ルカ17:20-21 『 神の国1~神の国はどこにある 』 2012/02/26 松田健太郎牧師
ルカ17:20~21
ルカ 17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
皆さん、イエス様はなぜ地上に来られたのでしょうか?
永遠の中にあり、三位一体の神として常に完全な存在であったイエス様が、弱さと不完全さを持って幼子として生まれ、わたし達が汚してしまったこの地上に来られたという事。
それには、どんな意味があったでしょうか?
クリスチャンならだれでも知っている、答えが一つあります。
ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
イエス様は、罪によって裁かれなければならない存在となったわたし達を救うため、命をかけてこの地上にやってきたのです。
やがて、わたし達がもう一度イエス様と再会する時、わたし達は新しい天地である天の御国で、主と共に永遠の時を過ごすんだという事を、わたし達は先週までの黙示録のシリーズの中で学んできました。
また、イエス様がキリストとしての公生涯に入られた時、最初に発した言葉がこれだったと福音書には書かれています。
マルコ 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
この言葉が、イエス様の最初の言葉として書かれているのは、これこそイエス様が最も伝えたかった事だったからに他ありません。
また、イエス様自身もこれを伝えるために遣わされたと話しています。
ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
神の国というのは、イエス様にとって最も大きなテーマだったという事です。
しかしそれは、死んでから、もしくはイエス様が再臨されてからだけの事なのでしょうか?
結論を言えば、そうではないという事なのです。
イエス様はこの様に言っています。
ルカ 17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
イエス・キリストを信じるなら、わたし達は今、すでに新しい永遠の命の中に生きており、天の御国はわたし達と共にあります。
わたし達はイエス様が伝えたかった事をちゃんと理解しなければなりません。
わたし達がどのように信じるかという信仰が、わたし達の生き方にも反映されるからです。
わたし達は、良くも悪くも、自分が信じている通りに生きてしまう者なのです。
これからしばらくの間、神の国とは何なのかという事を一緒に考えていきましょう。
① 神の国はわたし達と共にある
天国は死んだ後に行くところであるというだけの聖書理解の、何が問題なのでしょうか?
第一に、それではクリスチャンになっても、わたし達が生きている間は何も変わらない事になってしまうからです。
事実、多くの人達はクリスチャンになってからも何も変わらず、今までのままの生活をしています。
それはまるで、「死んでから天国に行く事ができるという切符を手に入れたので、後はその日を待つだけ。」という感じです。
第二に、生き方が変わらないどころか、今の人生を生きているのは辛いだけになってしまいます。
あるクリスチャンの人達は、死んでから行く事ができる天国を夢見て、生きている間はひたすら今を耐え忍ぶ生活をしています。
「今は辛いけれど、天国に行ったら喜びがあるから大丈夫。」
それは確かにその通りですが、今の人生は苦しみだけというのではあまりに悲しいではありませんか。
あるクリスチャンたちは、天国に上げられるのを逃してしまう事をただただ恐れて、礼拝、聖書、祈り、奉仕、献金をマニュアルのようにこなしているだけの信仰生活を送っています。
「自分は神の裁きを受けるのではないか」という怖れを持ち続けながらクリスチャンとしての信仰生活を送るのは、苦痛以外の何者でもありません。
しかし、多くのクリスチャンがこのような信仰生活を送っているのではないかと思うのです。
そんな生き方が、わたし達の周りの人達の心を動かすでしょうか?
少なくとも、イエス様はそのようなお方ではありませんでした。
そして、その違いがなかなか分らなかった弟子達も、イエス様が復活した後にはもっと喜びに満ち溢れた神の国を生きる者たちとして活動し始めたのです。
だからこそ、福音は多くの人達の人生を変え、変化を恐れた人達によって大迫害を受け、ついにはそれにも打ち勝ってローマ帝国全体に広がって行ったのです。
② 神の支配にある事
では、神の国とは一体何なのでしょうか?
神の国とは何なのかという事、それこそまさに、イエス様がキリストとしての生涯をかけて、わたし達に伝えようとしていた事なのです。
まずイエス様は、その行動を通して、神の国がどんなものなのかを表しました。
イエス様が人を癒したのは、ただ単にその人達がかわいそうだったからではありません。
人が癒されるのを通して、神の国には病がなく、あらゆる病苦から解放される事を表しました。
食べ物が増える事を通して、神の国には飢えがなく、飢餓から解放される事を表しました。
死人が蘇った事を通して、神の国には死がなく、永遠の命に生きる事を表されました。
神の国には罪がなく、神様の力が満ちているからです。
わたし達の生きている世界は、そのような完全に神様の力が溢れるところではありません。
それは、わたし達人間が罪によってこの地上を汚れた存在にしてしまったからです。
だから、完全な神様の支配にあるそのような世界を体験するためには、わたし達はイエス様の再臨を待たなければなりません。
しかし、今を生きるわたし達が意図的に神の国へと変えていく事ができる部分があります。
それは、わたし達の心の中であり、わたし達自身という事ができるでしょう。
わたし達は、他人や世界の環境を変える事ができなくても、自分自身を変える事ができます。
わたし達は自分自身の内に、神の国を体現していく事ができるのです。
それはわたし達が罪から離れ、神と人を愛し、喜びで満ちあふれていくという事です。
わたし達は偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興というものから離れ、その代わり愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という性質を持っていきます。
わたし達は肉の性質から解放されてゆき、キリストに似た者へと変わって行く事になるのです。
③
神の国の実現を考える時、わたし達はクリスチャンとして2通りのアプローチがあります。
ひとつは、自分の力で神の国を実現させようとするアプローチです。
これは宗教的、律法主義的アプローチと言っていいかもしれません。
しかし、この方法で神の国を実現させる事はできません。
なぜなら、わたし達は罪びとだからです。
聖書にはこの様に書かれています。
ガラテヤ 5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
わたし達は、表面的には神の国を実現させているようにふるまう事ができます。
表面的には愛があるようにふるまい、喜んでいるようにふるまい、信仰深く、献身的に働きをしているようにふるまうのです。
しかし、どれだけ表面的に神の国を真似たとしても、そこには人間の力以上のものはありません。
そしてわたし達は常に、ガンバって伝道をし、献金をし、善い行いをしてかなければならないという世界。
それは、表面的にはどれだけ神の国に似ていたとしても、全く別の物です。
もう一つの方法は、僕が福音的アプローチと呼んでいる者です。
それは、わたし達が自分自身を全て神様に明け渡し、御霊によって内側から変えていただくアプローチです。
神の国は、この方法によってしか決して実現する事はありません。
イエス様は、このようなたとえ話を通して、その事を話しています。
マルコ 4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
神の国は最初、からし種のように小さい状態でわたし達の中に植えられます。
しかしその種が栄養たっぷりの耕された地に蒔かれるなら、その種はわたし達の知らない内にいつの間にか大きく成長し、わたし達はそこにできる御霊の実を刈り取る事ができるようになるのです。
しかしそこには問題もあります。
種が芽を出し、大きく成長し、やがて実を成らせるまでには時間もかかるという事です。
現代社会は少しでも早く結果を出す事を求められる社会です。
しかし、根や、幹や枝がちゃんと育たない内に実を成らせようとすれば、その木は実を成らせる栄養もなく枯れてしまうか、成ったとしてもそれを支える事ができずに折れてしまうでしょう。
わたし達が結果としても実を成らせるためには、神様の愛というたくさんの栄養を吸収して成長していく必要があるのです。
そのようにして神の国がわたし達の内に実現していくなら、わたし達は本当の意味でキリストに似た者として成長していく事ができるのです。
その時、わたし達は地の塩となり、世の光となります。
わたし達は伝道をそれほど意識しなくても、わたし達を通して人々が神様と出会い、わたし達の周りの人達がどんどん救われていく事になるでしょう。
神の国の成長と実現は、神様によって起こされるものであって、わたし達が自分の力で御押す事ができる者ではありません。
でも難しいのは、だからと言ってただ口を開けて待っていても何も起らないという事です。
毎週の礼拝に出席して、日々聖書を読んでいるというだけでは、この様な変化は起らないのです。
ではどうすればいいのでしょうか?
来週から、その事を一緒に考えていきたいと思うのです。