Iサムエル1:2-18 『 サムエル記①~ハンナの祈りに学ぶ 』 2010/07/11 松田健太郎牧師
Iサムエル記1:2~18
1:2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。
1:4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。
1:5 また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。
1:6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。
1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
1:9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
1:12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
今日からサムエル記に入ります。
旧約聖書のこのあたりは登場人物が多く、誰が誰だかわからなくなってきますので、登場人物の紹介から入りましょう。
ハンナ:今回の中心となる人物。子供ができずに悩むが、後に預言者サムエルの母となる。
エルカナ:ハンナの夫。人間的には良い人でハンナを愛しているが、信仰は弱い。
ペニンナ:エルカナのもうひとりの妻。子供があり、ハンナをいじめる。
祭司エリ:この当時のイスラエルの祭司。
ホフニとピネハス:祭司エリのどら息子たち。同じく祭司。
エルカナにはふたりの妻がいました。
彼が、どうしてふたりの妻を持つにいたったのかという経緯については書かれていません。
おそらくは、ハンナに子供ができなかったという事が大きな理由となっていた事でしょう。
当時のイスラエルは、近隣諸国の文化の影響を受けていて、一夫多妻制でした。
こうして、聖書の中には一人以上の妻を持った人たちがたくさん出てくるので、神様は一夫多妻制をよしとしておられるようにも思うかもしれませんが、そうではありません。
創世記 2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
結婚について、神様は二人が一つとなる事であると教えています。
そして、一夫多妻が当然だった当時の社会の中にあっても、ひとりの妻の夫でありなさいと教えているのです。
聖書の人物がたくさんの妻をもって紹介される時、彼がたくさんの妻を持った事によって起きる悲劇も描かれています。
エルカナがふたりの妻を持った事で起ってしまった悲劇は、はたしてどのような展開を見せるのでしょうか。
① 霊的な姦淫の果てに
さて、旧約聖書を読むときに、わたし達は登場人物の罪がどのようなものかという事を、自分に当てはめて考えると良いという話をしました。
そこで早速、わたし達はこのエルカナ、ハンナ、ペニンナの罪から学んでいきたいと思います。
今日の話の中にある罪、堕落的な状況は、エルカナが二人目の妻をめとったことから始まります。
そうは言っても、わたし達は一夫一婦制が当たり前の国で生きていますから、自分には関係のない話だと思われるかもしれません。
でもわたし達は、神様との関係において、このような状況になってしまう可能性をもっているのです。
聖書は、わたし達と神様との関係を結婚関係にたとえています。
神様はわたし達を愛し、わたし達も神様を愛している。
しかし、夫婦の間に別の人が入ってくるとその関係が壊れてしまうように、神様との間に別の存在が入ってくると、そこにある結びつきが壊れてしまいます。
エルカナとハンナとの間には愛があり、彼らは幸せな生活を送っていたはずでした。
しかし子供を得るためにペニンナも妻として迎えた時、その幸せが壊れてしまったのです。
エルカナは、子供がいる事は祝福であり、子供がなければ幸せにはなれないと思ったのかもしれません。
しかし、子供をもうけても、そこに幸せは生まれませんでした。
エルカナが愛していたはずのハンナは、劣等感と無力感に苛まれて、泣き通しの日々を送る事になりました。
ペニンナもまた、子供を授かった時から傲慢になり、神様から離れてハンナを憎むようになりました。
それによって3人がお互いにいらだち、傷つけあい、家庭の中には不穏があふれるようになってしまったのです。
わたし達も、生きていく中で幸せになるために必要だと思っているものがあるかもしれません。
お金さえあればと思っていたり、寂しさから逃れるために恋人や結婚相手を求めていたり、満たされない思いをいろいろな方法で補おうとしてしまうのがわたし達です。
しかし、わたし達が神様との関係の間に、それらのものを置いてしまったり、神様以上に他のものを求めてはいないでしょうか?
わたし達が神様以外のものに幸せを求めるなら、それは偶像礼拝であり、霊的な姦淫となって神様を悲しませる事になるのです。
そして、たとえ求めているものを得る事ができたとしても、それは決してわたし達を満足させず、幸せにする事はありません。
皆さんの、神様との関係はどうでしょうか?
神様との関係がうまくいっていないと感じている方はいないでしょうか?
そうであれば、神様と自分との間に他の何かを置いていないか、神様以外のものに自分の幸せを求めてしまってはいないかどうか考えてみて下さい。
そして、まずはその事を悔い改めて、神様に立ち返ることだと思います。
マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
と、聖書は教えてくれているのですから。
② ハンナの嘆き
ペニンナの事でハンナは苦しみ、泣いて食事をとる事も出来なかったと書かれています。
そのハンナの苦しみとは、どのようなものだったでしょうか?
ある註解書には、この様に書かれています。
(1) 神から見放されているとの思い。
(2) 後継ぎが与えられなくて、夫に申し訳ないという思い。
(3) したがって、子供がなくては夫に愛されないという思い。
(4) ペニンナに対する屈辱感。『新聖書講解シリーズ6』
この苦しみの中で、ハンナの思いは、「自分に子供さえいれば。」という思いに支配されていきました。
その嘆きの中で、ハンナは泣き通し、食事ものどを通らない毎日が過ぎて行ったのです。
1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
そんな優しい夫の声も、ハンナの心を慰める事はありません。
それは、彼の言葉と行動が一致していないからです。
本当にそう思っているのなら、ペニンナを迎えなければよかったんですよね。
エルカナがどんなに慰めの言葉を語っても、彼の行動は、ハンナよりもひとりの跡取りの方が大事で、そのためにハンナを裏切る事も厭わないというメッセージを与えています。
ハンナは、エルカナを信用できなくなっていました。
しかし、ハンナにエルカナを批判できるのかと言えば、そういう訳でもありません。
この時、ハンナにとっても、子供を得る事が偶像となってしまっていたからです。
自分に子供がいなければ、自分は愛されない。自分に価値はない。
その偶像が、ハンナを苦しめていたのです。
皆さんなら、こんな時どうするでしょうか?
ハンナは、祈りました。
長い間、祈りました。
それを見ていた祭司エリは、ハンナが酔っ払っているように見えたほどです。
それくらいハンナは、一心に、神様に叫び続けていたのです。
わたし達も、ハンナのその祈りから多くの事を学ぶ事ができます。
③ ハンナの祈り
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
ハンナの祈りは、心を注ぎだす祈りです。
心を注ぎたすというのは、心の内を主の前に洗いざらい吐き出すような祈りです。
詩編に残されているダビデ王の祈りの多くも、このような注ぎだしの祈りでした。
その長い祈りの中で、ハンナがどのようにして憂いといらだちを吐き出していたのかはわかりません。
おそらくそこには、神様への不平や不満も含まれていた事でしょう。
しかし、その祈りはそのままでは終わりませんでした。
そこが、愚痴だけの祈りや、神様とケンカをするような祈りとは違うところです。
ハンナの思いは、注ぎだしの祈りの中で変えられて行きました。
そしてハンナは、祈りの中で神様に誓願を立てたのです。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
それまでのハンナの思いは、“自分のために”子供を授かるという事でした。
子供を授かれば、自分の恥をぬぐうができ、ペニンナの鼻を明かす事ができ、夫の愛を取り戻す事ができる。
しかしハンナは、最終的にその子供を神様に捧げる事を誓いました。
“自分のため”の子供から、“神様のため”の子供へとシフトが移ったのです。
そして、この祈りの結果・・・
1:18c 彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
それまでどんな慰めの言葉も受け付ける事ができず、悔しさと自己憐憫の涙に明け暮れていた彼女の顔は、以前とは違うものになっていました。
それは、神様がきっと子供を与えて下さるという確信と安堵がひとつ。
そして、子供を神様に捧げて重荷を降ろした事による平安のためでした。
たとえ子供が与えられなくても、構わないのです。
彼女にとって重要だったのは、もはや子供が与えられるかどうかではなくて、それを神様にゆだねる事ができたという事でした。
彼女の思いは祈りの中で、「子供さえいれば」という思いから、「子供がいなくても」という信仰に変わっていたのです。
こうしてハンナの祈りは聞かれ、サムエル~“神の名”の意味~が生まれました。
やがてサムエルは3歳になって乳離れすると、祭司エリのもとで学び、預言者へと成長していきます。
元々は、ハンナに子供ができず、夫のエルカナが自分勝手な思いによって二人目の妻をめとり、そこに子供を設けたことから生まれた出来事でした。
しかし、罪が罪を呼ぶような悲劇も、神様はすべて補い、あがなって祝福に変える事ができるのです。
そのためには、ハンナが神様に立ち返ってすべてをゆだねる信仰を持ったように、わたし達も祈りの中で主に立ち返る必要があります。
わたし達が心の内を注ぎだして祈る中で、それがただの愚痴に終わることなく、本当に主に立ち返ることができるようにと願います。
わたし達が全てを主にゆだねた時、わたし達の顔は、以前のようではなくなるでしょう。
そして、わたし達が抱える問題、苦しみ、不安のひとつひとつが祝福へと変えられていくのを見る事になるはずです。
今、悩みや思い煩いを抱えている方はいらっしゃるでしょうか?
短いですが、少し心を注ぎだして祈る時間をもち、今日のメッセージを終わりたいと思います。