民数記13:1-3, 25-33, 14:6-9 『ヨシュアとカレブ』 2009/06/28 松田健太郎牧師
民数記 13:1~3、25~33、14:6~9
13:1 主はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
13:3 モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。
13:25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
14:6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、
14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
14:9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
皆さんは、自分の将来の展望を訊ねて、神様に祈った事があるでしょうか?
私たちは、普通にしているとどうしても神様の御心から離れていく傾向があるので、自分が進むべき方向をいつも神様に訊ねていく必要があります。
しかし、多くの場合、神様は遠い先にどうなるかという事を示すのではなくて、目先の事だけを示す事が多いようです。
アブラムには、自分の故郷を出るように命じましたが行く先は伝えられませんでした。
モーセたちも、荒野をさ迷っている間は、雲の柱、炎の柱によって神様が導くのを待ち、その先どこへ行くのかという事は、まったくわからない状態でした。
それは、私たちが神様を信頼し、神様にすべてを委ね、一歩一歩を従いながら歩む事を学ぶためではないかと思います。
しかし、神様は時として、これから用意している計画の一端を見せて下さる時があります。
モーセが率いるイスラエルの人々は、エジプトから脱出して後、カナンという場所に向かっているという事はわかっていても、そこがどのような所なのか、またどのようにしてそこにたどり着くのかという事がわからないまま足を進めていました。
しかし、神様はここに来て、偵察隊を出してカナンがどのような場所かを探らせなさいと命じたのです。
それは彼らにとって、約束の地がどのような場所なのか判るという事を意味していました。
きっとみんな、心をワクワクさせた事でしょう。
モーセは早速12人を選び、偵察隊としてカナンに送りました。
しかしそこには、神様による別の試みがあったのです。
① 12人の報告
やがて偵察隊が帰ってくると、カナンの地の果物を見せました。
それは、彼らがこれまでに見たどんな果物よりも大きくて、熟れて蜜もたっぷりでした。
そしてこのように報告したのです。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
乳と蜜が流れるというのは、文字通りミルクと蜂蜜が流れる川があるのではなくて、土も水もとても豊かに潤った土地だという事です。
神様が彼らを導いている土地がそのような場所だと聞いて、人々は喜びと感激に跳び上がりました。
しかし、報告はそれで終わりではありませんでした
彼らはこのように続けたのです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
カナンという所はとても豊かで、素晴らしい土地だ。
しかし、そこには今、他の人々が住んでいます。
そこに住む人々はとても力強く、大きな城壁をもち、そこには伝説の巨人族であるアナクの子孫さえいるのです。
その城砦を攻め落とすことなど、到底できそうにない。
それどころか我々は、返り討ちにあって全滅させられてしまうだろう。
それは、報告を聞く人々を絶望のどん底に陥れるような言葉でした。
「モーセは、われわれをそんな所に連れて行き、そんな連中と戦わせようとしているのか? 我々をおいしい餌でおびき寄せて、ここで皆殺しにしてしまおうというのか?」
人々の中に、ざわめきが起こり始めました。
民数記 14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
14:3 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
イスラエルの人々は、目の前に広がる困難に打ちのめされてしまったのです。
② ヨシュアとカレブ
クリスチャンであれば、誰にでも示されている展望がわたし達にはあります。
それは、私たちがやがて天の御国に行く事ができるという事です。
私たちがイエス様の十字架を信じて、罪の贖いを受け取り、イエス様を主として生きるなら、私たちはやがて天の御国に上げられることが約束されています。
私たちはそこで、主と共に永遠の時を過ごすのです。
しかし、私たちは地上で生きる間にたくさんの困難も経験します。
クリスチャンになって受ける事ができた祝福もたくさんあるのですが、クリスチャンにならなければ経験しなかっただろう困難もたくさんあるものです。
そのよう中で、私たちは打ちひしがれてしまったり、本当に天の御国に行く事ができるのかと心配になったりする事はないでしょうか?
あるいは、私たちが個人的に与えられている約束や、教会としてのビジョンがあります。
そこに至る道もまた、決して平坦ではなく、必ず困難が伴うものです。
まだ詳しくお話しすることは避けようと思いますが、いま僕個人の将来に示されている道があります。
それはとても大きな祝福なのですが、どうやったらそこにたどり着くのだろうと考えると、あまりに途方もなくて心配になることもあります。
また、そこにたどり着くまでに僕自身もたくさん成長しなければなりませんから、それまでに経験しなければならない困難を思うと、絶望的になったイスラエルの人々の気持ちもわからない事ではありません。
祝福というものは、ただ私たちにとって嬉しいものだけが与えられるのではありません。
多くの場合は、その祝福を前にたくさんの経験をして、私たち自身が整えられる期間が必要なのです。
その祝福が大きければ大きいほど、私たちが経験する困難も大きいかもしれません。
この時彼らに必要だったのは、武器もないまま、強力な敵に立ち向かわなければならないという状況でした。
現実的に、常識や、自分の経験だけで考えていたら、とても不可能な状況だったのです。
ほとんどの人々が、そのような“困難”“障害”の部分に目を奪われて絶望する中、神様の御心をよく理解している人がいました。
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
それでもつぶやき続ける人々に、続けてヨシュアとカレブが感情も露にして、この様に言いました。
14:6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、
14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
14:9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
無謀である事や、自分の思いだけで突き進む事が正しいのではもちろんありません。
このカレブという人は、自分たちには勝てる実力があるという過信をしていたのではありませんでした。
また、単に好戦的だったのでもありません。
神様の約束に信頼して、神様に従う事が正しい事だと信じていたのです。
事実、その時彼らに何よりも求められていたのは、神様を信頼する信仰でした。
わたし達が困難を経験するとき、信仰を失いそうなとき、大きな誘惑に直面したとき、わたし達は主が共にいて下さる事を信じて進む必要があります。
どのように戦うか、どのようにして問題を解決するかと言うこと以上に、わたし達は主の約束を強く信じて進まなければならないのです。
主が約束してくださったことなのであれば、わたし達は必ずそれを受けるからです。
③ イスラエルのつぶやき
ヨシュアとカレブ以外の全てのイスラエル人は、神様から焦点をはずし、困難しか見る事ができませんでした。
そして、これまで神様が何度も直接的な介入をして彼らを救ってきたにも関わらず、彼らは神様の力を信じる事ができなかったのです。
そんなイスラエルに、神様の怒りが下りました。
民数記 14:27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。
14:28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
彼らがいた場所からカナンまでは、ほんの数週間の距離でした。
しかし、このときにつぶやいたイスラエルの人々がみんな死んでしまうまでの40年間、彼らはカナンに入ることなく、荒野をさまようことになってしまったのです。
神様がわたし達に示してくださる約束の数々も、わたし達が主に従わなければ、わたし達は決してそれを手にする事ができません。
彼らが、疑うことなく主に従っていたら、どれだけ多くのものを手にする事ができたでしょうか?
しかし、神様はわたし達から祝福を取り去ってしまうこともあるのです。
さて、イスラエルの人々は神様からの怒りを受けて、ついに約束の地であるカナンを見ることはできませんで。
わたし達が神様を信じ続ける事ができず疑いをもったら、罰せられて神様から捨てられてしまうのでしょうか?
いいえ、彼らは確かに神様からの怒りを受けましたが、だからといってすぐに死んでしまったのではありません。
それだけではなく、荒野にいる間も、神様は彼らと共にい続けました。
彼らは彼らの人生を、荒野で全うしたのです。
ある意味では、彼らが望んでいたように、カナンの人々と戦わなくても済んだわけです。
その代わり、彼らは乳と蜜が流れると言う約束の地をついに見ることはなく、40年の生涯を荒野での苦しい生活と共に過ごしました。
しかしその生活の中で、イスラエルの人々はたくさんの事を学びました。
天から与えられるマナを通して、安息日をまもって仕事をしない事を通して、イスラエルの人々は、神様に信頼するという事を徹底的に学ぶことになったのです。
恐れをもって神様の導きからはずれてしまい、祝福を受けることができなかったとしても、神様の愛は変わりません。
わたし達は一度手にした救いを決して失うことはありませんし、神様からの罰を受けて滅ぼされる事もありません。
そこからも主はたくさんの事を学ばせてくれます。
しかし、せっかく与えられている祝福を手にしないのはもったいない事です。
主がともにいてくださいます。
主の守りを信じて、主の導きに従って行こうではありませんか。