Iコリント13:1-8 『キリストの弟子として生きる②』 2009/05/10 松田健太郎牧師
Ⅰコリント 13:1~8
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
今日も引き続き、成長とは違う話をしていきたいと思います。
先週は、クリスチャンに必要なものは、愛することと、神様に従う事だと言うお話をしました。
今日はその中でも、愛についてもう少し話していきたいと思うんです。
愛が大切だという事は、ほとんどの人がわかっているようです。
テレビを付ければ、そこではいつでも愛が語られています。
ラジオを付ければ、そこからはいつでも愛の歌が流れてきます。
しかし、そこから聞こえてくる“愛”に耳を澄ませていると、何か心を煽られるものは感じるのですが、どうも浅はかで、薄っぺらなものに思えてきてしまいます。
それは、そこに語られている愛が感情に依存したものだからではないかと思います。
「あなたが大好き。」
「あなたがいないと、それだけで寂しい。」
「心のそこからあふれ出る、狂おしいほどの愛。」
感情的な愛は、とても強烈で刺激的です。
私たちの心をうきうき、わくわくさせる事もあるでしょう。
僕も、妻との間にそのような愛が燃え上がったこともありましたから、それはよくわかります。
しかし、そのような感情のまま、10年、20年も愛の炎が燃え盛っているという事はありません。
結婚して数年もすると、ふたりの関係は新婚当時とは違うものになっているのが普通なのではないでしょうか。
情熱的な恋愛をして駆け落ちしたふたりが、数年後には愛が冷めてあっけなく離婚してしまう。
あれだけ待ち望んだ子供が産まれたはずなのに、泣き止まないわが子を虐待して殺してしまう。
最近は、そんな話もよく耳にします。
燃え上がる感情だけを愛だと呼ぶのであれば、愛の寿命は長くても4~5年だと言う事ができるでしょう。
『神は愛である』と、聖書には書かれています。
愛とはそのような感情の高ぶりであるという理解をしているのであれば、わたし達はいつでも、神様の心変わりを心配していなければならないでしょう。
そして私たち自身も、洗礼を受けて数年もすると愛が冷めてくれば、クリスチャンではなくなってしまうなんていう事も起こってしまうのではないでしょうか?
① 愛は感情ではなく
愛する感情がいけないと言うのではありません。
時として、理性と知性だけに著しく傾いている教会があったりしますが、そんな中で神様の愛を説かれても、愛を理解することはできないのではないでしょうか?
わたし達は豊かな感情で神様を愛し、隣人を愛するべきでもあります。
それは、わたし達に向けられている神様の愛も同じでしょう。
しかし、感情というのは一定ではなく、上がったり下がったりするものです。
感情を土台にしてしまうと、わたし達は愛に振り回されてしまう事になってしまうのではないでしょうか。
また、感情は自分の自由にすることはできませんから、「あなたの隣人を愛しなさい。」なんて言われてもそれに従うことはできません。
神様は、そのような不可能なことをわたし達に求めているのではありません。
愛とは感情ではなく、選択であり、決断です。
感情は愛なのではなく、愛に伴うものなのです。
例えわたし達が相手に好意を持っていなかったとしても、相手のことを愛そうとする事、その中に愛があります。
それが例え、わたし達にとっての敵であったとしても、「あなたは彼のために祈り、愛しなさい。悪に悪を報いるようなことはせず、善を持って悪に報いなさい。」と教えています。
マタイ 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
わたし達が、相手のことを好きだから優しくし、親切にするのではなく、相手が愛してくれているからお返しとして愛するのではなく、ただ自分の側から愛することです。
それは決して簡単なことではありませんが、わたし達がその選択と決断をするという事が、人を愛するという事なのです。
また、愛は感情ではないですから、長くても4~5年もすれば薄れていってしまうようなものではありません。
あるいは、何かをきっかけにして自然消滅してしまうようなものでもありません。
愛する側がその選択をし続ける限りは、勝手になくなる事はないのです。
神様は、わたし達にこの様に言ってくれています。
エレミヤ 31:3b「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
神様は永遠の愛でわたし達を愛してくださると約束してくださいました。
その愛は、わたし達にひとり子の命と引き換えにする程の愛です。
わたし達の側が、例えその存在すら疑い、無視し、罵り、あざ笑い、侮辱したとしても、わたし達に対する神様の愛が変わることはありません。
わたし達が、神様の愛を実感しているかどうかにも関係なく、神様はわたし達を愛しています。
わたし達がその愛を拒否したとしても、神様がわたし達を愛することを止めるという事はありません。
その様な愛で、わたし達は愛されているのです。
② 愛の共同体
「愛しなさい。」と言われるまでもなく、わたし達は本来、愛し合う存在として作られたはずでした。
わたし達は神様によって愛され、神様を愛し、互いに愛し合う存在だったのです。
しかし、人類が神様に背いて罪がわたし達のうちにあふれた時、わたし達の間にあったはずの愛の共同体は破壊されてしまいました。
夫婦の間の愛が崩壊し、親子の愛が崩壊し、家族間の愛が損なわれるようになりました。
他の人を愛するために存在するはずの労働は、業績や利益を求めるばかりのものとなり、仕事の中に愛はなくなっていまいました。
教育は子供の能力を育てるためだけのものとなり、学校に愛は失われてしまいました。
みなさん、わたし達クリスチャンは、神様との関係を修復し、神様の愛を知っているんです。
わたし達を置いて、他の誰が愛の共同体を回復することができるでしょうか?
イエス様はこう言いました。
ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
互いに愛し合いなさいという言葉は、新約聖書の中で30回も繰り返されています。
教会には礼拝をすることや聖書を学ぶという役割もたくさんありますが、何においても、愛の共同体であるという事がもっとも大切とされるべきなのではないでしょうか?
この教会を離れてしまった人たちも何人かいますが、それ以外にも、イエス様は大好きだけれど教会からは離れてしまった人たちをたくさん知っています。
その人たちの多くは、愛を求めて教会に行ったのに、愛を受ける事ができずに傷ついてしまった人たちです。
わたし達の愛がその方たちに伝わっていたら、その人たちは教会から離れる事がなかったのかもしれません。
でも、僕は教会から離れていくそのような方々にも言いたいのです。
教会は、愛されるための場所ではありません。
愛するための場所です。
わたし達は互いに愛されようと求めるだけなら、決して教会の中で満足することはできないでしょう。
しかし、わたし達が全員愛そうとするならば、必ず全ての人が満足し、みんなが愛されることにもなるのです。
皆さんは、そんな教会に通いたいとは思いませんか?
それこそ、イエス様がわたし達教会に求めていることではないかと思うのです。
③
実は、多くの人が思い込んでいたり、誤解している事がひとつあります。
それは、クリスチャンになったら、わたし達は自動的に愛の人になるに違いないという誤解です。
どれだけ信仰生活を長く続けていても、わたし達の心の傷が勝手に癒され、勝手に人格が形成されて行き、勝手に愛の人になることはありません。
神様はわたし達を勝手に動かしたり、変えてしまうような事はしないからです。
愛の人になるために、わたし達はまず、愛の人になりたいと求める必要があります。
皆さんは愛の人になりたいと求めていますか?
当たり前の事を言っているようですが、改めて考えてみると、愛の人になりたいと求めることなんて、実はそうそうない事です。
わたし達がそれを求めるとき、そこに見えてくるのは、自分がいかに愛の人から遠い存在なのかという事ではないでしょうか?
自分は良い線行っていると思う方がいるとしたら、それは愛するという事がどういう事か本当にはわかっていないか、自分の事がよくわかっていないかどちらかではないでしょうか。(笑)
だからこそ、わたし達は神様にそれを求めるのです。
「神様、私を愛の人にして下さい。」
求めるならば、与えられます。
でもそれは、やっぱり自動的に起こることではありません。
祈ったからと言って、途端に愛の人が出来上がるわけでもないのです。
わたし達が「愛の人にして下さい。」と祈るとき、わたし達の人生の中に、愛を実践する機会が与えられます。
時には愛する事が難しい人が備えられます。
そして、その人との関係を通して、わたし達の愛と人格が練られていくのです。
そこで傷つき、苦しい時を通るのでなければ、わたし達が愛の人になって行くことはできないでしょう。
皆さんの周りにも、すでに愛する事が難しいなぁと思える人がいるのではないでしょうか?
それは自分の配偶者であったり、親や子供かもしれません。
そのような人がわたし達の人生に与えられるのは、わたし達が成長するためであり、やがてそこに素晴らしい愛の共同体が生まれると神様が約束してくださっているからです。
来週からは、愛するとはどういう事なのかという事を、もう少し具体的に掘り下げていきたいと思います。
皆さんが素晴らしい一週間を過ごされますように。