『 Messy Church ⑥ 適切な関係を築く教会 』 2012/10/07 松田健太郎牧師
Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
Messy Churchというシリーズでお話をしてきています。
私たちは罪人の集まりであり、傷や汚れのある人間です。
教会の外からは、清く正しい人とか、逆に偽善者という風に見られてしまいがちではありますが、私たちは紛れもなく、罪人のひとりです。
だから私たちは、失敗もしてしまうし、醜い部分も持っています。
いつでも優しくできるわけではないし、間違えたこともしていまいます。
それなのに清く正しいふりをしてしまうから、偽善者に見えてくるのでしょう。
私たちはまず、自分が間違いなく罪人であることを認める必要があるでしょう。
しかし、そんな私たちがイエス様の愛によってつなぎとめられる時、そんな私たちの失敗や間違いも、味のある傷や汚れへと変わっていくことになります。
逆に言えば、イエス様の愛の中にいない状態の私たちは、単に見苦しい者であったり、偽善的な正しさの中に生きるだけの集まりとなってしまうでしょう。
そこでしばらくの間、私たちをつなぐ“愛”というものについて話し合う時をもっていますね。
先週学んだのは、愛は寛容であり、親切であり、ねたまず、自慢せず、高慢にならないということでした。
今週は、愛のリストの中盤を見ていきたいと思います。
① 愛は礼儀に反しない
第4に、愛は礼儀に反しないという事です。
日本人は礼儀を重んじる国民性だとして、海外からは知られています。
しかし、確かに体裁は整えるけれど肝心なところで礼儀の意識が薄いのが、日本人の残念だと僕は思います。
「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがあります。
でも多くの人は、親しい事とぶしつけに言いたいことをなんでも言うことを同じだと考えている人が多いように思うのです。
ある教会では、互いに正直になりましょうという事を言った途端、教会の内部で争いが起こり、みんなが傷ついて、ほとんどの人たちがいなくなってしまったそうです。
これは悲しいですね。
人間の本性って、こんなものなのかと思わされます。
そこでその方たちは、「自分の弱さに関しては、正直になるようにしなさい。」と指導するようになったそうです。
確かに、自分の思ったことを何でも言えばいいということではなくて、まず自分の弱さに目を向けて、その部分から正直に語っていくことは大切なことですね。
しかしそれだけではなく、私たちは時として、愛ゆえに人に何かを注意したり、戒めなければならないこともあります。
でもそこには、適切な言い方、伝え方というものが求められるのです。
どれだけ思いを込めた正直な言葉でも、伝え方を間違えれば相手を傷つけ、怒らせることにしかなりません。
では、どのようにして伝えればいいのでしょうか?
聖書にはこのように書かれています。
Iペテロ 5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです
言葉をどれだけ飾っても、あまり意味はありません。
必要なのは、私たちが互いに尊敬の念を忘れないということなのです。
上から目線ではなく、互いに謙遜な気持ちで相手に伝えるなら、私たちは礼儀に反することはしないのではないでしょうか?
② 愛は見返りを求めない。
第5のリストを見てみましょう。
Iコリント 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
聖書の言葉そのままをとると、自分の利益を求めないということですが、これは必ずしもすべてのことにおいて無料奉仕をするべきだということではありません。
自分の利益を求めてはいけないとか、自分の利益を得たら愛ではないという事がこの言葉のポイントではないのです。
少し言い換えるなら、愛において行動をする時、私たちは見返りを求めないということでしょう。
なぜなら、愛することは、自分が何を得るかということではなく、与えることだからです。
自分がした事に関して、何の感謝も、反応もなかった時、どう感じるかによって、わたし達の行いは愛から来たものかどうかが試されます。
もし私たちが、「こんなに世話してやったのに、礼のひとつもない。」とか、「こんなに愛したのだから、あなたも私のことを愛するべきだ。」と考えるなら、それは愛から来たものではなく何か見返りを求めた行動だったのでしょう。
そう考えて行くと私たちは、どれだけ多く「愛されるため」や、「自分の存在を認めてもらうため」に行動していたのかと言う事に気付かされます。
しかし、感謝を受けるために行動するのではないからと言って、わたし達は感謝の気持ちを表さなくても良いという事はありません。
見返りを求めていない所に受ける感謝の気持ちは、それはそれでとても嬉しいものです。
わたし達は、お互いにもっと心から愛し合う事ができるように、小さな事に感謝を表す事も忘れないでいたいものです。
③ 愛は怒りに支配されない
愛は怒らないというのが、愛のリストの6番目に書かれている事です。
これは本当でしょうか?
神は愛であり、イエス様は愛の方です。
では、父なる神様は怒らなかったでしょうか?
イエス様が怒りをあらわにする事はなかったでしょうか?
いいえ、神様の怒りによって大洪水が起ったし、ソドムとゴモラは滅ぼされました。
律法学者やパリサイ派の人々に対してイエス様は怒りを露わにしたし、神殿で商売をする人々に対しては台をひっくり返したりもしました。
それでは、この言葉は矛盾してしまうのではないでしょうか?
怒る感情は神様が与えて下さったもので、誰でも持っているのです。
そして、正当な怒りもあります。
怒りの感情をただ抑えつける事が正しいのでは決してありません。
ここで言われているのはそういう怒りではなく、感情に任せて怒りを人にぶつける事です。
もう少しイメージしやすい言葉に直すと、“キレる”という事かもしれません。
愛するなら、容易にキレて、怒りに我を忘れたりしない。
これがポイントです。
聖書にはこの様に書かれています。
エペソ 4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。 4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
罪や、不正に対して、わたし達が抱くべき正当な怒りがあります。
その怒りが社会に平等をもたらし、奴隷を解放し、女性に人権を与え、医療を発展させてきました。
しかし、わたし達が単に怒りの感情に振り回されてカッとなって行動しても、良い事は何もありません。
そのような恨みつらみ、憎しみから来る怒りの感情は、むしろ悪魔に機会を与える事になると聖書は警告しているのです。
それでも私たちは、怒りに我を忘れて失敗してしまう事もあります。
怒りの感情が、愛を押しのけてしまうような事もあるでしょう。
そのような時にどうすればいいのでしょう。
イエス様は、この様に話しています。
マタイ 5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
今、わたし達の中に、愛から来るのではない怒りがあるでしょうか?
礼儀に反する事をしていないか、見返りを求めていないかと言う事も含めて、思い返してみてください。
そして少しの間、神様の前に悔い改める時を持ちたいと思います。
全て大丈夫だという人はいないと思うからです。
悔い改めるという事は、その事を後悔するという事ではありません。
その罪から離れるという事ももちろんありますが、それ以上に神様に立ち返るという事が求められています。
わたし達が本当に愛するという事を知るためには、まず神様の愛を知る必要がある事を、もう一度確認してください。
そして、愛のないわたし達をそれでも神様は愛し、祝福し、足りない部分を贖って下さっている事を思い出していただきたいのです。
神様の愛が全てを覆い、全てを包み込みます。
平安の元に、全てを委ねて祈りましょう。