Iサムエル記8:1-22 『 サムエル記③~王を与えて下さい 』 2010/07/25 松田健太郎牧師
Iサムエル記 8:1~22
8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。
8:2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。
8:3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。
8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
8:9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」
8:21 サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。
8:22 主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。
サムエル記から3回目のメッセージになります。
第一回は、母ハンナの話で始まり、ようやく待望の子サムエルが生まれました。
二回目で、神様が呼ぶ声を聞いて、サムエルはやっと預言者になりました。
そして三回目には、年老いてもう選手交代なわけです。
どんなすごい預言者が現れたのかと期待させておいて、何ともう終わりなんですね。
でも、サムエル記という本自体はまだまだ続きます。
サムエルの登場から始まるこのサムエル記は、別にサムエルの話が中心となっているわけではないんですね。
① 王を与えて下さい
さて、「王を与えて下さい!」という、民衆の叫びが今日のテーマです。
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
彼らはなぜ王を求めたのでしょう?
3つありますが、まずは初めの二つを見ていきましょう。
ひとつにはサムエルが老いてきて、指導者としての仕事ができなくなってきていた事。
ふたつ目に、サムエルが跡取りとして考えていた子供達に、問題があったからです。
8:3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。
サムエルは自分の息子達を跡取りと考えて、ヨエルとアビヤのふたりをさばきつかさとして命じていました。
ところが二人の子供たちは、決して良い育ち方をしていなかったのです。
つい先週の話に出てきた、育ての親だったエリの家庭を覚えているでしょうか?
皮肉なことですが、サムエルのふたりの息子達は、かつてその裁きを告げたホフニとピネハスと(あそこまで酷くはないですが)同じような育ち方をしてしまっていたのです。
あんな指導者のもとではやっていけない。
やっていきたくない。
わからない話ではないですよね。
「このままではいけない。何とかしなければ・・・。」と問題意識を持つ事は正しい事です。
しかし、わたし達は少し気をつけなければならない事もあるのです。
不平や不満というものは、誰でも持っているものだと思います。
そして、自分の思う通りに事が運べば、すべてがうまくいくはずなのにと思うのです。
この時のイスラエルは、「わたし達に王がいれば、わたし達は幸せになれるのに。」という思いがあったわけです。
わたし達にも、それぞれ不平や不満があるものです。
牧師という立場だからかもしれませんが、「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに。」というつぶやきを、僕はとてもたくさん耳にします。
でもその多くは、自分が不幸である理由を、環境や状況のせいにしているように思うのです。
「もう少し、お金があれば幸せになれるのに。」
「自分が病気でなければ、わたしは幸せになれるはずなのに。」
あるいはその矛先が、人や神様に向けられる事もあります。
「夫がもう少ししっかりしてくれたらいいのに。」
「妻が、もうちょっとそっとしておいてくれたらいいのに。」
しかし、幸せというものは、環境や状況によって得る事ができたり、誰かが何かをするという事などによって得られるものではありません。
わたし達が物や人から得る幸せはすぐに当たり前のものとなって、もっと多くのものを得られなければ幸せになれなくなるのです。
だから、例え物事が思い通りになったとしても、わたし達が幸せになるとは限らないのです。
お金がなければ幸せになれないと思う人は、お金が少し入ってきても、入ってきたなりの悩みが増えて幸せではなくなります。
病気がなくならないと幸せになれないと思っている人は、病気がなくなっても、別の問題が起ったらそれまでです。
人々が求めるようにイスラエルに王が与えられたからと言って、全てが思い通りにいってみんなが幸せになれるわけではありません。
それどころか、大変な事が起るのだとサムエルは神様からの警告を述べ伝えています。
8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
しかし、ここに奇妙な事が起ります。
今王を立たせる事は、本来神様の御心ではなかったはずなのに、神様はこの声を聞き入れるようにとサムエルに命じたのです。
8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
たとえそれが御心に適っていない事であっても、神様がわたし達の願いに応えて下さる事があります。
それは、わたし達の頑固さからくるものであり、わたし達が失敗から学ぶためのものです。
実際にこの後、イスラエルが迎える王によって、預言の通りたくさんの悲劇が起り、イスラエルはそこから多くの事を学ぶ事になります。
わたし達の祈りは、自分の思う事をごり押しするような祈りになっていないでしょうか?
あるいは、七夕の短冊のような祈りになってはいないでしょうか?
神様は、そのような祈りにも応えて下さるかもしれません。
しかしその結果は、決してわたし達を幸せにはしないでしょう。
そうではなく、わたし達はイエス様の祈りを、わたし達はお手本にしたいものです。
ルカ 22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
② ほかのすべての国民のように
さて、彼らの考え方にはもうひとつ問題がありました。
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
彼らが王を求めた第3の理由、「他の国には王がいるから、わたし達にも王が必要だ。」という動機に問題があったのです。
「みんなが持っているから。」これは、子供から大人までもが捕まってしまい易い価値観です。
「どうしてDSが欲しいの?」「だって、みんな持ってるんだもん。」
「どうしてヴィトンのバッグが欲しいの?」「だって、みんな持ってるんだもん。」
「どうして仕事の後に飲み会に行くの?」「だって、みんな行くんだもん。」
子供も大人も、みんながやっている事は、自分もやらないといけないような気がする。
それも、社会で仲間外れにされず生きていくために身に付けた知恵かもしれませんが、聖書の教えはそうではないという事を知っていただきたいと思います。
神様は、わたし達ひとりひとりを、目的をもった特別な存在として創りました。
わたし達にとって一番大切なのは、“みんなが”何を言っているかとか、“みんなが”何を持っているかではなく、“神様が”どのような存在としてわたし達を創ったのかという事です。
わたし達はこれまで、何を基準にしていいのか分からないので周りを見ながら生きてきました。
しかし神様を知った今、もうそのようには生きなくてもいいのです。
基準は周りにあるのではなく、神様にあるのですから。
そして神様は、わたし達個人のために、最も相応しく素晴らしいものを与えられるからです。
もしこの時、イスラエルの民が自分たちで「王が必要だ。」と判断するのではなく、まず神様に訊ねていたとしたら、どんな答えを与えられていたでしょう。
これは想像でしかありませんが、僕はサムエルがエリに預言したような事を話す事になったのではないかと思います。
神様の言葉として、ふたりの息子達が悪事を繰り返すのを見過ごしてはならないと、サムエルはエリに伝えました。
奇しくも、同じように子供達が悪事を働き始めたサムエルに対して、「子供たちを悔い改めさせなさい。」という同じメッセージが伝えられる必要があったのではないでしょうか。
その結果がどうなっていたかは、もちろんわかりません。
しかし、わたし達が神様の御心を訊ね、それに聞き従うなら、神様は最悪の状況をも祝福に変える事ができるのです。
このように書かれている通りです。
ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
全ての事を益として下さる神様の計画に信頼して、すべてを委ねて毎日を生きたいものです。
③ 主こそわが王
旧約聖書の中で、イスラエル人は罪人としてのわたし達の代表ですから、イスラエルの人々の罪は、わたし達が陥りがちな罪を表しています。
不平不満に満たされたり、自分勝手な願いを祈ったり、となりの家の芝生が青く見えたりする事は、わたし達にもある事ではないかと思います。
わたし達を決して幸せにはしないこのような罪を、わたし達はどのようにして回避する事ができるのでしょうか?
それは、わたし達が神様を王として従う生き方をし始めるという事です。
昨年末のメッセージでもお話ししましたが、神様を王とするという事がどういう事なのかを、もう一度考えてみましょう。
生まれながらのわたし達は、このような状態にあります。
わたし達の周りには様々な問題や、出来事、想いがありますが、自分が中心となっている間はすべてに調和がなく、目的もなく、混乱した状態にあります。
神様を心の外に追い出して、自分が自分の世界の王となろうとしているのです。
イエス様を心の内にお迎えした時、わたし達はクリスチャンになります。
しかし、クリスチャンとしてキリストを心の内にお迎えしても、キリストを追いやって自分が人生の支配をしようとすると、生まれながらの状態と何も変わりません。
しかし、自分がその王座から退き、神様に全てを委ねて人生を始める時、わたし達の周りのものは全て意味と目的を持ち始め、人生の中に調和が生まれます。
この世界の創造主は神様であり、全てを支配しているのも主だからです。
これこそ、わたし達があるべき神様との関係であり、神様主導による王制なのです。
これがイスラエルにとっての王であるはずなのに、人を王として立てようとしたから、サムエルは不信感を露わにしたのです。
イエス様はこれを、神の国とか、天の御国という言葉で表現しました。
神の国というのは、わたし達が死んでから行く場所なのではなく、生きている間から味わう事ができる前倒しの天国のようなものです。
神様を王として従う人生を歩むとき、わたし達は人の態度や周りの環境によって幸せがそこなわれるような価値観から解放されます。
神様を王として従う人生を歩むとき、わたし達は自分を愛さない相手をも、愛する事ができるようになっていきます。
神様を王として従う人生を歩むとき、わたし達の人生は、より喜びに満たされていくようになるのです。
皆さんが、このような王との出会いを望み、喜びをもって迎え入れる事ができますように。