マタイ2:1-12 『あの星を目指して』 2006/12/10 松田健太郎牧師
マタイによる福音書 2:1~12
2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
飛行機のパイロットは、あれだけ科学技術を結集した飛行機を操縦するわけですから、色々な事を学ばなければなりません。
色々な計器や機械に囲まれて、すべての操作方法を知っていなければならないのですが、その中で彼らが学ばなければならないひとつの事があります。
それは、星を見て自分の位置を把握する技術です。
船舶を動かす人々も同じですね。
彼らは普段からも、計測器で自分の目を使って、位置を確認しながら船を進めていきます。
あんなにたくさんの計器に囲まれていて、これだけレーダーの技術が発達していても、最終的に頼りになるのは、壮大な自然の中にある星から自分の位置を割り出すという、何千年も前から使われてきた方法だというのです。
今から2000年前、東方の博士達は、今までに見た事もない、美しく輝く不思議な星を見つけました。
「あれは、ユダヤの王様がお生まれになった事を告げる星だ。」「王様を拝みに行こう。」
そうして、博士達がひとつの星を目指して歩む旅が始まったのです。
私達の人生には、方向を見失って、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう時があります。
そのような時に、何千年もの間人々が星を見て自分の方向を確認する事ができたように、揺るがないものを持っている人の人生はどれほど素晴らしいものでしょうか。
東方の博士がその星を見出せた事によって、世界の王の誕生を目にする事ができたように、皆さんが今日、ご自身の中に揺るがない星を見出す時となることを心から祈ります。
① 変わらないものを基準にする
先日、石原都知事が産経新聞で連載しているコラムの中で、「今の時代は情報が氾濫しすぎて、本当に正しい情報を選択する事が非常に難しくなっている。」というような記事を書かれていたそうです。
私達の周りには色々なメディアがあって、そこから常に情報が流れ込んできています。
パソコンを開いてインターネットに接続してみれば、ひとつの言葉の意味を調べようと検索をしても、何万件という情報がその一言から引きずり出され、どのページを見たらいいのかわからないという状況も起こります。
また、ひとつの事に関しての正しい答えが、情報のソースによってまったく違うということもあります。
一昔前までは、赤ちゃんを抱っこしすぎると抱き癖がつくのでよくないと言って、あまり抱っこしてはいけないと教育の専門家達が言ってきました。
今の専門家は、スキンシップが赤ちゃんにとって良いので、いっぱい抱っこしてあげなさいと言います。
医学に関してもひとつの病気に対する治療方法は日々変わりますし、歴史の教科書も毎年変わっていきます。
お金の価値も変われば、私達が使っている言葉だって、世代によって使い方が随分違うものです。
私達の周りには情報が溢れているだけでなく、その情報は常に変化しているのです。
しかし私達は、このような情報の中に埋もれてしまって、目まぐるしく変化していく情報に振り回されてしまってはいないでしょうか?
パイロットや船乗り達が星を使って自分の位置を探る時に、必ず最初に探す星があります。
それは、北極星です。
なぜなら、北極星は地球の自転の影響を受けず、どの時間でも必ず同じ位置にあるからですね。
動かない北極星を基準にして、彼らは自分の位置を確認していくわけです。
私達も、常に変化するものではなく、決して動かないものを人生の基準として置かなければなりません。
聖書にはこのように書かれています。
詩篇 102:25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
102:26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。
102:27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。
私達は決して変わらないお方、神様を基準に置くべきです。
私達が神様を拠りどころとする事ができた時、私たちに足りないものが何なのか、私達が手放すものは何なのか、全てを知る事ができるのです。
また、この様にも書かれています。
イザヤ 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
聖書はこれまでの歴史の中で厳重な保護の下で伝えてこられた書物ではありません。
聖書が完成するまでにおよそ2000年、聖書が今の形として完成してから2000年、時には神の御言葉としての正当性を問われ、時には激しい迫害の中を何度もくぐり抜けてきました。
それでもこれまで、手が加えられることなく生き残ってきたのは、聖書が真に神の御言葉である事の証です。
この世の全てのものが変わり、廃れ、滅んでいっても、神の御言葉は永遠に立つ。
賢い人が崩れやすい砂の上ではなく、しっかりした岩の上に家を建てるように、私達は決して変わらず、いなくなることのない神様と、その御言葉を拠りどころとするべきではないでしょうか。
② 目を離さない
2番目のポイントは、一度拠りどころを見つけたら、そこから目を離さないということです。
東方の博士達が輝く星を目にした時、彼らは決してそこから目を離しませんでした。
「あ、こっちの星もきれいだな。」「あの星の方が、素晴らしいかもしれない。」と目移りしていたら、彼らは決して御子イエス様の元にたどり着く事はできなかったでしょう。
ところが私達は、信仰生活の中でそれをやってしまいがちなのです。
私達の生きるこの世界は、誘惑で満ちています。
2000年前は、東方の博士が目にした星は何よりも明るく輝いていたでしょうが、現代はさながら、ネオン街の向こう側にかすかに光る星を見出すかのように、神様だけに目を留めておく事が難しくなっています。
それは必ずしも誘惑だけに限らず、この社会で生きていくための必要だと思える事も、時に私達の脚を引っ張る事があります。
輝く星から私達の目をそらせようとするのは、周りの人たちの視線であったり、会社の評価であったり、時には自分の家族そのものだったりするのです。
もちろん、この世のものは全て捨て去って、神様だけを見ていなさいと言っているのではありません。
近所づきあいや、会社での仕事や、家族との交わりはもちろん大切な事です。
しかし、最も大切なものが何なのかということは、いつも心の中に留めておくべきなのです 。
周りで何かが起こるたびにその事に目を取られていたのでは、結局その度に振り回される事になって、やがて一番大切な星がどこにあったのかを見失ってしまうでしょう。
このような話があります。
ある学校で、知的障害を持つ女の子を預かって教えていたのですが、卒業してからのことが心配だったそうです。
それは複雑な家庭環境もあって、両親にどれだけ面倒をみることができるかわからない状況だったからです。
そこでその学校の先生は、彼女が自分で買い物くらいはできるように、お金の数え方を教えようとしました。
「これが1円、こっちは10円、この一番大きいのが500円玉だよ。」
しかし彼女は物覚えが悪く、何度教えてもしっかり覚えてくれない。
それでも先生は、何度も同じことを繰り返しました。
「ほら、ここに小銭を並べたよ。この中で一番大事なのはどれ?」
するとこの女の子は、100円や500円を差し置いて、必ず10円玉を手に取るのだというんですね。
「これ。これがいちばんだいじ。」
最後には先生もイライラしてきて言いました。
「何度教えたらわかるの? 一番高いのは500円。これが一番大切でしょ?」
すると、知的障害をもったこの女の子は10円を指差し、ニッコリ笑って言ったのです。
「これがいちばんだいじ。だって、これを電話にいれたら、いつでもお父ちゃんと話ができるもの。」
彼女は、本当に大切なものは価値が変わってしまうお金なんかではなく、家族とのつながりだという事を知っていたのです。
どんな時でも、どれだけ状況が変わっても、最も大切なものは決して変わりません。
私たちにとって最も大切なものは、天のお父様との繋がりです。
私達は永遠の愛で愛して下さる神様を信じて、そのつながりを大切にしましょう。
周りのものがどれだけ大切に思えるときでも、もっと華やかなものを目にしたとしても決して惑わされず、いつでも神様から目を離さないでいて下さい。
③ 星の下へ
本日最後のポイントは、御子に会いに行くということです。
東方の博士が異常に輝く星を見つけた時、「どうもあっちの方で、ユダヤの王が生まれたらしいよ。」「へぇ~そうなんだ。よし、俺達も頑張ろうぜ。」という事で終わっていたら、それはただの他人事に過ぎないわけです。
博士達はそこに王が生まれる事を知った時、自ら贈り物を手にして拝みに行きました。
それは、王を王として認め、王として扱うということです。
いや、それ以上のことだったでしょう。
その時御子は、単にユダヤの王ということに留まらず、この東方の博士の王ともなったのですから。
クリスチャン人口1%未満などと言われる日本ですが、駅前に行けばクリスマス・ツリーが飾られ、どのお店でもクリスマス一色に飾られています。
デパートに行けば賛美歌を始めとするクリスマス・ソングが流されています。
一見、日本中の人々がクリスチャンになってしまったかのような印象さえ受けるかもしれません。
しかし、ほとんどの人々にとって、キリストは他人事でしかありません。
ほとんどの人々にとって、王とは自分の事であり、自分自身が自分の神となっているのです。
私達にとって御子に会いに行くというのは、信仰を持つということです。
サンタクロースはいると信じる、宇宙人がいると信じる、幽霊はいると信じるというのと同じように神様を信じていたとしても、それは信仰とは呼べません。
信仰とは、神様に対して神様として接する事ができるということです。
世界の創造者として神様と接し、自分ではなく神様が中心であり、私達は神様を賛美し、礼拝し、服従するということこそが信仰を持つということなのです。
幸いな事ですが、私達の神様は専制君主的に私たちを支配し、パワーと恐怖でコントロールするような方ではありません。
私たちに豊かな愛と恵みを注いで下さるお方です。
私達が神様の愛と恵みの支配の中に入る時、私達はこの世の出来事に振り回されて悩む事もなく、揺らぐ事のない魂を手にする事ができます。
皆さんは、神様の永遠に変わる事のない愛を心の拠りどころとして持っているでしょうか?
そこから目を離すことなく神様の恵みに近づき、それを自分のものとすることができているでしょうか?
2000年前、東方の博士達が輝く星に導かれてたどり着いた先で待っていたのは、ひとりのみどり児でした。
弱々しく、飼い葉おけに寝かされて眠る無邪気な様子からは、その子こそ人々を救いへと導く世界の王、神のひとり子、救い主、イエス・キリストであるなどと誰にも想像することはできなかったことでしょう。
しかし博士達は星の指し示す御子イエスの前にひざまずき、それぞれが持ってきた贈り物、黄金、乳香、没薬を捧げたのです。
皆さんがクリスマスツリーのてっぺんに星を見る時、その星が指し示しているのはキリストなのだということを思い出して下さい。
皆さんが、今年も素晴らしいクリスマスを過ごされますように・・・。