ローマ3:9-18 『罪を言い表すなら』 2009/11/29 松田健太郎牧師

ローマ 3:9~18
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

デボーションガイドの“manna”に載っていた記事ですが、このような事が書かれていました。
『教会に行くという事は、ちょっと風邪を引いたと思って医者に診てもらったら、『あなたは末期がんで明日死ぬ』と言われるようなものだと言われます。なぜなら、自分はちょっと生き方がまずいかもしれないと思って教会に行ったのに、「あなたは、ただ神に永遠にさばかれるしかない、おそろしい罪人である」と言われるからです。』(manna11月号)

日本語で罪と言われると、どうしても犯罪のイメージばかりが強調されてしまうように思いますから、いきなり「あなたは罪人です」と決め付けられたらショックですよね。
「何と失礼な!」と思わず怒ってしまうかもしれませんし、「少なくとも私は、日本人の平均よりは上だと思います。」と応えたくなる人もいるかもしれません。
しかし聖書は、「すべての人が罪の下にある(ローマ3:9)」と教えています。

ある人は、「すべての人に罪があるなら、それは罪ではないのではないか?」と言っていました。
罪というものが比較によって決められる相対的なものであれば、そうでしょう。
でも、聖書の中に描かれている“罪”は、他の人と比べて良いか悪いかという価値観とは違うものなのです。

今わたし達は、福音に生きることの大切さを学んでいるところですが、福音を考える時に、“わたし達が罪人である”という事を避けて通る事はできません。
イエス様の十字架によってわたし達の罪が赦されたというのが福音ですから、自分には罪がないという事になれば、イエス様の死も無駄だったということになってしまうからです。

皆さんには、自分が罪人だという自覚があるでしょうか?
ほとんどのクリスチャンは、教理的には自分が罪人であるという事を知っていますが、だからといって本当にそれが飲み込めているとは限りません。

例えば、皆さんが何かに関して批判された時の事を思い出してみて下さい。
おそらくほとんどの人が、自己防衛的になって批判した相手を攻撃するか、批判された事にショックを受けて落ち込んでしまうかのどちらかではないでしょうか。
あるいは表面的には感謝している風を装いつつも、心の内側では炎が上がっているかもしれません。
いずれにしても、批判に対してあまりにも過剰な反応をしまうなら、わたし達は本当の意味ですべての人が罪人であるという事を理解できていないのかもしれません。

批判というのは、その人の正しさを否定し、間違っている事を指摘するものです。
それに対して過剰に反応してしまうのは、自分は良い人であり、正しい人でなければならないと実はどこかで思っているという事ではないかと思うのです。
これは多くの場合、罪というものを誤解していたり、福音を正しく認識していないために起こる事です。
このメッセージを通して、そこにある誤解が解ける事を願っています。

① 罪の性質
さて、罪を理解するために、わたし達はまず、罪がどこから来たのかということを知る必要があるでしょう。
初めの人類であるアダムとエバの時代、彼らはエデンの園で神様と共に暮らしていました。
そして、善悪の知識の木を除くどの木からも、取って食べても良いと言われていました。
しかし善悪の知識の木から取って食べると、必ず死ぬと言われていたのです。

善悪の知識の木は、自由意志が与えられていたアダムとエバにとって、神様の言葉に従うことが正しい事だという事を知るために存在するものでした。
だから善悪の知識の木と呼ぶんですね。
そしてだからこそそれは、エデンの園の中央に置かれていたのです。

しかし、そこにサタンが蛇の姿でやってきて、エバを誘惑します。
創世記 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

「神のようになる」こと、それが彼らにとって最大の誘惑でした。
神のようになりたいという誘惑に負けて、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べたのです。
だから、わたし達の罪の根源は、わたし達が神様から離れ、自分自身が神様になってすべてをコントロールしようとすることにあります。
悪い事をするのが問題なのではなく、善悪の判断を自分で決めてしまう事が問題なのです。

わたし達にとって、悪い行いを罪として認める事は、それほど難しい事ではありません。
しかし、たとえわたし達が良い行いをしているつもりでも、神様抜きに自分の思いで行うならそれもやはり罪なのだという事は、多くの人が理解するのに時間を必要とします。
それは、行いそのものが悪いわけでなくても、“神がいなくても人は世界を動かせる”“自分が神として善を行う”という無意識の思いに罪があるのです。
当たり前の事ですが、わたし達は神様ではないのですから、神様になる事はできません。
わたし達が神となってもこの世界がうまくいくはずがないのは、わたし達が生きるこの世界を見てみればわかる事だと思います。
しかしわたし達の罪の性質は、いつの間にか神にとって替わろうとしてしまうのです。

② 罪の贖い
わたし達が自分の罪を認めたくないと思う、もっとも大きな原因は、わたし達の中に起こる恐れです。
わたし達は誰でも、自分は正しいと思っていたいので、そうでない事を知るのが怖いのです。
自分の中に悪い物があるなんて思いたくない。
だから、自分は周りと比べれば、それほど悪くはないと思いこもうとします。
自分の罪を見ないで、他人の罪ばかりを見てそれを裁こうとします。

あるいは、罪があって何が悪いと開き直ることもあるかもしれません。
そういう人はとても寛容であるかのように見えますが、結果的には自分の罪は大したことがないと思おうとしているのです。

実は多くのクリスチャンも陥りがちなもうひとつの反応があります。
それは、罪責感によって良い人間になろうとしたり、良い行いをもって償おうとする事です。
これは自分の罪とその大きさを認めているのですが、その解決を自分の手で付けようとしてしまっています。
自分の罪の結果を自分の良い行いで解決できると思っているのですから、実はこれも自分を神としようとする罪から来たものなのです。

食べたら死ぬと言われていた善悪の知識の木の実を食べた、アダムとエバのことを思い出してみて下さい。
彼らは神様の前に、霊的には死ぬ者となりましたが、肉体的にはすぐに死ぬことがありませんでした。
しかし、“死”というものをこれまで見た事も体験した事もなかったふたりが、その時死を目の当たりにします。
創世記 3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

罪が入ったアダムとエバは、ありのままの姿である自分たちを恥ずかしいと感じて、イチジクの葉によって自分たちを隠そうとしました。
これは、自分たちの“罪”を隠そうとしていたのです。
神様は、彼らの前で獣を殺し、引き裂きました。
そこにはたくさんの血が流れ、恐ろしい匂いがたちこめました。
“死”を初めて目の当たりにしたアダムとエバにとって、それは凄惨な光景だったでしょう。
神様はその死体から皮を剥いで、衣を作り、それをふたりに着せました。
その時アダムとエバは、この獣が殺されたのは、自分の罪のためだと知りました。
そして、自分で作ったものでは罪の恥を覆う事はできても、罪の結果である死を贖うためには、死を持って支払わなければならない事を知ったのです。

イエス・キリストが十字架の上で死んだ時、わたし達の代わりにすべての罪の代価を支払われました。
だから、わたし達はもう、自分の中に罪がある事を恐れる必要はないのです。
そして、自分の中には罪がないかのようにふるまって、人のことばかり気にする必要はないのです。
わたし達は罪悪感に苦しむのではなく、その罪がすでに贖われて赦されている事を喜ぶ事ができるのですから。

③ 罪の意識が力となる
イエス様は、こんな話をしました。

ルカ 7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。

多く借りがあった人ほど、それが免除された時には嬉しいという事ですね。
それは、罪が多いほどいいという事ではもちろんありません。
罪の意識が多いほど、赦された事を感謝する喜びも大きくなるという事です。
普通、わたし達が失敗を繰り返し、自分の力のなさを知る時は自信がなくなって、本当に辛い状態になってしまうものです。
しかし、福音に生きる者は、自分の不完全さや罪の大きさを知れば知るほど、それを覆ってくださる神様の愛の大きさを知る事ができるのです。

普通の人は、自分の欠けている部分や足りない部分を隠すために、自分を本来の自分よりも大きく、大した人間であるかのように見せようとします。
でも、福音に生きる者は、自分の不足や不完全さを喜びに変える事ができるので、自分を偽る必要がありません。
だから、福音に生きる人は謙遜さを持っています。
それは、自分を卑下して卑屈になったり、偽善的に謙遜であるかのように振舞う謙遜とはまったく違うものです。
罪深い本当の自分を知り、そしてそれを補ってくださる神様の愛を認めることが本当の謙遜なのです。

福音に生きるために必要なのは、まず自分の罪を認める事です。

Ⅰヨハネ 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

自分で罪の代償を支払い、自分で救いを勝ち取ろうとする人生に終止符を打ちませんか?
そして主が与えてくださる、自由と、愛と、喜びに満ちた福音に生きる道を共に歩んでいきましょう。

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