歓迎とはどんな歓迎方法だろうか。」と余計な事を考えてしまうのです。

そんな訳で、四百人いるからといって襲われるとは限らないのですが、ヤコブはエサウにやられると決め付けてかかっていました。
これはもう、被害妄想ですね。
ヤコブの目にはもう、四百人のつわもの達が自分の群れを襲い、逃げまどう妻達や、泣き叫ぶ子供たちの姿が見えていたのかもしれません。

さて、この時ヤコブが問題と対決するためにとった準備は3つありました。

第一に、ヤコブは自分の群れをふたつに分けました。
これでひとつの宿営が襲われても、もう一方は生き残るだろうというわけです。

第二に、ヤコブは祈りました。
最初に祈っておけばいいのですが、まず自分でするべきことをしてから、何か足りないなと思って祈るわけです。何だか、私たちと似ていますね(笑)。
ヤコブはこの様に祈りました。

32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。
32:10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」

ここでヤコブはこの様に祈っています。
「神様、祖父アブラハムとの約束を守られ、父イサクとの約束を守り、これまで私に約束してくださったように私の上に祝福を注いで下さっているように、これからもあなたが約束してくださったようになさって下さい。」
これがヤコブの祈りでした。素晴らしい祈りだと思います。
私たちもこの様に祈るべきです。
「神様が約束されたことはことごとくイエス様の上に成就しました。神様がイエス様を通して語って下さった約束、私たちを愛し、救ってくださるという約束をそのままに、私たちの上になして下さい。」
これは単にこうして下さいという願いの祈りに留まらず、信じますという宣言であり、信仰告白ですね。
ここに至って、ヤコブはついにこの様に祈る事ができました。
しかし、これでもまだ足りなかったんですね。
ヤコブはこの後、もうひとつのことを準備しています。

第三の準備は、エサウへの贈り物です。

32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。

計算すると、今で言えば三千万円以上に匹敵するような財産です。
ラバンの所で得た財産のほとんどがこうして捧げられてしまったのではないでしょうか。
これをヤコブは、群れと群れの間にすこし間をあけて進ませ、贈り物が延々と続いてくるような何とも小ざかしい(笑)演出まで与えたのです。

さあ、これだけ試行錯誤してたくさんの準備をしたのだから、もうヤコブは安心する事ができたのではないでしょうか?
いいえ、できなかったのです。
今までヤコブは自分の知恵と策略で切り抜けてきた。
少なくともそう信じてここまできたのです。
ところが今になって、どれだけ知恵を巡らせても、策略を練っても平安がない。
まだ何か足りないような気がする。
まだ、心から安心する事ができないのです。
「何だろう、何が足りないのだろう。」と悩んでいるうちに、ヤコブたち一行はヤボクの渡しにたどり着きます。
この川を渡れば、エサウか住むエドムまでもうわずか。そしてその先に、生まれ故郷があります。
ヤコブは群れを渡らせ、自分の荷物も一緒に川を渡らせました。
そして群れをふたつとも先に行かせてしまいます。
しかし、彼自身はそこで足を止めました。ここから先に進めなかったのです。
あるいはひとりになりたかったのかもしれません。
あるいは、神様と一対一で祈る時間を持ちたかったのかもしれない。
いずれにしても、ヤコブはそこでひとり残りました。
すると、そのヤコブの前にひとりの人が現れたのです。
そしてヤコブは、その人と格闘し始めました。

③ 神様による解決

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

格闘したという言葉をヘブル語で、ヤベクと言います。
戦っている人は、“ヤコブ”です。
戦っている場所は、“ヤボク”です。
“ヤコブが、ヤボクで、ヤベクした”のです。
ダジャレか早口言葉みたいですね(笑)。
しかしこれは、単なる言葉遊びなのではなく、ユダヤ人にとってこの出来事は、特別な意味を持っているということを知る事ができるのです。

ヤコブがこの時、誰と格闘していたのでしょうか?
これは少し後の所を見るとわかりますね。
「あなたは神と戦い」と書いてありますから、これは神様ご自身と戦っていたのです。
更に言うと、姿を見ることができないはずの神様が実体をもって戦っているというのですから、これは見えない神のお姿、つまりイエス様です。
もちろんこの時にはイエスという名前の人として生まれてはいないですから、三位一体の一位格と言う言い方になるのでしょうが、話を単純にすれば、この人はイエス様だったということです。

では、ヤコブはなぜ戦っていたのでしょうか?
・・・わかりません・・・。
さっぱりわけはわからないのですが、ただ群れを行かせた後、ひとり残ってヤボクの川を前にして祈っていると、この人が現れ、気がついていたら激しい格闘になっていたのです。

この戦いは朝まで続きました。
ヤコブは、「勝てる」と思った。
疲れてはいるけれど、もうすぐにでも勝てそうだ。
しかし戦い始めてからずっとそう思っているのに、なかなか決着がつかない。
そう思っているうちに、空には明るみが差してきてしまいました。
「夜が明ける前に決着をつけよう。朝日が昇る前にねじ伏せてやる。」そう思ったそのとき、
その人が、ヤコブのももにそっと触れたのです。

私たちの聖書には「打った」という言葉が使われています。
しかしこの言葉はもともと、「触れる」という意味の言葉なんですね。
事実神様には、ヤコブにそっと触れるだけで十分でした。

“もものつがい”というのは、股関節のことです。
その人に触れられると、ヤコブの股関節はたちまち外れてしまい、ヤコブは普通に立っている事もできなくなってしまいました。
その時にヤコブは気がついたのです。
「勝てるだなんてとんでもない。この人は私をねじ伏せようと思えば最初からいくらでも出来ていた。
私が打ち倒そうとし、戦うのに身を任せ、格闘する私にずっと合わせてくれていたのだ。」

男の子達がヒーローのテレビを観た後、お父さんを怪人に見立てて戦っている姿を見たことがありませんか?
その時お父さんは本気で子供と戦いませんよね?
お父さんは、「やられた~」といってやられたふりをしてくれます。
これは全てその様な事だったんですね。

「触れただけで股関節を外してしまうなどというのは人間の技ではない。ああそうか、私はとんでもない人と戦っていた。この人は人間ではなく、神だったのだ。
私は今まで、人と戦っているのだと思い込んできた。しかし、そうではない。私は今まで、神様ご自身を相手に戦ってきたのだ。」

ヤコブはこれまで、兄エサウと戦い、勝利して長子の権利を奪い、祝福を手にしてきたと思っていました。
ヤコブはこれまで、いじわるなラバンと戦い、勝って財産を手にしてきたのだと思ってきました。
これまでの彼の経験は全てそうだったのです。
問題が起こり、危機が訪れれば、自分の知恵と策略によって解決する。
結果は、いつも自分の思い通りで勝利に終わる。
しかしそれは、すべてエサウやラバンを相手に戦ってきたのではない、ヤコブが戦ってきたのは、神様ご自身だったのです。
神様は全てを理解しつつ、ヤコブがご自分と戦うのを見守り、しかしそれでも突き放し、打ち砕いて見捨ててしまうのではなく、ヤコブを祝福し、勝利を与え続けて下さっていたのです。

ヤコブは自分が今までしてきた事が間違っていたということに気がつきました。
それだけではなく、ヤコブは股関節をはずされ、エサウと戦う最後の手段としての自分の力を失ってしまったのです。
僕だったらこの時点で相当ショックを受けて、しばらく立ち直れないくらいへこんでいたと思うのですが、さすがヤコブはそこで終わらないんです。
ヤコブは尚も神様にしがみつき、こう言いました。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(26節)

執念と言うか、根性と言うか、まだまだこの人の自我は砕かれ足りないんじゃないかとさえ思えてきますね(笑)。

神様は応えます。
「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」(27節)

思い出して下さい。
ユダヤ人にとって、名前はただ単にその人の名称を表すだけのものではありません。
名は体を表すと言うように、ユダヤ人にとっては、名前はその人の本質を表すものでした。

「ヤコブ」とは、どういう意味だったでしょうか?
ヤコブは生まれるときからエサウのかかとをつかみ、兄を押しのけて産まれてこようとしていたので「ヤコブ」と名づけられました。
言ってみれば、「ヤコブ」とは「押しのける者」という意味です。

続いて神様は言います。

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

アブラハムの時にもお話しました。
聖書の登場人物の名前が変わるときには、それはその人の本質がそこで変わることを意味しています。
「押しのける者」ヤコブは、ここでイスラエルという名を与えられています。
イスラエル、「神が戦う」という意味の名前です。

ヤコブのこれまでの人生は、自分が、自分の力で、自分のために人を押しのけ、更には神様も押しのけて神様と戦う人生でした。
しかし、これからは違う。
ヤコブではなく、「神様が戦う」。
神様が、ヤコブのために戦う人生となったのです。
ヤコブはももに触れられ、つがいをはずされた時、神様との戦いに敗北を確信しました。
しかし神様の前に敗北し、膝をかがめたとき、ヤコブは自分の力によってではなく、神様によって勝利が与えられたのです。

④ その後
最後にヤコブが抱えていたエサウへの恐れという問題がどのようになったのかを見てみましょう。
そこにどのような形で勝利が与えられたかをみて、今日のメッセージを終わりたいと思います。

その日、もものつがいを外されたヤコブは普通に歩く事ができず、びっこを引きながらエサウと出会います。
もともとの計画では、エサウへの贈り物を先行させ、エサウの怒りを少しでもなだめようとしていましたが、計画を変え、自分が先頭になって進みます。
「彼は兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした 。(33:3)」と書かれています。
もものつがいがはずされて、エサウから身を守る最後の手段としての自分の肉体も失った今、彼はそこで殺される覚悟もしたでしょう。

ところがエサウはヤコブ迎えに走ってくると、彼をいだき、首に抱きついて口付けをしました。
しっかりと抱きしめあったふたりは、そこで声を出して泣きました。

エサウはもう、怒ってなどいなかったのです。
彼はただただ、20年間離れ離れだった双子の弟の再会を喜び、大声で泣きました。

ヤコブが20年間恐れ続け、知恵を絞り、自分の策略によって勝利しようとしていた問題は、ヤコブの策略によって解決したのではありませんでした。
ヤコブが20年間抱え続けてきた問題は、エサウの赦しと和解によって解決していったのです。
これが、これこそが、神様によってもたらされる勝利なのです。

ヤコブは、神様と戦い、名前を変えられたその場所をペヌエルと呼びました。
それは、「「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。(30節)」と書かれています。

私たちの人生を振り返ってみましょう。
私達は何か問題が起こったとき、神様の御心を求めてそれに従うのではなく、自分の思い通りの解決方だけを求めてきたのではありませんか?
時には神様に祈っていながらも、「この様にしてください。」と答えだけを求め、思い通りにならないと神様の愛を疑い、信仰が弱くなり、違う方法で答えを出そうとしてきたのではないでしょうか?
それは全て、神様と戦っているということに他ならないのです。

私達は、イエス様と出会うとき、誰もが神様と顔と顔を合わせるという体験をします。
その時に、私たちの人生は変えられるのです。
人を押しのけ、神様を押しのけてきた人生から、私たちのために「神様が戦ってくださる」人生へと変わっていくのです。

いつまで神様と戦っているのですか?
私達が戦う必要は、もうないではありませんか?

私達はヤコブのように自我が打ち砕かれ、敗北を認めざるをえなくなるまで中々認めることができないものですが、すぐにでも神様の前に跪き、敗北を認めてしまうべきです。
私達が神様の前に敗北を認める時、私達には神様によって勝利が与えられるのですから。

願わくは、今日この時が、みなさんにとって神様と顔と顔を合わせる体験となりますようにお祈りします。

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