『 イースター2014 復活がなければ 』 2014/04/20 松田健太郎牧師

今日はイースターです。
みなさんは、イースターって何かご存知ですか?
およそ2000年前、イエス様が十字架に架けられ、私たちの罪を贖うために死んでから3日後に蘇りました。
その事を覚えてお祝いするのが、イースターです。

十字架で死んで下さったという事を祝うのではなく、復活を祝うのがイースターなんですね。
いつも十字架十字架と言っているのに、ちょっと不思議な感じがしませんか?

私たちはどうも、イエス様と言うと、十字架の事ばかりを考えてしまう傾向がある様に思います。
確かに、私たちを救うために命を投げ出して下さったというその愛の大きさは、本当に素晴らしい事ですし、私たちの心を揺さぶる、福音の中心であることに間違いはありません。
実際、イエス様が十字架で死んだところで終わっていれば、私たちにとっても信じやすいし感動的なのです。

なのに、復活して天に昇って行ったなんて言うから、多くの人たちは非科学的でバカバカしいと思ってしまうわけです。
そのうえ、「私たちのために死んで下さった。」という事で感動していたのに、すぐに生き返ってしまうので、なんだかありがたみが薄れるというか、感動も少なくなってしまうようにさえ、感じる人もいます。

単に宗教を広めるという事を目的とするならば、あまりにも下手くそなやり方ではないでしょうか。
教えを広めたいなら、もっと受け入れやすい話にすればよかったのです。
信じてもらいたいなら、信じやすい話にすればよかったのです。
復活の話なんて、いっそ除外してしまった方がみんなに受け入れられるのではないですか。

しかしイエス様の復活は、少なくとも十字架による罪の贖いと同じくらい、場合によってはそれ以上に大切な事として、聖書には描かれています。
弟子たちにとってイエス様の復活は、信じがたいけれど信じるしかない、紛うことない事実であり、聖書から除外することなど考える事ができない、重要な真理でした。

パウロはこのようにさえ言っています。

Iコリント15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

 

Iコリント15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

イエス様の復活の、何がそれほど大切なのでしょうか?
今日は、イエス様の復活を祝うイースターです。
だから今日は、私たちが案外見落としてしまっている、この復活の事について、じっくり考えてみたいと思います。

① イエス様がキリスト
イエス様の復活は、どうしてそれほど大切な事なのでしょうか?
まず第一に、復活はイエス様がキリストである事のしるしだからです。

人は誰でも死にます。
十字架による処刑で殺された人も、当時はそれほど珍しい事ではありませんでした。
無実であるにも関わらず、冤罪によって死刑にされた人も、歴史の中ではたくさんいたでしょう。
死んでから蘇生した人も、決して多くはありませんが、いないわけではありません。
それだけでは、しるしにならないのです。

人類が罪に陥った時から、神様が与えて下さると約束していた救い主。
それが誰なのかと言うしるしが、聖書には300以上あると言われています。
イエス様の十字架での死と、3日後の復活は、その中でも最も重要なしるしのひとつなのです。

イエス様の死と復活は、何100年も前から旧約聖書の中で預言されていました。
たとえば、ヨナが大きな魚に飲み込まれて、3日後に吐き出されることは、イエス様の死と3日後の復活を暗示していました。
そしてイエス様は、自分がやがて死に、3日後に復活しなければならない事を知っていて、色々な形で弟子たちに伝えていました。

ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 

マタイ17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

こうして、聖書の中に預言され、自分自身でも死んでよみがえる事を宣言して、実際にそれが起こった人は、イエス様の他にはいないでしょう。
だからトマスを始め、疑い深い人たちでさえ、復活したイエス様と出会った時、自分の命を捧げるほどに深く信じていったのです。
そして復活の主と会った人たちは、誰もがその事実を驚くべき真実として、人々に述べ伝えたのです。

② 死を打ち破った
イエス様の復活が大切であることの第二の理由は、 それが“死”という罪の呪いを打ち破り、勝利した事を表していたからです。

“死”というものは、もともとこの世界にあったものではありませんでした。
全てのものは、命で満ち溢れていたのです。
しかしアダムとエバが善悪の知識の木からとって食べた時、人間は霊的な命を失い、死んだ者となってしまいました。
神様が「食べたら死ぬ」と約束していた通りです。
肉体の方はすぐには滅びませんでしたが、霊的に死んだ者となった事によって、人間はやがて肉体的にも死んでしまう存在となったのです。
その死の呪いを打ち破ることこそ、神様による人類救済計画のゴールでした。
そしてイエス様がメシヤであるという事は、イエス様がそれを実現するという事なのです。

イエス様は、このように言いました。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

イエス様が、私たちの罪を贖うために十字架にかかった時、人類の罪の呪いは、イエス様とともに十字架に架けられました。
ペンテコステの日、信仰を持つ人々の上に聖霊が注がれたとき、人々の霊には新しい命が吹き込まれました。
それでもまぁ、肉体的に新しい命が吹き込まれるのはまだ先の話なのですが、その先駆けとしてイエス様がよみがえり、復活の体で多くの弟子たちの前に現れたのです。

③ 復活の信仰
確かに、聖書に書かれている事の中には、バカバカしいほどに信じる事が難しい出来事もあります。
多くの人たちが、聖書は非科学的だと言って信じようとしません。
でも、何も科学なんて持ち出さなくても、当時の人たちでさえその多くは信じる事ができませんでした。
イエス様といつでも行動を共にしていた弟子たちでさえ、イエス様がよみがえって目の前に現れても、それがイエス様だという事に気が付くことすらできませんでした。
そんな弟子たちが、復活のイエス様と時間を共にする体験の中で、信じざるを得ない事に気が付いていきます。

復活は、信じる事が最も難しい奇跡のひとつですが、だからこそ本当だったとすれば、それは大きな保障となります。
復活が本当なら、聖書に書かれている約束はすべて本当の事だったという事なのです。

神様は私たちを愛し、私たちを見捨てず、私たちを救い出して下さった。
イエス様は、今も私たちとともにいて下さり、私たちを慰め、私たちを励まして下さる。
聖霊は私たちの内に住んで下さり、私たちを内側から変え、導き、教えて下さるのです。

イエス様の十字架と、復活。
それこそ、私たちの希望です。
皆さんは、それを信じる事ができるでしょうか?

復活を祝うこのイースターが、皆さんのためにも特別な日となりますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です