Iサムエル記16:1-13 『サムエル⑦~主は心を見る』 2010/09/05 松田健太郎牧師

Iサムエル記 16:1~13
16:1 主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
16:2 サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。
16:3 いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」
16:4 サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」
16:5 サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。
16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。
16:9 エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。
16:10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」
16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」
16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

先週はゴスペル・コンサートもあって、サムエル記からではないメッセージをしました。
今日からまたサムエル記に戻っていくのですが、また開いてしまいましたので復習から始めましょう。
イスラエルの最初の王は、何という王様でしたか?
そう、サウル王ですね。
では、サウル王はどんな王様だったでしょうか?
サウル王という人は、背が高く、イケメンで、謙遜な心を持っていて、指導者としての能力もある申し分のない王様でした。
イスラエルの人々は神様から背くような形で王様を求めたにも関わらず、神様は最高の人材を王として選んで下さったのでしたね。

しかし、サウルは結局神様の言葉に従わず、神様に背き、神様を退け続けました。
サウル王も、最初から信仰を持っていなかったわけではなかったでしょう。
そうでなければ、そもそも王として選ぶ事はなかったでしょうから。
とはいえ、サウルは神様との関係を深めるという事には関心をもたず、すべては自分やり方、自分の道を歩みました。
そしてそれは、ことごとく悪い結果をイスラエルにもたらしたのです。
何度もチャンスを与えられたサウル王でしたがついに、神様は別の人をイスラエルの王として立てる事になったのでした。

神様の方から、サウルを捨てたのではありませんよ。
サウルが神様を退けたので、神様は別の器を選ばなければならなかったという事です。
そうして神様は、いよいよ次の王様を選び、預言者サムエルに伝えました。
今日は、第2の王様ダビデが選ばれるという話です。

① ダビデの選び
神様は、エッサイという人の息子の中に、次の王を見出したと預言者サムエルに告げました。
そこでサムエルは、その人物に王としての油注ぎを授けるため、エッサイの所に赴いたのです。

サムエルはエッサイの家に来ると、子供たちを連れてくるようにとエッサイに伝えました。
でもサムエルは、その中から王が選ばれるという話をエッサイにはしなかったんです。
まだサウル王がいる内に王を任命するなどという事は、王に対する反逆のようなものですから、本人達を含めそれを誰かに知らせる事は命取りになることだからです。
サムエルは、共にいけにえを捧げて祝福を与えるために来たのだと説明しました。
そこでエッサイは、召使いを読んで子供たちを呼ばせたのです。

子供達が入ってきた時、真っ先にサムエルの目に留まったのは、エリアブという息子でした。
彼こそが次の王に違いない!
彼はサウルと匹敵するようなイケメンで、背も高かったからです。
サウルの代わりが務まるとしたら、このエリアブに違いないとサムエルは思いました。
しかし神様は、サムエルを止めて“違う。エリアブではない。”と言ったのです。

16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

そうか違うのかと言って、次に目に留まったのは弟のアビナダブでした。
しかし、それも主が選んだ器ではありません。
そうして兄弟を順番に見ていくのですが、そこにいた7人の息子達すべてを見終わっても、そこに油注ぎを捧げるための人物はいませんでした。

おかしいですよね。
神様は、エッサイの子供の中にいると言ったのです。
そこでサムエルは首を傾げながら、「子供たちはこれで全部ですか?」と聞きました。
するとエッサイは、「あぁ、そう言えばもう一人末の息子がいました。あれは今、ヒツジの番をしています。」と言ったのです。

16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

ダビデは、父親にその存在を忘れられていたのです。
エッサイは、ダビデなんて眼中にはなかったという事です。
エッサイにとっての自慢の息子は、エリアブやアビナダブだったのです。
彼らはイケメンで、背も高く、サムエルも彼らが王に相応しいのではと思うような魅力がありました。
「この子供達はきっと出世するだろう。この子供達こそが、私の家の誇りとなるのだ。」とエッサイさんは思っていたのです。
一方でダビデは、親からも忘れられ、期待もされず、相手にされないような子供時代を送っていました。
そのような子供時代を送った方が皆さんの中にはいるでしょうか?
もしいらっしゃるなら、それがどのような傷を人生にもたらすかという事がわかるのではないかと思います。

ダビデは、詩編の中にこの様な言葉を残しています。

詩編 27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。
これは、例え両親に見捨てられても、神様が助けてくれるという言葉なのですが、ダビデはまさにこのような事を経験していたのです。

そして、そんな辛い経験の中でも、確かに取り上げて下った神様の愛を知った人だったのです。
皆さんの中にも、家族の関係の中から少なからず傷を受けてきた方がいらっしゃるだろうと思います。
しかし、「自分はそのような傷を受けているからダメなんだ。」とか、「だから自分は一生そのような生き方をするのだ。」ということはありません。
なぜなら神様は、そんな私を決して見捨てることなく、取り上げて下さる方だからです。
例えわたし達が、どのような傷を受けていたとしても、主はわたし達を用いて下さり、わたし達の人生に大逆転をもたらして下さるお方だからです。

それにしても、不思議なものですね。
人から見捨てられて、父親にも価値を置かれていなかったダビデが、歴史の中で最大の王様になるんです。
人はうわべを見るが、神は心を見ます。
皆さん、人の評価がどれだけ低かったとしても、人気がなく、人から良く思われていなかったとしても、神様はわたし達の心を見るのです。
そして、それに従ってわたし達に祝福を与えて下さいます。
どんなにわたし達が劣等感を持っていても、どうせ自分なんかダメなんだと思っていたとしても、主がわたし達に油を注ぐなら、わたし達は神様に豊かに用いられる器となるのです。

わたし達の能力は問題ではありません。
わたし達の外見も問題ではありません。
わたし達の性別や年齢も関係がありません。
わたし達の経歴や、生い立ちもどうでもいいことなのです。
神様にとって大切なのは、わたし達がどれだけイエス様に信頼し、より頼んでいるかどうかという事です。
逆に、どれだけ外見が良くて能力があっても、神様と共に歩まないなら決していい結果にはならないという事を、わたし達はサウルの生涯の中で見てきました。
ダビデは、親からも忘れられるような存在だったにも関わらず、神様への信仰の強さによって選ばれ、油を注がれたのです。
ダビデも、その生涯においてサウルに負けないほどたくさんの失敗をしました。
それにも関らず、神様からは見捨てられることなく、王としての能力を驚くほどに発揮できたのは、彼の神様への信仰と信頼に対して注がれた神様の愛と祝福のためなのです。

② 目が美しく
さて、ダビデのような祝福を得るために学ぶべき要素は他にもあります。
そのためには、ダビデがどのような人だったかを見る必要がありますね。

16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

サムエルがついに目にしたダビデは、このような人物でした。
なんだ、やっぱり男前だったんじゃないかと思うかもしれませんが、そこがポイントではありません。
ここに書かれている目の美しさには、ただ目がぱっちりとしてきらきらしていたという以上の意味があります。
その目の美しさは、ダビデが何を見ているかという事を表す美しさなのです。
つまり、ダビデはいつでも、神様と同じものを見ようとしていた事を意味しているのです。

同じことを経験しても、経験する人によってそこから受け取るものが違うという事を、皆さんは気がついた事がありますか?
辛い経験をした時、ある人は「どうして自分はこんな目にばかり合うんだ。」と言って、ふて腐れてしまいます。
一方である人達は、同じ経験をしても「この経験を通して、自分はどのようになっていく事を神様は計画しているのだろう。」と言って、そこから多くの事を学ぶのです。
物事は、自分の視点で見るか、神様の視点で見るかによって受け取り方が大きく変わります。

イエス様も、同じような事を言っています。

マタイ 6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

ダビデは試練の中にある時こそ、神様の視点で物事を見る、美しい輝きのある目でした。
わたし達に最も必要なのは、このような視点なのではないかと思います。
わたし達が辛い経験をしている時、試練の中にある時、神様はどのような意味のためにわたし達をその状況に置き、どのような素晴らしい成長をさせようとしているのか、考えてみて下さい。

神様はこのようにわたし達に約束しているからです。

エレミヤ 29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

③ 待つ事の大切さ
最後にもうひとつ、皆さんに覚えておいて頂きたい事があります。
それは、ダビデが王として任命される油注ぎを受けてから、実際にダビデが王となるまでに十数年あるいは数十年の月日が必要だったという事です。

油を注がれて、そこから人生が好転してゆき、どんどん出世して王様になる道が開かれるなら、僕達にはとてもわかりやすいんです。
しかし、現実はそうではないわけですよね。
わたし達も、クリスチャンになってから、何だか大変な事が続いたり、どうしてこんな目に会うのだろうという経験をたくさんしたりするわけです。

ダビデは、サムエルから油注ぎを受けて後、サウル王から命を狙われ、槍を投げつけられ、ついには敵の地へと逃げ延びて、敵の前でよだれを垂らして気が狂ったふりをしなければならないほど落ちぶれた日々を送る事になります。
それは彼にとって、どれほど辛く、屈辱的な出来事だった事でしょう。

そのような経験をする時、わたし達の心は心配になるのではないでしょうか。
「わたしの計画はわざわいではない。」と言われても、「わざわいが起っているじゃないか!」と思ってしまうのではないでしょうか。
しかし、神様の視点で見るという事は、この様な時にこそ必要になるのです。

ダビデがもし、途中ですべてを投げ出してあきらめてしまっていたらどうなったでしょう?
王になるという神様の約束は成就します。
しかし約束されていた王になったとしても、中途半端で、良い王様にはなれなかったのではないでしょうか。
神様の約束は成就します。
でも、その質を決めるのは、わたし達の側の責任も多少はあるのです。

わたし達の上にも、サウルやダビデと同じように、神様の選びがあり、計画があります。
しかし、同じ王となる計画がありながらサウル王は悪い王となり、ダビデ王が史上最高の王となったように、その結果には天と地の差があったりもするのです。

わたし達の上には、神様の素晴らしい御計画があるのだから、どうせなら素晴らしい結果を味わいましょうよ。
わたし達の上には、せっかく神様の恵みと祝福があるのだから、わたし達は最高の者としてそれを経験したいものだと思うのです。

これからしばらくダビデの生涯を追っていく事になりますが、その中でわたし達はたくさんのものを学ぶ事ができます。
いつでもわたし達が、主に信頼して、最高の道を歩むことができますように。
そのための信仰が与えられ、いつでも主に信頼して、主の道を歩むことができるように、心から祈ります。

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