Iサムエル記18:1-5 『 サムエル⑨~ダビデとヨナタンの友情 』 2010/09/19 松田健太郎牧師
Iサムエル記 18:1~5
18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。
18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。
18:5 ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。
皆さんには、親友と呼べるような友達がいるでしょうか?
僕の人生には、節々に親友の存在がありました。
高校時代の僕の親友は、伊作というクリスチャンの家庭に育った男です。
彼の家庭はクリスチャンではありましたが、大きな問題を抱えた家庭でもあり、彼は高校3年生の時に家を追い出される事になりました。
その頃僕は、学校に反発していたころでもあり、学校をサボってはその友人の家に行って哲学的な話だったり、愛とは何かという話だったりを1日中していたんです。
決して良い事ではないと思いますが、僕の中のかなり大きな部分が、その時代に作り上げられたのではないかと思います。
高校卒業後、彼には神学校に行って牧師になるという道が開かれましたが、彼はその道を歩まず、やがて信仰自体から離れて行ってしましました。
不思議な事に、その穴を埋めるように僕がクリスチャンになり、そして牧師にもなったのです。
彼とは住む場所も離れ離れになり、話をする機会も少なくなりましたが、たまに会うと今でも何でも話す事ができるよい関係を持っています。
僕が今、親友と呼ぶ事ができる友人は、神学校時代にできた友人たちです。
その内のひとりは鹿児島で牧師をしていて、牧師だけが経験する心の悩みを共に分かち合い、励まし合い、祈りあっています。
もうひとりは牧師にはなりませんでしたが、月に一度会ってはお互いの罪を告白しあい、祈りあうという事を続けてもう6年くらいになります。
どちらも、今の僕をよく理解してくれている友人たちで、彼らの存在がなかったら、僕がこうして牧師として働き続ける事もできなかったのではないかと思います。
親友という存在は、わたし達の人格を形作るために大きな役割を果たしたり、ピンチに陥った時、わたし達を支えてくれる大きな助けとなります。
ダビデは、子供のころにイスラエルの王としての油注ぎを受けましたが、実際に王になるまでには多くの時間がかかり、辛い経験をたくさんしました。
希望を失ってしまいそうなその状況の中で、彼を支えたのは親友ヨナタンの存在です。
わたし達が本当に危機的な状況に陥ってしまったとき、神様は時としてこのような友を、わたし達の人生に送ってくださるのです。
① 神様中心の人間関係
ダビデが巨人ゴリヤテと戦って勝利したとき、ヨナタン王子とダビデの間には新しい友情が生まれていました。
18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
“ヨナタンの心は、ダビデの心に結びついた”と聖書には書かれています。
この言葉、実は英語の聖書では、“ヨナタンの魂とダビデの魂は共に編みこまれた”というような表現が使われています。
それがどれほど固く結ばれた信頼関係だったかということがわかりますね。
そしてヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したと書かれています。
これはまさに、イエス様がわたし達に教えてくださった信頼関係です。
ヨナタン王子も、ダビデも共に神様の選びを受けて用いられた、強い信仰の持ち主たちでした。
僕は、わたし達クリスチャンにノンクリスチャン親友はありえないとは思いません。
全てのクリスチャンが、ヨナタンとダビデのような関係になるわけでももちろんありません。
しかし、信仰をもつ人同士だけが築く事のできる、強力な友情というものが存在するのだという事、そしてヨナタンとダビデが築いたそのような関係をわたし達も持つ事ができるという事を、皆さんに知っていただきたいのです。
普通、わたし達の人間関係というのは、“自分”と“相手”との間に築かれるものです。
そこには、“自分が求めるもの”と“相手が求めているもの”との駆け引きのようなものがあって、そのバランスが取れている時に、人間関係はうまく働きます。
しかし、お互いの利害関係が崩れる時、その人間関係も壊れ始めます。
そのバランスを保ち続ける事は、実はとても難しいものなので、多くの人間関係が時間の経過とともに崩れてしまうのです。
一方で、神様を中心とした人間関係というものがあります。
神様中心の人間関係は、“自分が何を求めているか”を優先させるのではなく、“相手が何をもとめているか”を優先させるのでもありません。
“神様が何を求めているか”ということが、もっとも大切な事なのです。
そこに信仰の一致があり、御霊の一致があるなら、その関係を崩す事はそう簡単にできません。
それは自分の好き嫌いというものも超えた、神様によって結びあわされている関係だからです。
ダビデとヨナタンとの間にあった友情は、まさしく神様を中心とした人間関係だったのです。
②
それが、利害関係を超えた、神様中心の関係だったことをよく表す出来事として、このようなヨナタンの行動が聖書には描かれています。
18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。
これは単に、ヨナタンが自分の持っているものをダビデにプレゼントしたというだけの事ではありません。
ヨナタンの鎧、兜、剣、帯、このすべては、ヨナタンの王位継承者としての権威の象徴でした。
ヨナタンはこの時、自分が次の王様になるのではなく、ダビデこそが神様の目に適い、御心の中にある人物だという事に気が付いていたのです。
一方で、この出来事の後に、ひとつの事件が起っています。
Iサムエル 18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」
18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
あの巨人ゴリヤテを倒した事によってダビデは称賛を受け、女たちはその活躍を歌いました。
その時、人々に称えられるダビデを見て、サウルは危機感を感じたのです。
「この男、私の王位を狙っているのではないか?」という危機感です。
彼らが歌ったこの歌は、本来サウルとダビデを比較する事が趣旨ではありません。
サウル王の栄光を歌い、サウル王がダビデという力強い味方を得た事を称える歌でした。
しかしサウルの心には、ダビデが自分よりも人気を得た事による嫉妬の炎が起っていました。
そして、いつか王位を奪われるのではないかという不安のために、その炎はダビデの命を狙うようにまで成長していくのです。
これが、自分の利益を最優先としているサウル王と、神様の御心を最優先としているヨナタン王子の差です。
ヨナタンも、父サウルと同じような反応をしてもおかしくないはずでした。
順当にいけば、ヨナタンこそが間違いなく次の王になるはずだったのですから。
ヨナタンにはその実力もあり、事実そのために神様に用いられた器でもありました。
しかし、彼がダビデに会った時、神様の最善は自分が王位を継承する事にあるのではなく、ダビデが王になる事にある事をヨナタンは理解したのです。
ヨナタンは、ただ単にダビデが大好きだったのではありません。
ヨナタンの心を一番に占めていたのは、神様でした。
ヨナタンにとっての喜びは、自分がゆるぎない地位を得る事ではなく、神様の御心がなる事でしたから、ヨナタンはダビデに嫉妬する必要がなかったのです。
神様の御心がいつでも、自分にとっての最善でもあり、イスラエルにとっての最善であり、もっとも祝福に溢れるものである事をヨナタンは知っていました。
だから彼は、迷うことなくその座を明け渡したのです。
ダビデを恐れたサウル王は、その後ダビデの命を何度となく狙いました。
その時、自らを盾にしてダビデを守ったのはヨナタンです。
時には自らもサウル王の怒りを買って、槍を投げつけられる事さえありました。
そして自らの父親を敵に回すような事があっても、ヨナタンはダビデを守ろうとしたのです。
ヨナタンのような素晴らしい友を得る事ができたら、それはどんなに素晴らしい事でしょう。
神様は、そのような友をわたし達の人生に、確かに送って下さいます。
しかしそれ以前に、わたし達自身もまた、ヨナタンのような友となる事ができるかどうかという事を考えてみていただきたいのです。
今、皆さんの身近にいらっしゃるあの人は、神様がダビデに見出していたような素晴らしい計画が用意されているのではないでしょうか?
そしてその人は、ダビデのように助けを必要としているのではないでしょうか。
この話の中では、ヨナタンが一方的にダビデを助けたように思えるかもしれませんが、神様を第一とする信仰を持っていたのはダビデも同じです。
ダビデが神様ではなく自分自身を中心としていたとしたら、ふたりのような強く結び付けられた信頼関係はやはり生まれなかったでしょう。
ふたりのような友情は、二人が共に神様の御心を第一とする時にこそ築き上げられるものです。
③ もうひとりの友
皆さんがもし、自分にはダビデのような、またヨナタンのような友はいないと感じるようでしたら、ぜひ祈り求める所から始めてみて下さい。
そのような心の友となる存在は、実はもう皆さんの身近にいるのかもしれません。
お互いの心の中心が自分自身になるのではなく、神様がいる時、その友人との関係はさらに確かなものとなり、揺らぐ事のない真の友情へと育っていくのです。
その相手は、もしかしたら今皆さんの隣に座っている人かもしれません。
もしかしたら、皆さんの妻や夫かもしれません。
このような友を身近に持つ事ができたなら、それはわたし達にとって本当に心強い助けとなるはずです。
しかし、わたし達クリスチャンにとって幸いなのは、わたし達に少なくとももうひとりの友もいてくれるという事です。
その友の名は、イエス様です。
世界が始まる前から存在し、神の右に座す、神のひとり子イエス・キリスト。
しかし、尊い存在であるイエス様は、わたし達を友と呼んでくれました。
これ以上に心強い友は、他にありません。
イエス様は言いました。
ヨハネ 15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
ヨナタンは、怒るサウル王との間に立って命がけでダビデを護りました。
イエス様は、罪びとであるわたし達のために命を捨てて十字架にかかり、永遠の死からわたし達を救って下さったのです。
わたし達の友なるイエス様は、わたし達が苦しい時も、辛い時も、いつでもわたし達と共に歩んで下さいます。
わたし達が例え死の影の谷を歩く時も、イエス様という親友が共にいるから、わたし達は恐れる必要がありません。
わたし達が孤立し、たとえ世界から忘れ去られたように感じても、わたし達の周りには、敵しかいないように思える時でも、イエス様は決して見捨てることなくわたし達の側にいて下さいます。
クリスチャンになるという事は、キリスト教の教えを守るとか、クリスチャンらしいふるまいをするというようなものではなく、神様との親しい関係を築くという事です。
皆さんは、そのように親しいイエス様との友情を、育んでいるでしょうか?
もしわたし達が、そのようなイエス様の愛や親しみを感じないとしたら、それはわたし達がイエス様との間に壁を作り、親しい交わりを持とうとしていないからかもしれません。
どうか、扉を叩いて呼びかけて下さる主の声に耳を傾けて、心の扉を開いて下さい。
そして、思いの内の全てを、イエス様に聞いていただく事です。
聖書を通して主の言葉に耳を傾け、すべての事を祈ってみて下さい。
完全な存在である神様に対して心を開く事ができないなら、欠点だらけの人間同士の関係で、どうして深い交わりを持つ事ができるでしょうか?
全ては、神様との関係に入る所から始まります。
その交わりの中にまだ入っていないなら、まずはそこからです。
皆さんが、主との友情を深め、お互いの友情もまた深めていくことができますように。