Iコリント13:1-8 『キリストの弟子として生きる③』 2009/05/17 松田健太郎牧師

Iコリント 13:1~8
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

子供が産まれてからはなかなか時間がありませんが、元々僕は本を読むのが好きで、一年の間にそこそこの量の本を読んでいました。
神学校に行き始めてからは、キリスト教関係の本もかなりの数を読んだと思います。
キリスト教関連の本を読んでいると、中に素晴らしい証がたくさん出てくるんですね。
元々やくざで麻薬付けだった人がある日悔い改めてクリスチャンになり、牧師となった話。
アフリカや中国に、宣教師として単身旅立っていった話。
数々の奇跡が起こって、数々の危機を乗り越えたり、不治の病から癒された話。

ハーベスト・タイムやライフラインというキリスト教のテレビ番組を観ていても、そこにゲストとして登場する人たちは、驚くような神様の御業を目にした人や、素晴らしい賜物を与えられた人たちばかりです。
また、聖書を読んでいても、アブラハムの信仰、ダビデの神様との交わりの強さ、ダニエルが経験した数々の奇跡を始めとして、驚くような話がたくさん出てきます。

私たちが目にしたり、メッセージの中の例話として聞くような話の中に出てくるのは、何だか今の私たちとはかけ離れたような、信仰のヒーローばかりではないでしょうか?
そして私たちは、その様な人たちこそ素晴らしいクリスチャンだと評価し、クリスチャンとはその様な人であるべきだと考えるのです。

そのような話を耳にして、心励まされて自分もそのようなクリスチャンになりたいと思うこともあるかもしれません。
それはそれで素晴らしいことです。
しかし一方で、その様な人たちと自分を比べて自分の信仰生活に落胆する人もいるかもしれません。
まるで自分はクリスチャンとして劣っているような気分になり、自分はそれほど重要な存在ではないような気持ちまでしてくるかもしれません。

しかし、私たちの感じ方と、神様の価値観とは多くの場合一致していないのだということを、私たちはいつでも思わされるのです。
聖書にはどのように書かれているのでしょうか?

① 愛はすべてに勝る
このように書かれています。

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

異言というのは、普段自分が話している言葉とはまったく違う言葉で話し始めたり祈ったりする、奇跡的な出来事です。
しかし、どの様な素晴らしい奇跡を経験しても、愛がないならそれはうるさい雑音と何も変わりません。
また、どんな賜物や、聖書の言葉を解き明かす知識をどれだけ持っていたとしても、さらに山をも動かすような信仰を持っていても、愛がないなら何の価値もありません。
自分の持ち物をすべて貧しい人たちに分け合っても、また自分の命を投げ出して犠牲になったとしても、そこに愛がなければ何の役にもたたないと神様は言っているのです。

クリスチャンとしてどんなに素晴らしく、特別なことが出来たとしても、私たちに愛がなければ、私たちは特別なことができるという優越感に浸り、他の人たちを傷つけたり、トラブルを起こすことにしかならないでしょう。
私たちは、目に見える行いであったり、成果や実績を評価してしまいますが、神様はそうではありません。

たとえ私たちにする事が誰の目にも留まらず、人の役に立ったようには思えなかったとしても、私たちが神様に忠実であるなら、そこにある愛を喜んでくださいます。
そして、奇跡や、賜物や、知識や信仰や行いは、愛があって初めて本当の役割を果たすことができるのです。
では、愛するとはいったいどういう事なのか、これから数週間をかけてもう少し具体的に考えていきましょう。

② 愛は寛容である

13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
愛のリストに真っ先にあげられるのは、寛容であるという事です。

正しさを追求して、規則と規律で固められたところには、私たちはなかなか愛を感じることができないのではないでしょうか。
しかし間違えてはならないのは、何でもいいよとか、何でもありというような事ではないという事です。
例えば、「君がそう思うなら、1+1の答えは2でも3でもどちらでもいいよ。」と言って我慢したり、いい加減になるのは、寛容である事とは全く違います。

寛容とは、誰かが間違いを犯した時、それを責めるのではなく赦し、その人の成長を待つ心ではないかと僕は思います。
1+1の答えを3と答えたとき、間違いを怒ったり、嘆いたり、あざ笑ったりするのではなく、正しい答えが2だという事を何度でも伝え、その人が正しい答えを理解するまで待つという事です。
私たちは、評価を下すのが早すぎるのではないかと思うのです。

その一方で、物事には1+1=2であるという事より複雑な事もたくさんあります。
正しい答えが何であるか判らなかったり、答えがいくつも出せるような時もあります。
そんな時、私たちは自分の価値観だけを通して物事を見るのではなくて、人の意見や言葉を受け止めるという事も必要ではないでしょうか。
私たちはキリストを頭とする一つの体ですから、それぞれが役割の違う体の一部なのです。
場合によっては、正しさや間違いとは全く別の部分で、お互いの違いを認め合っていかなければならない事もたくさんあるのが私たちですね。

慣用であり続ける事が難しい人もいるのも確かではありますが、私たちは他の価値観を理解する事を通して、愛する者となっていきたいものです。

③ 愛は親切である
2番目に、愛する事は、親切である事です。
「あの人が好きだから、~しない。」という事は優しさです。
親切というのは、「あの人が好きだから、~する。」という積極的な優しさです。
大好きな人を「助けてあげたい。」「喜ばせたい。」「びっくりさせたい。」と思うのは自然な事ではないでしょうか?
それを同じ事を、私たちが隣人にする時、私たちの愛がその人たちに伝わります。

しかし、難しい事もありますね。
『小さな親切、大きなお世話。』なんていう言葉もあります。
僕自身、親切がアダになったというような思いもたくさん経験してきました。
親切である事は、とても難しい事でもあるのです。
イエス様は、親切であることをこのような言葉で表現しています。

マタイ 7:12 何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。

いわゆる黄金律と呼ばれる、イエス様の言葉の中で最も有名な言葉のひとつですね。
されたくない事をしないだけではなくて、されたい事をしてあげるという能動性が求められているのですが、その行動が適切かどうかを計る判断基準だとも言うことができます。
自分がされて迷惑だと思うような親切は、本当の意味で親切ではないのです。

もうひとつ気をつけなければならないのは、親切にしようとし過ぎて、“いい人”になってしまってはならないという事です。
親切であろうとするために、人に対してNoと言えなくなってしまうと、お願いされた事を何でも聞いてしまったり、困っている事を全て解決してあげようとするようになります。
それはむしろ相手のためにはならない事ですし、自分自身も重荷につぶれてしまい、「自分には愛が足りない。」と落ち込んでしまったりするのです。

人が望む事をしてあげる事、欲しがっている物を与える事は必ずしも愛ではありません。
子供が欲しがる物を全て与え続けたらどんな人間になっていくだろうと想像してみれば、それがいかに間違った考え方であるかもわかるのではないでしょうか?
その子が望むようにし続けたら、その子供は身も心も病気になってしまう事でしょう。
欲しいものを与える事は、相手を返って不幸にしてしまう事だってあるのです。

いい人であろうとする事は、実は自分が嫌われたくない、愛されたいという心理からくる自己中心です。
表面的には愛に似ていますが、実際には全く違うものです。
人を愛し、親切であるためには、時に人から疎まれたり嫌われる覚悟がなければ出来る事ではないのです。

④ 嫉まず、自慢しない
愛のリストの三番目にくるのは、ねたまず、自慢しないという事です。
私たちが人を愛する時、私たちは人をねたんだり、自慢したり、高慢になるという事がありません。
それは、私たちが「何を受けるか。」という事に熱心になるのではなく、「何を与えるか。」という事で心が満たされるからです。

ねたみや自慢の中心にあるのは、他人との比較を基準とした価値観です。
神様は私たちにとってもベストを備えてくださっているのですから、私たちは他人と比較して自分の価値を計る事なんてできるはずがありません。
私たちが、他の人たちとの比較の中で一喜一憂し続ける限り、私たちは人を愛する事も、愛されている事を実感する事からも離れてしまいます。
しかし、わかっていても、他人と比較する習慣は簡単に離れるものではありません。
ついつい他人と自分を比較してしまうのが私たちでもあります。

皆さんは、イエス様がしたタラントのたとえ話を覚えているでしょうか?
ある金持ちに3人のしもべがいました。
金持ちの主人が旅に出かけている間、この3人のしもべたちはそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントの財産の管理を任されます。
5タラントと2タラント預かったしもべたちはそれを倍にして主人に返して褒められますが、1タラントしか預からなかったしもべはそのお金を土の中に埋めてそのままの額を返し、主人に怒られるという話です。
この話の中で多くの人が共感するのは、1タラントしか預けられなかったしもべではないでしょうか?
そして、神様は不公平だと感じるのです。

しかし、この話のポイントは、それぞれの僕が預けられた財産に応じて忠実だったかどうかという事です。
私たちが神様から預かっている力、容姿、財産、賜物は平等ではありません。
私たちが全く同じ存在として想像されているのではないですから、それは当然の事ですね。
私たちがそれを比較するなら、そこには必ずねたみと高慢が生まれ、私たちがそこに幸せを感じる事はできないでしょう。
しかし、私たちが与えられているものに対して忠実であるなら、私たちはそこに与えられている本当の祝福を手にする事ができるのです。

愛には訓練が必要です。
しかし、愛するという事そのものは、私たちにとって辛くて厳しい試練なのではなくて、私たちをこれ以上にないほど喜ばせる幸いなのです。

来週のこの時間、また続きを一緒に考えていきましょう。

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