詩篇1:1-6 『クリスチャンの幸い』 2007/01/07 松田健太郎牧師
詩篇 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
多くの日本人が、お正月には初詣に行きます。
そこで願われる願い事が、私達人間の幸福観をよく表しているなあと思います。
交通安全、無病息災、合格祈願。
何事もなく平穏無事で、すべてが自分の思い通りになる事によって、自分は幸福になれる。
でも幸福って、なかなか手にすることができないものですよね。
「もし、あの車を手に入れる事ができたら、きっと幸せになれるのに。」
「もし、心から私を愛してくれる人がいたら、きっと幸せになれるのに。」
「もし、お金持ちだったら、きっと幸せになれるのに。」
「もし、私がこんな境遇でなかったら・・・」
「もし、私がこんな性格でなかったら・・・」
しかし、これらの“もし”が現実になったとしても、私達が幸せになれる保障なんてどこにもありません。
僕の友人に、BMWに憧れていた人がいます。
彼はいつも車の雑誌を手にし、自分がいつかBMWに乗れる事を夢みていました。
彼は、自分がBMWを手に入れる事ができれば幸福になれると信じていたんですね。
彼は僕の会社の同僚でしたから、そんなに給料があったわけではなかったはずなのですが、昇進したのをきっかけに、夢にまでみたBMWを買いました。
BMWに乗って、ショールームのフロアから出てきた時の感動は、最高だったそうです。
他の友達は彼を羨ましがり、今まで彼のことを見向きもしなかったような女の子達が彼に近づいてきました。
BMWは彼の人生を一変させて、ばら色になったかのように見えました。
しかし、やがて1年もすると、ピカピカだった車にも擦り傷や、小石がぶつかったへこみがあることがわかりました。
近づいてきた女の子達も、車とお金が目当てだということがわかりきっていたので、嫌になってきました。
それでもローンはまだ払い終えていないし、目が飛び出るような金額の車検を考えると、彼は憂鬱になりました。
BMWさえ手に入れば自分は幸せになれると思っていたのに、実際にはそうではなかったのです。
彼は思いました。
「BMWは俺を幸せにはしない。でもベンツさえ手に入れば、俺は幸せになれる。」
ベンツがロールスロイスに変わろうが、フェラーリになろうが、結果は同じですよね。
物質によっては幸せになれないというだけではありません。
今の自分にないものが手に入ったからといって、環境が変わったからといって、自分が幸せになれるとは限らないのです。
例え一時の間、幸せな気分に浸る事ができたとしても、やがてその幸福感には擦り傷ができ、色あせ、やがて新しく幸せを与えてくれる別のものを必要とするようになるのです。
聖書が語る幸福観は、私達が普通に持っている価値観とはまったく違います。
新しい年を始めるにあたり、私達にはどの様な幸いが与えられているのかということを、一緒に考えていきたいと思います。
① 生まれたままの価値観と、聖書の価値観
詩篇 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
聖書は、悪者や罪人として生きず、神様の教えを喜ぶ者は幸いだと言っています。
聖書で言う悪者や罪人とは、創造主である神様から離れ、自分勝手に生きている状態ですから、私達の産まれたままの状態を指しています。
ですから、私達は生まれたままの価値観では、聖書の幸いを味わう事ができないのです。
聖書にはこのように書かれています。
Iコリント(新共同約) 2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
2:15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
聖書の価値観は、自然の人には愚かな事であり、全く理解する事ができない事なのです。
だから、それをどれだけ判りやすく説明したとしても、殆どの人は受け入れようとしないか、自分勝手な方法で解釈しようとしてしまいます。
もうすでにクリスチャンになっている私達も、そうでしたよね?
この中に、聖書の全てを理解して、納得したからクリスチャンになったという方は間違いなくいないはずです。
なぜなら、クリスチャンになって神の霊である聖霊を受けない限り、神様の言葉を本当の意味で理解する事なんてできない事なのですから。
生まれつき目の見えない人に、夕日が沈む美しさや、虹のカラフルさをどれだけ詳細に説明したとしても、完全に理解してもらう事はできません。
私達は、理解するよりも先にイエス様の元に行き、目を開いてもらう必要があるのです。
イエス様の元に行き、生まれつき見る事が出来ない目を開いてもらった人は幸いです。
その人は神様が与える喜びを知る事が出来るからです。
② 水路のそばの木のように
その様にして、目の開かれた人を、詩篇の著者はこのように表現しています。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
皆さんは、鯨を見たことがあるでしょうか?
僕はまだ、映像でしか観た事がないのですが、見た人が必ずといっていいほど言うのは、鯨を見ると自分の悩みがちっぽけなものに見えてくるということです。
大海原に浮上する鯨を、いつかこの目で見てみたいものですね。
鯨は、哺乳類ですから息継ぎをしなければなりません。
どれだけ深く水に潜り、獲物を追っていたとしても、二酸化炭素を排出し、新たな酸素を肺に送り込まなければ死んでしまいます。
時々思うのは、私達も鯨のような生き方をしているのではないかということなのです。
私達はこの社会で生活していくために深く海の中に潜り、獲物を追います。
しかし息苦しくなってどうしようもなくなったときに浮上してきて、真理の一端に触れ、慰めを受けるとまた息を止めて海に潜っていく。
その様な信仰生活を送っているクリスチャンは、決して少なくはありません。
あるいは、砂漠をさすらう旅人のようです。
私達は草もなく、川もない砂漠を水筒も持たずにさまよい、ようやくオアシスを見つけて潤いを得ます。
そして少し満足すると、またオアシスを後にして、旅立っていきます。
しかし、それがクリスチャンとしての喜びではないのだと、聖書は言っているのです。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
いつもイエス様と共に歩み、教えに従い、聖書的な人生観、価値観、世界観、歴史観を育んでいくなら、やがて私達は御霊の実を結びます。
御霊の実というのは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制というようなものです。(ガラテヤ書5:22~23)
この様な実が私達自身を育み、周りの人々癒し、励まし、私たちを幸福にしていくのです。
そして、神様から受けた実によって幸福を受けた人々は、決して枯れる事がなく、何をしても栄えるのです。
③ 苦しみが幸いに変わる
最後に、聖書の中で詩篇1篇と同じように、幸いについて書かれている箇所をもうひとつ見てみましょう。
マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
これは、山上の説教として知られている箇所の一部です。
この山上の説教というのは、イエス様がキリストとしての公的な生涯を歩まれた後、弟子達を連れて山に登り、弟子達に教えた言葉を集めたものです。
ここに、クリスチャンとしての“幸い”の極意のようなものが凝縮されています。
初めに言ったように、私達が生まれたままに持っている幸福の価値基準は、平穏無事で、すべてが自分の思い通りになる人生です。
しかし、クリスチャンである私達には、悲しむ者も、迫害を受ける者も、いや、そのような人々こそ本当の幸いを味わう事ができるのだというのです。
皆さんの中で、あるいは皆さんの周りで、悲しんでいる人はいるでしょうか?
重荷を背負い、苦しんでいる人はいるでしょうか?
魂に餓え渇きを覚え、喘いでいる人はいるでしょうか?
迫害を受け、孤独に苛まれている人はいるでしょうか?
その様な人たちは、自分が不幸だなんて思う必要はもうありません。
イエス様の元にいくなら、イエス様という水路のそばに植えられた木のようになるなら、その人には主にある幸いが与えられるからです。
④ クリスチャンとしての価値観を身につける
今回は、どうして悲しむ事や迫害を受けることが幸いとなりうるのかという部分に関して、具体的なお話をしませんでした。
この事に関して学ぶために、来週からゆっくり時間をかけて、山上の説教をひとつひとつ一緒に考えていきたいと思います。
今日のお話で、皆さんに一番覚えておいていただきたい事は、私達のありのままの価値観と、聖書の価値観とは全く違うのだということです。
2006年は全体を通して、“土台を建て上げる”という事をテーマとして一緒に学んできましたが、今年も引き続き土台を建てあげる作業が続きます。
しかし特に、この2007年のテーマとしたいのは、“クリスチャンとしての価値観を身につける”ということです。
2007年が終わる時、皆さんが生まれながらの私達の価値観から脱却して、新しい自分としての価値観を知り、身につけている事ができますように。
鯨のように息つぎを必要とする生活や、砂漠のオアシスを探す旅人のような信仰ではなく、いつもイエス様という水路に植えられた木のように、皆さんが喜びをもって豊かに過ごす事ができるよう心からお祈りします。