マタイ6:31-33 『 神の国2~自分の王国を明け渡す 』 2012/03/04 松田健太郎牧師
マタイ6:31~33
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
どうすれば、神の国に入る事ができるのでしょうか?
死んでから天国に行くのはある意味では簡単です。
自分の中にある罪を認め、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じるその信仰によって、わたし達は天国に行く事ができるようになります。
しかし、イエス様がいつも話していた“神の国”“天の御国”というものは、ただ単にクリスチャンが死んだあと行く事が約束されている所、というのではないんだという話を、先週のメッセージの中でしました。
そこで今週からは、「ではどうやったら、神の国に入る事ができるのか」という事を一緒に考えていきたいと思います。
① わたしの王国
わたし達は、どんな時にイライラされるでしょうか?
トイレに行きたくて急いで帰ってきたのに、家の鍵がなかなか見つからない時でしょうか。
あるいは、子供が言う事を聞かない時でしょうか。
もしかしたら、誰かから批判的な事を言われた時かもしれません。
何かが思い通りに行かない時。
誰かが、自分のして欲しくない事をしたり言ったりしている時。
色々あるのだと思うのですが、多くの場合、それは自分がコントロールする事ができない状況にある時に、わたし達はイライラするのではないかと思うのです。
わたし達はあまり自覚がないかもしれませんが、物事は自分の思い通りにいくはずだと思っているし、思い通りにいくべきだと思っているのです。
しかし、思い通りに事が進まなかった時、わたし達はイライラし、感情が揺さぶられるのを経験します。
わたし達はみんな、自分という王国の王様として、あるいは女王として生きようとしているからです。
わたし達は多くの時間とエネルギーを、自分の小さな王国を支配し、出来ればその勢力を拡大し、あるいは侵略者から守る事に費やしています。
自分の王国の勢力が増せば増すほど、わたし達は発言力を持ち、自尊心が守られるからです。
でもそれと同時に、わたし達はどんどん傲慢になり、尊敬や名声を受ける事が当たり前だと思い、自分の必要が満たされる事を当然だと感じるようになります。
だからどんどんイライラしやすい人間にもなってしまうのです。
もし皆さんが、「普通はこうだ。」とか「こうなるべきだ。」という価値観を持っているなら要注意です。
皆さんの王国に対する執着心は、とても大きいものかもしれません。
逆に、自分の王国の勢力が小さくなり、他の人達の言いなりになってしまう生活を送ってきた人は、自尊心とセルフイメージが低く、いつも自信のない生き方を強いられてしまいます。
「生きている意味がわからない。」と思っている人達の多くは、多くの場合自分の人生が思い通りに行かないことへの嘆きをそのように表現しているように思います。
傲慢な人も、自尊心が低い人も、いずれにしてもそれは、自分の王国が第一であるという価値観の元に起っている事なのです。
置かれている立場は違うけれど、価値観は同じ。
“わたし”が王様である、“わたしの国”。
二つの国が、自分の領土をめぐって争う事を何というでしょうか?
それは戦争です。
夫婦喧嘩というものは何と戦争に似ているのでしょうか?
わたし達はそうやって、どちらがより多くの主導権を握るのか、常に争っているのです。
しかし、イエス様がわたし達に伝えている“神の国”にわたし達が入るためには、わたし達はこの“自分の国”を明け渡さなければなりません。
自分が座っている王座から立ち上がり、それを放棄し、イエス様に座っていただいた時、わたし達は神の国に入る事ができるのです。
② 王座を明け渡す
そうは言っても、自分の王座を明け渡すという事は、とても怖い事だと思います。
わたし達はこれまでの人生を、自分自身で決めて来たのですから。
わたし達は自分の王座を明け渡してしまったりすれば、あっという間に勢力を失い、あの自尊心が少ない、セルフイメージが低く、自信のない状態になってしまうような気がするからです。
しかし、自分の王座を明け渡す事は、自分の王国の勢力が小さくなってしまう事と同じではありません。
全く別の価値観の中に入る事なのです。
では、自分の王座を明け渡すとは、具体的にはどういう事をいうのでしょうか?
王座を明け渡す事は、自分の人生を神様に委ねるという事です。
神様の導きに従っていれば、神様は必ず最善へと導いてくれると信じて、神様の導きに従っていくという事です。
例えそれが、自分の望むものとは違う道だったとしても、それでもその道を選ぶ事です。
また、その道を進む事によって将来の計画が全く立てられないような、不安な状態になるとしても、それでも主が備えて下さると信じて、その道を進む事です。
自分の王国にいるわたし達は、自分の好きな事をし、自分の望みを叶える事を考えます。
しかし、神の国に入ったわたし達が望むのは、神様の喜び事をし、神様の御心を実現するのです。
祈る時、自分の王国にいた頃のわたし達は、どうだったでしょう?
自分の事ばかり考えて、自分が変わるのではなく人が変わり、環境が変わる事を願っていたのではないでしょうか?
あるいは嫉妬ばかりして、自分には同じような祝福が与えられない事に怒り、誰よりも自分が祝福される事を求めていたかもしれません。
そして危機的状況に入ると不安に陥って、神様にただひたすら助けを求めていたのではないでしょうか。
しかし主に自分の王座を明け渡しているなら、わたし達は祈り方も内容も変わってきます。
わたし達は誰かの関係の中でトラブルがあった時、必要に応じて自分が変えられるように祈る事ができます。
わたし達は他人と比較する必要がないので、他人の成功や祝福を喜び、そこにさらなる祝福を願う事ができます。
そして、危機的状態の中でも平安をもっている事ができるのです。
神の国にわたし達が入るという事は、それまで小さな国の王様だったわたし達が、神の国でしもべとして仕えるという事を意味しています。
そんな事になったら、神様にこきつかわれて大変な事になるんじゃないかと思う方がいらっしゃるかもしれません。
確かに、神様はわたし達に新しい働きを与えます。
それは、これまでは無視してきたり避けてきた人に対して、愛情を注ぐという事かもしれません。
あるいは、今している事から離れて全く別のミッションに入って行くという導きかもしれません。
わたし達が、自分の王国を築きながら、さらに神様に仕えようとするなら、それは大変でしょう。
しかし、わたし達がこれまで自分の王国のために費やそうとしていた時間と労力を明け渡すなら、結果的には無駄な力を使う事のない、有意義な人生となって行くはずです。
③ 神の国に入る前の試練
7年前、僕がこの教会で牧師として就任する直前にひとつの事がありました。
僕と妻のベスは、何の気なしに新しくできたばかりのマンションを見に行ったのです。
僕たちはそこで、モデルルームをいくつか見学しました。
でもその中に、理想とするような部屋を、僕たちは見つけてしまったのです。
その頃、奈緒美がすでにベスのお腹の中にいました。
そのマンションには近くに公園もあり、託児所もあり、必要な施設は十分にそろっていました。
部屋の大きさも、規模も完ぺきで、そして想像していたよりも安かったのです。
それまで通り、共稼ぎの状態であれば、十分に支払って行ける金額でした。
しかし、問題がありました。
僕が牧師になったら、支払っていく事は出来ない額なのです。
マンションの条件は満たしているし、住むところがあれば将来的にも安心していられる。
これから生まれてくる子供の事を考えても、ここに住む事ができればどれほどいいだろうか?
これは僕にとって思わぬ誘惑となりました。
牧師にならなければ、今まで通りの生き方していれば、そのマンションを手にする事ができるのですから。
今思うと、牧師になったらマンションなんて買えるはずがないのに、どうしてそのタイミングでマンションを見に行ったりしたのかわかりません。
でもそれは、僕が自分の人生を神様に明け渡し、神様に従うための試練でした。
このように、わたし達が自分を明け渡し、神様に従うという事には試練が伴います。
しかしその試練を超えた先には、神様が与えて下さる祝福が必ず待っているのです。
イエス様は言っています。
マタイ 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
その言葉を信じて、神の国に入ってみませんか?
そこには必ず祝福がまっているのですから。