『 罪からの解放②~なぜ罪から離れなければならないか? 』 2012/11/11 松田健太郎牧師

先週は、「罪とは何か?」というお話をしました。
少しおさらいをしてから今日のお話しに入りましょう。

まず、聖書で言う罪とは、神様の御心から離れているマト外れの状態だという事です。
わたし達は、罪とは悪い行いの事だと思ってしまいがちですが、例え善いと思える行いでも、信仰から出ないものはすべて的外れであり、聖書ではそれを罪と呼んでいるのです。

その罪の根っことなっているのが“原罪”です。
わたし達が、“神様から離れ”、“自分が神になろうと”している状態の時、わたし達のする事は神様の御心から離れてしまうからです。
この“原罪”がある限り、わたし達の行いはすべてマト外れになってしまうのです。

行いの罪であれば、犯さなければ良いような気がします。
また、その罪に対して償いをする事も可能であるような気がします。
でも、神様との関係の中に生まれてしまった罪の根っこに関しては、わたし達の力ではどうする事もできません。
だからこそ、神様の側がわたし達に働きかけて下さる必要があったのです。

原罪が引き起こしている神様との関係を修復して下さるために、わたし達の元に来て下さったのが神の御子イエス・キリストです。
神様ご自身が犠牲となって命を投げ出して下さる事によってこの溝は埋められ、わたし達は神様との関係を修復するための手掛かりを得ました。
その事を信じて、神様との関係の修復を願う信仰を持つわたし達の罪は、赦され、贖われたのです。

① 罪から離れる
多くの教会ではここまでを福音として考え、一番大事なこととして人々に伝えています。
魂の救いであり、わたし達が永遠の命をどこで過ごすかに関わる事ですから、最も重要な事である事は確かです。
でも今日は、その罪の本質である原罪を念頭に置いたうえで、行いとしての罪にもう一度目を向けて行きたいと思います。
わたし達にとってももっと身近であり、考える必要が出てくるのは、この行いとしての罪だからです。

原罪が赦されて救いを受けたわたし達クリスチャンにとって、行いの罪を考える時、ふたつの極端なアプローチがあります。
ひとつは、罪はすべて贖われたんだから何をやってもいいんだという考え方です。
実を言うと、クリスチャンになって間もないころの僕は、本気でそのように考えていました。
罪は赦されて神様の裁きを受けないのだから、よほど悪い事をしなければいいだろうと思って、クリスチャンになる前よりも返って悪い事をしてしまったりしたのです。
でも、それが神様の御心から離れている事は確かな事ですね。

マタイ 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

これが救いを失って天国には行けなくなるという意味かどうかはともかくとして、この考え方が正しい者でない事だけは確かな事だと思います。

一方で、律法主義的に罪から離れる必要があると考える人達もいます。
そのような価値観をもつ人達は、罪と言うものは神様が禁じている“禁止事項”であって、この禁止事項を破ると、神様によって罰が与えられるから、わたし達は苦しむ事になるのだと考えているようです。

神様の罰を受けたくはないですから、この人達は確かに罪からは離れて正しい生活をするかもしれません。
しかし、こういう価値観の中から出てくるのは、このような言葉なのです。
「どこまでだったら大丈夫ですか?」

パリサイ派のユダヤ人や律法学者たちが、まさにそのようなタイプの人々でした。
だから彼らは、「どこからどこまではオッケーで、ここから先は罪」と言う事を勝手に決めて人々に教えていたのです。
この考え方をイエス様が嫌っていた事は言うまでもありません。

どちらも間違ったアプローチですが、原罪が赦されたわたし達がどうするべきだと、聖書には書かれているでしょうか?
Iペテロ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

イエス様がわたし達のために命を投げ出して下さったのは、わたし達を天国に行かせるためだけではなく、わたし達が今罪から離れ、正しい事のために生きるためでもあるのです。
救われたからイイという事ではありませんね。
また、罰を受けないためだという事でもありません。
では、罪がすでに赦されて、贖われているわたし達は、どうして行いとしての罪からも離れて行く必要があるのでしょうか?

② 罪の性質
そのために、わたし達は罪の性質がどのようなものかを知る必要があります。
それは、罪というものが毒のようなものであって、わたし達を傷つけ、苦しめる性質を持っているものだという事です。

善悪の知識の木から取った後のアダムとエバは、互いに罪をなすりつけ合い、愛の関係を失い、互いに傷つけあうようになってしまいました。
その子供のカインとアベルの時には、早速最初の殺人が起ってしまいました。
その後にも、聖書で罪と言うものが描かれている時に何が起っているかを見れば、罪の性質がどのようなものかがわかります。

罪は、それを犯すわたし達自身を傷つけ、わたし達の周りの人達を傷つけるものです。
往々にして、その罪によって傷つくのは、わたし達の家族や友人や、恋人、わたし達にとってもっとも身近で、大切な人達なのです。
それだけではなく、その罪が起こす傷は無関係な人達までも巻き込んで広がっていきます。
わたし達も、常に他の人達が起こす罪の毒によって苦しめられているのではないでしょうか?

神様は、わたし達がそのようにして傷つけ合い、苦しめ合う事を見ていたくないのです。
そのようなものだからこそ、神様は罪を憎み、わたし達が自分やお互いを傷つけないように、罪から離れなさいと教えているのです。

罪から来るわたし達の苦しみは、神様が与える罰だと思っていた人もいたと思います。
確かにそのような時もないわけではありませんが、神様はむしろ、わたし達がそのような苦しみを得ないようにと導き、助けて下さっているのです。

③ 神様が与える罰
誤解を大きくしないために、神様が与える罰としての苦しみについてもお話ししておきましょう。
神様は確かに、わたし達に罰を与える時があります。
聖書にもこの様に書かれています。

ヘブル 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

そのような時でも、罰として苦しみをあたえる事が目的ではない事がわかるでしょう。
この痛みは、わたし達が罪から離れるためのものであり、またその罪がこれ以上傷を広げないためのものなのです。

ナイフで体を傷つけられ、一部を切り取られるのは怖いし痛い体験です。
しかし、医師は外科手術によって患部を取り除く必要がある時もあるのです。
神様は、ある体験を通してわたし達が罪から離れるために外科手術を施す時があるのです。

その手術が痛いので、わたし達は「どうして神様がそんな事をするんだ。」と言って神様に対して怒りをあらわにしたり、神様を恨む事があるかもしれません。
しかしそれは、神様がより大きな痛みと苦しみからわたし達を守って下さるためのものではないでしょうか?

聖書はこう言います。

マタイ 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

わたし達が右目も右の手も失わずに天の御国に入る事ができるなら、それは大きな幸いです。
出来ればわたし達は、それ程大きな災いになる前に自らの罪に気が付き、そこから離れるようにしたいものだと思います。

次回は、どうやって罪から離れる事ができるかと言う事を共に考えて行きたいと思います。

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