イザヤ1:10-17 『キリストの弟子として生きる①』 2009/05/03 松田健太郎牧師

イザヤ 1:10~17
1:10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。
耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
1:11 「あなたがたの多くのいけにえは、
わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。
「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。
雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。
1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。
香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。
新月の祭りと安息日――会合の召集、
不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。
1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。
それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、
わたしはあなたがたから目をそらす。
どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。
あなたがたの手は血まみれだ。
1:16 洗え。身をきよめよ。
わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
悪事を働くのをやめよ。
1:17 善をなすことを習い、公正を求め、
しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、
やもめのために弁護せよ。」

日本は資格大国と言われるくらい、色んな種類の資格が存在します。
その人に何ができるかを判断する上では、とてもわかりやすいシステムだとは思いますが、しかし同時に、資格さえ取ってしまえば内容はどうでもいいというような考え方もできてしまうようです。
たとえば、大学の卒業資格などがそうで、大学に入学さえできれば、あるいは卒業さえできれば大学生活は遊んで過ごせばいいと考える学生がかなり多いですよね。

他にも、車の免許だけとって運転はしないペーパードライバーや、TOEICの結果が僕なんかよりずっと高くても、英語がまるで話せないという人もたくさんいます。
それでも、実際の能力とは関係なしに資格だけで評価されてしまいますから、そのような傾向はどんどん大きくなりますね。

これは日本に限ったことではありませんが、クリスチャンになるという事に関しても、同じような傾向があるように思います。
信仰告白して、洗礼さえ受けてしまえばもう救いの資格は手に入れたので、後はどうでもいいという事ですね。
そのまま教会から離れてしまう人もいますし、また教会には来ていても、クリスチャンでいるのは教会にいる時だけという人も、決して少なくはありません。

『救いを受けるために必要なのは信仰だけである。』と私たちは学んで気ました。それは、

ローマ 3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。と聖書に書かれてるからです。

その事に間違いはありません。しかし、それと同時に聖書には、

ヤコブ 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。とも書かれている事を忘れてはなりません。

一見このふたつの聖句は矛盾しているように思えるかもしれませんが、そうではなく、ひとつの真理を別々の面から捉えているのです。
聖書は、信仰の伴わない行いは正しい行いにはなりえず、行いの伴わない信仰は死んだ信仰であるという事を教えているのです。
今日のメッセージを通して、私たちが受けている救いがただ資格で終わってしまうのではなく、中身が伴った真の信仰となるきっかけとなるなら幸いです。

① クリスチャンとは何をする人?
さて、皆さんはクリスチャンがどのような人だというイメージをもっているでしょうか?
また、皆さんはクリスチャンとしてどのような行動をとってきたでしょうか?

以前、久しぶりに会った友人にこのように言われました。
「クリスチャンになったんだって? 酒もたばこもできないし、毎週教会に行かないといけないから大変だろう?」
一般の人にとってのクリスチャンのイメージは、この程度かもしれません。

でも実を言えば、クリスチャンになった私たちにとっても、自分たちがクリスチャンとして何をするべきかという事を理解するのは、決して簡単なことではないかもしれません。
キリスト教会もまた、神の名の下に人を殺すという過ちを何度も犯してきました。
現代でもクリスチャンの中には、中絶反対や反戦運動に一生懸命になるあまり、“お前たちは地獄に落ちる”とか、“神の裁きがお前たちに下る”とか、ショッキングなプラカードを振り回す人たちもいます。

それほど極端ではないかもしれませんが、私たちも何が正しいことなのかを見失うことがあります。
クリスチャンとして行動しようと思いながら、その多くは自分が考える正しいことであって、神様がそのように命じているとは限らないような事が多いのではないかと思うのです。

欠かさず教会に行って礼拝を守る、聖書を何度も通読して聖書研究をする、とにかく人に伝道をする、という事であっても、私たちが間違った思いでそれをするなら、神様に喜ばれないという事もあるのです。
先ほど読んだイザヤ書にはこのように書かれていました。

1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。

聖書に書かれているとおりに、イスラエルの人々はいけにえを神様に捧げ、礼拝をしました。
しかし、神様はそれを喜ばれなかった。
それどころか、神様がそのいけにえを忌み嫌うものとさえ呼んだのです。

どれだけまじめに礼拝をしていても、どれだけ厳しく戒めを守っていても、どれだけクリスチャンらしい態度をとって、何人を救いに導いたとしても、その行いが神様を喜ばせるのではありません。
では、私たちはどうすれば神様を喜ばせる捧げものを捧げることができるのでしょうか?

② 正しさではなく、愛によって
神様が喜ぶ第一のこと、それは、私たちが神様と人とを愛するということです。
イスラエルの人々の捧げものを拒んだ神様がイザヤを通して人々に語ったことは、律法や宗教行事として正しいことではなく、思いやりをもって人を愛する事でした。
同じイザヤ書の中で、神様はこのようにも言われています。

イザヤ 58:6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。

新約聖書の中では、もっとも判りやすく、イエス様が私たちに教えてくださっていますね。

マタイ 22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

私たちはクリスチャンとして、何が正しいのかという事を追求してしまいがちです。
それは決して間違っているわけとは言いませんが、私たちの中に義人はひとりもいない、正しい人は誰もいないのだということを忘れてはならないと思います。
それを忘れて正しさだけを追求してしまうと、そこには互いを裁きあったり、憎しみあったりする思いが生まれるだけです。
神様が私たちに求めているのは、そんな正しさなどではなく、愛なのです。

休まずに礼拝を守り続けるのは、そうでなければならないからではなく、私たちが神様を愛するからです。
私たちが偶像を避け、ひとりの神様しかもたないのは、そうでなければならないからではなく、神様がそれを嫌うと言われているからです。
私たちが人々に親切にするのは、そうしなければ罰が当たるからではなく、私たちがその人たちを愛しているからです。
私たちが伝道をするのは、そうしなければ救われないからではなく、私たちが愛している神様を、私たちが愛している人々に知ってもらいたいからです。

愛のない、形だけの礼拝や信仰を、誰がしたいと思うでしょうか。
そんなものを押し付け続ける限り、誰もクリスチャンになりたいとは思わない事でしょう。
そしてそのような礼拝や信仰を、神様も嫌うのです。

私たちの信仰は、愛を土台としたものとなっているでしょうか?
そこに愛がないなら、どんなにすばらしいと思えるような事であろうと、何の価値ももたらしません。

Iコリント 13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

また、このようにも書かれています。

ヨハネ 13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

③ 従うこと
神様が喜ぶ第二のことは、私たちが神様に従うという事です。
イエス様はこの様に言いました。

ヨハネ 14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
ヨハネ 14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

規律やあるいは神様に対する恐怖心から神様に従い、戒めを守っても神様は喜ばないと言いました。
その一方で、主を愛するがために主に従い、戒めを守るなら、神様はそれを心から喜びます。
それは、私たちが本当に神様を愛しているという証であり、また私たちをも幸せにするものだからです。
だから、私たちが神様の愛ゆえに戒めを守る時、私たち自身の喜びもまた、大きく変わるのです。

皆さんは、人類の最初の罪が何だったか覚えているでしょうか?
そう、食べてはならないと言われていた善悪の知識の木から取って食べたという事です。
私たちの罪の本質とは、神様の御言葉に従わないという事にあります。
そして、私たちが神様の御言葉に従わない以上、神様が本来私たちに与えようとしている喜びや祝福も、私たちは受け取ることができないでいるのです。

逆に言えば、私たちが神様の御心に従う時に初めて罪から離れ、私たちは神様が本来私たちに与えようとしていた喜びや祝福を受け取ることができるのです。

そうは言っても、実行することがとても難しいのが聖書の言葉です。
そう簡単に、すべての事において聖書のままに歩めるようになるわけではありません。
しかし、それを決して焦ることなく、できない事はできないと認めながら、神様に祈り、強くしていただけばいいのです。
聖書に従うことを焦るなら、結局表面的に御言葉を守るだけのパリサイ主義に逆戻りです。
また、変にがんばり過ぎれば、イエス様を置いてきぼりにして自分の力だけで律法を守る辛い生き方に戻ってしまうでしょう。

イエス様は弟子たちにこんな話をしています。

マルコ 10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

私たちにはできない事も、神様にはできます。
神様なら、私たちにそれをする力を与えてくださるのです。
すべての力を与えてくださる主に信頼して、平安の中で主とともに生きましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です