創世記45:1-5 『あの時の罪を悔い、あの時の罪を赦す』 2006/11/19 松田健太郎牧師

創世記 45:1~5
45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

今、日本の社会は恨みや、怒りで満たされているように思います。
皆さんには赦せない人がいるでしょうか?
赦せない相手は、自分をいじめたクラスメートでしょうか?
自分を傷つけた昔の恋人でしょうか?
それとも、赦すことができないのは自分自身かもしれません。

赦せない相手がいると、私達はいつでもそのことで思い煩わなければなりません。
時にはその思い煩いのために眠れなくなり、ストレスがたまり、不必要に怒らなければならないことになってしまうのです。

今日はひさしぶりに創世記に戻ってきたので、忘れている方もいらっしゃると思いますから、ヨセフの話の総まとめをしながら、このような感情とどのように関わっていったらよいかを考えていきたいと思います。

① 人を赦す勇気
ヨセフはお父さんのお気に入りの息子でした。
他の11人の兄弟達の誰よりも愛され、12人兄弟の11番目だったにも関わらず、貴族の長男が着せられるような長服をまとわされていました。
しかし、父のそんな偏愛が他の兄弟達からの嫉妬を生み、ヨセフは兄弟達からにくまれ、ある日通りかかった奴隷商人に売りつけられてしまったのです。

エジプトに売られてからも、彼は忠実なしもべとして働きました。
有能で人から愛される性格だったヨセフは主人からも愛され、やがてその家の財産を任されるほどの信頼を得ていきます。
奴隷としてとはいえ、エジプトで成功をおさめるかに見えたヨセフの人生でしたが、彼の人生はまたもや転落します。
主人の妻の策略にはまり、妻を襲おうとした罪に問われ、牢獄に入れられてしまったのです。

しかし囚人生活で知り合った調理官を通してパロの夢の解き明かす機会を与えられ、ヨセフは再び牢獄から出されます。
誰にも解からなかった夢を解き明かして信頼を得たヨセフは、エジプトNo.2の権力をもつ、宰相としての地位を与えられました。
これがこれまでに、ヨセフの人生に起こってきた出来事ですね。
羊飼いから奴隷に、奴隷から囚人に、囚人からエジプトの宰相にという波瀾万丈の大転換をヨセフは経験したわけです。

そしてエジプトは今、ヨセフがパロの夢から預言したように、7年間の大飢饉を迎えていました。
しかし、これもパロの夢の中で預言されていたように、その前の7年間の大豊作の間に可能な限りの蓄えを持っていたので、大飢饉もそれ程苦とはならず、エジプトだけでなく近隣の人々にも分け与える事ができるほどの余裕もありました。

そんなある日、ヨセフにとっては大きな事件が起こりました。
エジプト宰相となって寛大に食料を分け与えるヨセフの前に、彼を奴隷商人に売り渡した10人の兄弟達が現れたのです。
しかも兄弟達は、まさか目の前にいるエジプトの宰相が22年前に別れた弟だとは思ってもいない。
その兄弟達は、ヨセフが17歳の頃自分の夢の中で見た預言が表していた様に、自分の前にひれ伏しているのです。

皆さんには、自分を裏切りひどく傷つけられたような経験があるでしょうか?
あったとしたら、その人と顔を合わせた時、どの様に感じるでしょうか?
ヨセフのこの状況は、小学生の時に自分をこっぴどくいじめたクラスメイト達との再会のようなものです。
自分は大会社の社長。いじめっ子は中小企業の営業で、相手がかつて虐めていた相手だと気づかず、何とか取引をもってもらおうと必死に頭を下げている。
こんなシチュエーションで、皆さんはどうしますか?

僕だったら、仕返しとばかりに相当無茶な注文をつけたあげく、取引を断りますね。
クレームをつけて相手をとことんまでおいつめるかもしれません。
かつて自分を苦しめたんですから、立場が逆転した今、今度は相手が苦しむのが平等というものでしょう?

煮て食おうか、焼いて食おうか、拷問にでもかけて苦しめてやろうか、それとも奴隷として働かせるか、このまま牢獄にずっと閉じ込めておくか、自分自身が今までに味わってきた苦しみを今こそこの兄弟達に味あわせる、そんなチャンスがヨセフの手の中にあったのです。

しかしヨセフには、仕返しなんてどうでもよかったのです。
恨みなんて少しもなく、むしろ兄弟達との再会が、涙が出るほど嬉しかった。
今、名乗ってしまおうか?
しかし、兄弟達が昔のままの彼らだったとしたら、名乗り出たことがまた新たな争いを生んでしまうかもしれない。
もしそんな結果になってしまうなら、自分が生きているということがわからないまま過ごしてもらった方がいいかもしれない。

そしてヨセフには、もうひとつ気がかりな事がありました。
それは、ヨセフと同じ母親を持つもうひとりの兄弟、ベニヤミンのことです。
ここにいる10人の兄弟達は、父親は同じでも違う母親から生まれてきた腹違いの兄弟です。
父ヤコブはヨセフを失ったら、ヨセフを溺愛したのと同じようにベニヤミンを扱うのは見るまでもなく明らかでした。
だとしたら、自分が彼らの嫉妬を買って奴隷商人売り飛ばされてしまったように、ベニヤミンも酷い目にあわされているかもしれない。
ここに彼の姿は見えないけれど、ベニヤミンがまだ生きているのだとしたら、酷い目に合わされてはいないかを知りたい。
そしてもし兄弟達が昔のままであれば、ベニヤミンを彼らから守らなければならない。
つまりヨセフは、この10人の兄弟達がヨセフの事件の時から何かを学び取り、成長し、悔い改めたのかどうかを知りたかったのです。

ヨセフがどの様にしてそれを探ろうとしたかは、時間の関係もあって省略したいと思います。
創世記の42章から44章までを、ぜひご自分で読んで見てください。
ヨセフは兄弟達の悔い改めをテストする側なのですから、徹底的に厳しくすることもできたでしょうし、彼には報復するのに十分な理由だってありました。
しかしヨセフは厳しくなりきれず、兄弟達が悔い改めるチャンスを与えたり、助け舟を出したり、おみやげを持たせたりと、彼の優しさがにじみ出てきてしまうんですね。

いずれにしても、恨みや憎しみ飲み込まれて、自分自身を見失ってしまうような事がヨセフには決してありませんでした。
ヨセフは穏やかに、時には嬉しさのため目に涙を浮かべながら、兄達の悔い改めを喜んで受け入れ、和解することができたのです。

ヨセフにはどうしてこんなことが可能だったのでしょうか?
それは、ヨセフがずっとひとつの事を信じ、見つめ続けてきていたからです。
22年前ヨセフがまだ17歳の頃、神様が彼に与えたビジョンを覚えているでしょうか。
夢の中でヨセフは、11の束が彼の束に向かっておじぎするのを見ました。
また別の夢では、11の星々と太陽と月が、彼に伏し拝むのを見ました。
彼はいつかその夢で示されている事が現実のものとなり、家族がみんな彼の前で伏し拝む事になるという未来があることを信じ続けていたのです。

全てが神様のコントロールの元にあると信じていたヨセフは、絶望に打ちひしがれる必要も無く、兄弟達の仕打ちを恨む必要などまったくありませんでした。
どんな苦難も、神様の計画の内なのであれば恐れる必要がありません。
だからヨセフにとっては、兄弟達を赦すことなどなんでもない事だったのです。

信仰が、私たちに平安を与えます。
信仰が、私たちに愛を与えます。
信仰が、私たちを赦せる人に変えていくのです。

② 罪を認める勇気
ヨセフ以外の兄弟達がどうだったのか、彼らの側も見てみましょう。
ヨセフの兄弟達は、荒くれ者の集まりのようでした。
長男ルベンは父の結婚相手のひとりと関係を持ち、次男三男のシメオンとレビは、妹が乱暴されたのを口実に村の人々を皆殺しにしました。
そして兄弟達は、他の誰よりも父に愛されていたヨセフを赦すことができなかったのです。

彼らはヨセフを妬み、憎み、感情に任せて実の弟を奴隷商人に売り飛ばしてしまいました。
その後も何事も無く、四男のユダは家族からも離れて生活し、そこで不品行な生活を送っていたのです。

ある年、突然の大飢饉が訪れました。
その大飢饉はカナンだけでなく世界規模で起こり、彼らはあっという間も無く、食糧難に苦しむことになりました。
彼らの元にひとつの噂が舞い込んできました。
どの国も食糧難に喘ぐ中で、エジプトだけは食糧が十分にあるというのです。
兄弟達はエジプトに行き、穀物を分けてもらうことにしました。

ところが、彼らはそこで大事件に巻き込まれてしまいます。
食料を分けてもらおうと人々の列に並ぶと、そこを通りかかったエジプトの宰相に、スパイの容疑で捕らえられてしまったのです。

スパイと言うのはとんだ濡れ衣だったのですが、エジプト人たちには言葉もうまく伝わりません。
終いには、彼らの誠実さを証明するため、家に一人残っている弟をここに連れてこいという始末です。
弟ベニヤミンは、父ヤコブにとって失ったヨセフの代わりとなった最愛の息子です。
父が簡単に行かせるはずもありませんでした。

皆さんは、彼らがどんな対応と取ったと思いますか?
自分たちが助かるために、ベニヤミンを騙しエジプト人達に引き渡したでしょうか?
元来の凶暴性を発揮し、エジプト王国を相手に大暴れをしたでしょうか?
昔の彼らならそうしたかもしれません。
しかし、彼らの行動はかつてのそれとは正反対だったのです。

特に、ヨセフを奴隷に売った張本人であるユダの変わり様は目覚しいものがありました。
彼は積極的に行動し、エジプト宰相と他の兄弟達の間に入ったり、シメオンを助けるためにベニヤミンを連れて行くことをしぶる父を説得したり、最後にはベニヤミンの身代わりとなって、自分がエジプトの囚人となると宣言したのです。

何が彼らを変えたのでしょうか?
まるで人が変わってしまったかのように、いじわるで不品行だったユダが、自己犠牲的な愛に目覚めたのはなぜなのでしょうか?
それは、彼らが自分の過去を嘆き、悔い改めたからです。

世の中には自分の非を認めようとしない人がほとんどですが、ユダは自分がとてつもなく大きな失敗をし、罪を犯したということを自覚したのです。
彼が家族の下を離れて生活することにしたのも、父の悲しむ顔も見ている事ができなかったからでしょう。

悔い改めるとは、「どうしてあんな酷いことをしてしまったのか」と後悔の念に苛まれて、嘆き悲しむことを言うのではありません。
悔い改めとは、罪を認め、その罪を言い表し、捨ててしまうことです。

ソロモンが残した箴言という知恵の言葉の中にこの様なものがあります。
自分のそむきの罪を隠すものは成功しない。
それを告白して、それを捨てるものは あわれみを受ける。(箴言28:13)

ユダは自分が犯してしまった罪を認め、悲しみましたが、その悲しみを乗り越えて2度と同じ過ちを犯さないように、今度は命をかけて弟を守ることができるように決心し、その通りに行動したのです。

これは決して簡単なことではありません。
なぜなら、その罪が重ければ重いほどその罪を認めることが難しいからです。
そして、重い罪を認めながらその重みに押しつぶされること無く立ち上がり、積極的に生きていくことはなかなかできることではないからです。

そこには、必要不可欠なものがあります。
それは、すべての罪が赦されているという確信をもつこと、そして神様は愛の方であり、神様がすべてを益としてくださると信じる信仰をもつことです。
そのような信仰なしには、ユダは実の弟を奴隷として売ってしまったという恐ろしい罪を認めたが最後、決して自分のことを赦せなくなってしまったでしょう。

そのような信仰を持っていても、ヨセフを売り飛ばしてしまったという罪の意識はユダを責めさいなんだはずです。
しかし彼は、自分が話していたエジプト宰相こそ弟ヨセフだったと知った時、安堵と喜びと神様への感謝をもって、その再会を果たしたことでしょう。


私達が、神様の完璧なご計画に信頼し、全てを神様に委ねることができたとき、私達はどんな時にも揺り動かされず、人を赦し、自分を赦し、罪を悔い改めることができるようになります。

ヨセフが兄弟達に自分の正体を明かした時の言葉の中に、ヨセフにとっても、ユダを始めとする兄弟達にとっても心の支えとなった確信の結果が言い表されています。

45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

兄弟達の嫉妬からはじまり、ユダが感情に任せてヨセフを売ってしまったそんな罪深い出来事さえ、神様の計画の内に含まれていました。
今、誰かがあなたにした事で悔しがり、思い煩う必要はありません。
あなたが誰かにしてしまったことであっても、悔い改めて祈り求める勇気を持って下さい。

イエス様もこの様に言っています。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ 6:33~34)

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