『 Messy Church ⑧ 神の愛に生きる教会 』 2012/10/28 松田健太郎牧師
Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
Messy Churchのシリーズもいよいよ最後となりました。
後半は、わたし達がMessy Churchとして機能していくために不可欠な愛という事に焦点を置いてお話をしてきましたね。
これまでお話ししてきた、愛に関する8つのポイントをもう一度復習しておきましょう。
1:愛とは、正しい事よりも相手の成長を待つ事を優先する寛容さをもつ事。
2:愛とは、積極的なやさしさを発揮する親切をもつ事。
3:愛とは、人と比較する事をやめて、ありのままの相手を見る事。
4:愛とは、親しくても礼儀をわきまえる事。
5:愛とは、見返りを求めない事。
6:愛とは、キレて我を忘れてしまわない事。
7:愛とは、人の悪い部分ではなく良い部分を見る事。
8:愛とは、相手に嫌われる覚悟をもって、真理を大切にする事。
今日は、最後のひとつと総まとめです。
それでは早速見て行きましょう。
① 愛はあきらめない
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
これが愛のリストの9つ目なのですが、皆さんはどのようにこの言葉を受取られるでしょうか?
実は、この言葉も多くの方に誤解されている言葉のひとつの様に思うのです。
これは、「自分がどれだけいじめられ、傷つけられても、耐えて、耐えて、耐えるのが愛だ」という言葉ではありません。
わたし達日本人は特にこういう“耐える愛”を美徳とする傾向があるのですが、それはわたし達が自分の文化と照らし合わせて考えてしまう事であって、聖書が本当に言いたい事ではありません。
ここに書かれている“すべてをがまんし”、“すべてを信じ”、“すべてを期待し”、“すべてを耐え忍ぶ“という事を分りやすくひとつの言葉で表すと、「あきらめない」という言葉になります。
わたし達が愛するなら、その人の事を決してあきらめないという事なのです。
あるクリスチャン女性には、ノンクリスチャンの夫との間に息子がいました。
この青年は悪い仲間たちを持ってしまい、次第に道を外れて行ったのです。
過激な格闘技観戦を好み、やがてカルトにのめり込み、不品行を繰り返して結婚していない女性との間に子供もいました。
母は息子のために聖書を送りましたが、読んでいる形跡はなく、ずっと放置されたままでした。
そして、この息子のために何年も、何十年も祈りましたが、変わらないどころかどんどん酷い状態になっていくように見えました。
やがてこの女性は、重い病気を患ってしまいました。
そして、もう息子のためには何もできないと思っていた時、奇跡は起ったのです。
青年は、近所の子供が言った「取って読め。」という言葉を、神から自分へのメッセージとして聞きました。
その時、母にもらったままずっと放置していた聖書の事を思い出し、それを読んだのです。
彼が読んだのはローマ人への手紙だと言われていますが、彼はそれを読み終わり、そこに神様を見出して、救われました。
青年が息子と共に洗礼を受けたその年の内に、彼のために長年祈ってきた母は亡くなりました。
彼女の名はモニカ、そしてこの青年の名前はアウグスティヌスと言います。
彼はその後、神学的にも多大な功績を残し、現代にいたるまで人々に大きな影響を与えました。
アウグスティヌスは後に本の中で、最後まであきらめなかった母の献身的な祈りがなければ、自分の人生はろくでもない終わり方をしていただろうと言っています。
わたし達は、ある人達と関わりながら、あまりその人達が変わらないという事がわかったり、あまり良い反応でなかったりすると、その人の事をあきらめてしまいたくなるのではないでしょうか?
いっそ、あきらめて、関わり合いにならない方が楽だと思ったりもします。
確かに、積極的な伝道やカウンセリングを通しても人は変わらない事もありますし、時には距離を置く必要がある時もあります。
しかし、わたし達は愛する人達の事を決してあきらめたりせず、その人達のために祈り続ける事が求められているのです。
② 自分の中に愛はない事を知る
さて、ここまで愛とは何かという事を9つのリストによって学んできたわけですが、皆さんはどのように思われたでしょうか?
愛する事の大切さ、素晴らしさを感じるとともに、しかし愛する事の難しさも実感したのではないでしょうか?
もしかしたら、「自分には、こんな風に愛するのはムリだ。」と思って苦しくなってしまった方もいるかもしれません。
僕自身、何度も必死になって自分の力で人を愛そうとして、ボロボロになってしまったり、自分自身に対してあきらめてしまったり、出来ない自分に落ち込んだ事もたくさんあります。
イエス様は、「隣人を愛しなさい。」と言い、「愛する事が律法をまっとうする。」と言いました。
でも、その愛はあまりに大きく、難し過ぎるように感じます。
そもそも、わたし達は人をこの様に愛する事ができるのでしょうか?
その答えの一つは、“できない”ということです。
わたし達がどれだけ頑張っても、わたし達は本当の愛で人を愛する事ができません。
そもそも、もしそれができるなら、わたし達は律法をまっとうする事ができるという事になるのですから、イエス様は十字架にかかる必要がなかったでしょう。
わたし達は努力し、苦労を重ね、人を真の愛で愛せるようになって、天の御国に入ればいいのです。
しかし聖書は、わたし達は律法を全うする事ができないと言います。
ローマ 3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
もしわたし達が、ムリをしてこのような愛を実践しようとすれば、わたし達は表面的に愛があるようなふりをするだけになるでしょう。
そして、自分には愛があるような気分になって高ぶり、愛のない人達を裁くようになるのです。
その時点でもう、わたし達は愛から外れてしまいます。
わたし達には力が足りない。
わたし達は、愛が圧倒的に不足している自分自身を知り、だから神様の愛を必要としている事に気が付く必要があります。
そして、それができないからイエス様がこの地上に来て下さり、わたし達のために命を投げ出して、十字架にかかって下さった事を知らなければなりません。
そこにあるのは、わたし達の愛ではなく、神様の愛なのです。
③ 主にあって、愛する事ができる
先ほどの質問にもう一度戻りましょう。
わたし達は、人を本当の愛で愛する事ができるのでしょうか?
今さっき、僕は“できない。”“わたし達の中にそのような愛はない”と言う話をしました。
しかしこの質問にはもう一つの答えがあります。
それは、わたし達は“主にあって愛する事ができる”という事です。
確かに、わたし達にとって、真の愛で愛する事は難しい事です。
なぜそんなに難しいのかと言うと、わたし達は愛されたようにしか愛する事ができないからです。
わたし達が経験してきた愛は乏しいので、どれだけその愛を絞り出しても、愛する事は難しく苦しいのです。
しかし神様にはその愛があります。
わたし達は神様によって真の愛を受け、その愛をわたし達の内に育くむ事ができるのです。
人から愛される事が悪いわけではもちろんありません。
でも、わたし達が人の愛を求め続ける限りは、わたし達が完全な愛を知る事も出来ません。
わたし達が神様の愛を求め、その愛を受けることによってのみ、わたし達は真の愛に近づいて行く事ができるのです。
大切なのは、わたし達がどれだけ愛しているかではなく、神様がわたし達をどれだけ愛して下さっているかなのです。
1:神様はわたし達を愛しているので、寛容になって、わたし達が正しい事よりも成長するのを待つ事を選んで下さいます。
2:神様はわたし達を愛しているので、積極的なやさしさを発揮して、わたし達に親切でいて下さいます。
3:神様はわたし達を愛しているので、比較の中でわたし達を見るのではなく、ありのままのわたし達を見て下さいます。
4:神様はわたし達を愛しているので、礼儀をわきまえ、人格を尊重して下さいます。
5:神様はわたし達を愛しているので、わたし達から見返りを求めません。
6:神様はわたし達を愛しているので、我を忘れて怒ったりしません。
7:神様はわたし達を愛しているので、わたし達の悪い部分ではなく良い部分に目を留めて下さいます。
8:神様はわたし達を愛しているので、たとえわたし達に嫌われても、真理を伝えようとして下さいます。
9:神様はわたし達を愛しているので、決してあきらめることなく、わたし達の成長を忍耐強く待って下さいます。
神と自分と隣人を愛しなさいとわたし達に命じた神様は、わたし達が愛する事ができる何倍もの愛で、そして絶える事のない永遠の愛で、すでにわたし達を愛して下さっているのです。
わたし達がこの事を、知識としてではなく自分自身の事として受け取る事ができた時、その愛はわたし達の力となります。
何度も話してきた事ですが、わたし達がMessy Churchとして成り立つために、愛は必要不可欠な要素です。
わたし達の内に起るその愛は、完全に神様の愛に依存しているのだという事を決して忘れないでください。
わたし達がこの愛を自分の中から絞り出そうとするなら、わたし達は必ず疲れ果て、やがてみんな燃え尽きてしまうでしょう。
わたし達は愛されています!
その神様の愛の中に、ひたすら満ちている事ができますように。