ローマ6:4-11 『新しい命とともに』 2007/04/08 松田健太郎牧師

ローマ 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

人は変わる事ができない、という通説があります。
「私は生まれつき心配性なんです。」とか、
「気が短いのが僕の性分なので、仕方がないんです。」という言葉をよく耳にします。
皆さんはそれをどのように思われるでしょうか?

奥様達が集まると話題になることはひとつのようですね。
「うちの旦那ったら・・・。」という愚痴大会が始まってしまいます。
その中で一番大きな話題となっていたのは、うちの夫は変わらない、ちっとも成長しないという事なのだそうです。
女性はどうなんでしょうかね?

今日は、神様の恵みがどのように人を変えるのかという事を、一緒に考えていきたいと思います。

① 神様の愛は変わらない
2歳児というのは本当に目が離せないものです。
うちの奈緒美はお腹がすくと“eat, eat”と騒ぎ始めたりするのですが、先日お皿を洗っていると後ろで“eat, eat”が始まりました。

「忙しいからちょっと待ってね~。」と言いながら、たまっていた皿を洗い終え、おやつでもあげようかと思って振り返ると、奈緒美はすでに何かを食べています。
白いものが握られていているのが見えたので、自分で勝手にパンを取ってきて食べたのかと思いましたが、パンはカウンターの上にあるので、奈緒美には届きません。

あれ、と思ってその手にあるものを取り上げると、なんとそれは、保育園でもらってきた粘土だったのです。
粘土といっても、口に入れていいように小麦粉を練って作ったものなのですが、汚い机の上や床で転がして練りこんでいた粘土、何がついているかもわからないので、慌てて取り上げました。
しかし、塊の3分の2はすでにお腹の中。
その夜はお腹をこわして大変でした。
少し待っていたら。もっといいものがあったのに・・・。

粘土ならまだいいほうで、先日はどこから見つけていたのか乾燥剤を口に入れていました。
慌ててトイレに連れて行き、吐き出させ、水道の水で口の中をきれいに注ぎました。
まぁ口に入れたのが少量だったのと、特に毒だというわけではなかったので、大事にはいたらなかったのですが、本当に危ないところでした。

乾燥剤の時にはさすがに慌て、奈緒美を逆さまにしてのどに指を突っ込んだりしました。
奈緒美は怖かったでしょうし、悲しかったでしょうね。
彼女は大声で泣きました。
「お父さんは、どうして私にこんな事をするの!?」と言いたかったでしょう。
なぜ? どうしてお父さんはこんな苦しい事をしたんですか?
それは、お父さんが奈緒美を愛しているからですね。

神様も、それと同じ事を私達にしてくださいます。
命の泉に連れて行き、私達の汚れを吐き出させます。
そして、私達の汚れを洗い清めて下さるのです。
私達が口に放り込むのは、不品行、不正、偏見、敵意、妬み、恨み、貪欲・・・。
「そんなものより、もっといいものがあるんだよ。」と、神様は言うのです。

確かに、神様は今のままの私達を愛してくださいます。
私達がよりよい人間になったら、もっと愛してくださるというのではありません。
私達の信仰がさらに深まれば、神様は私達をもっと愛してくださると思っているなら、それは誤解です。
私達が今のままであろうと、さらに罪を重ねようと、それでも神様は私達を愛してくださるでしょう。

粘土だって、例え乾燥剤だって、食べようと思えば食べられなくはない。
確かにそうなのかもしれません。
でも、神様はもっと素晴らしいものを私達のために用意してくださっていている。
食べたらお腹をこわしたり、命を落としてしまうようなものではなく、心にも魂にもおいしい命のパンを、私達に与えようとしてくださっています。
私達が罪から離れ、イエス様のようになっていく事を、喜んで下さるのです。

② キリストに似る
みなさん、ここでちょっと想像して見て欲しいのです。
朝起きると、イエス様が皆さんになっていたらどうなるでしょうか?

イエス様が、皆さんが寝ていたふとんで目を覚まし、皆さんの靴をはき、皆さんの家で生活する。
イエス様が皆さんの家族と交わり、皆さんの仕事をこなす。
皆さんの健康状態も、皆さんのスケジュールも、今抱えている問題もそのままに。
皆さんの意識は体に残しつつ、心は人生に丸一日の休みを取り、イエス様がその御心をもってみなさんの人生を生きるとしたら。

私達の家族は、私達の変化に気がつくでしょうか?
会社の同僚は、何かが違うと感じられるのでしょうか?
私達の周りにいる、私達が一度も話した事のない人たちは、私達が苦手とし、敵視している人たちはどうでしょうか?

私達自身はどうでしょうか?
イエス様が私達の人生を生きてくださる事によって、ストレスのレベルはどうでしょうか?
イライラしたり、機嫌が悪くなったりする頻度はどう変わるでしょうか?
皆さんが恐れているものは、まだ恐いままでしょうか?

イエス様の優先順位が私達の人生に適応される時、皆さんが昨日予定していた事は同じようになされるでしょうか?
イエス様の御心が私達の心を支配し、イエス様の熱い思いが私達に代わって決断する時、イエス様の愛が私達を満たす時、私達の行動は何か変わるでしょうか?

私達は、イエス様からなんとかけ離れてしまっている事でしょう。
イエス様は限りなくやさしく、限りなく愛の方であるのに、私達は何と人を愛せない事でしょう。
イエス様は罪とはかけ離れた聖いお方なのに、私達は何と罪深く、汚れてしまっていることでしょう。

私たちの心は、イエス様の心とはあまりにもかけ離れて見えます。
主は清く、私達は意地悪くうすよごれている。
イエス様はいつでも平安なのに、私達は思い悩み、イライラし、怒りっぽい。
主は聖霊に満ち溢れ、私達はこの世の価値観に縛られています。
どうして私達がイエス様のようになれるでしょうか。
イエス様の心を持ちたいだなんて、どうしてそんな事を少しでも望めるでしょうか?

③ 新しい命に生きる
実を言えば、もし皆さんがクリスチャンであるなら、皆さんはもうイエス様の心を持っているのです。
皆さんがクリスチャンになったとき、心のうちにイエス様が来て下さるようにお祈りしなかったでしょうか。
私達が心の内にイエス様をお迎えする事、それがクリスチャンであるということです。
私達が自分の努力によってイエス様のようになる事などとてもできませんが、イエス様が共にいらっしゃるなら、それは可能なのです。

Iコリント 2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

しかし、私達がイエス様の心を持っているにもかかわらず、自分自身の思いがしゃしゃり出てきてしまうのはなぜでしょう。
私達がクリスチャンになったにもかかわらず、たくさんの重荷を抱え込んでしまうのはなぜなのでしょう。
私達が本当にイエス様の心を持っているのだとしたら、相変わらず肉的な弱点を持ったまま、日々イライラしてはストレスをためてしまうのはなぜなのでしょうか?
それは、私達がいつまでも古い自分自身に固執して、新しい命を生きていないからです。

ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私達はもう一度、いや何度でもこの事に思いをはせる必要があります。
今から2000年前、イエス様は私達の罪を全て背負って十字架にかかり、死んでくださったということ。
そして、私達がその事を信じたとき、これまでの人生で生きてきた肉としての自分にも、別れを告げたはずなのです。

しかしイエス様は、その時に十字架で死んで、それで終わったのではありません。
イエス様は十字架の上で死んで後、3日後に甦りました。
そして、今も私達と共にいてくださる。
それは死者の魂が私達の内に宿るというような抽象的な話しではなく、私達がもっと実感できる新たな命であるはずです。
皆さんはその新しい命を、確かな確信をもって生きているでしょうか。

今日は、イエス様の復活を祝うイースターです。
どうか皆さんの中で、イエス様の復活をもう一度確かなものとして心に受け取り、自分はもう自分の命によって生きるのではなく、キリストと共に生きるものとなったのだということを実感して欲しいのです。

ローマ 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

キリストにあって生きる人生は、水に浮いているようなものです。
肉の思いが湧き上がって不安になり、もがけばもがくほど体は沈んでいきます。
しかし、私達が体の力を抜いて、すべてを委ねる時、私達の体は何もしなくても水に浮くのです。

自分の努力によって、自分を戒め、自分を変えていくのは容易な事ではありません。
今までより本の少し思いやりを持って人と接するというだけでも、実際に行動に移そうと思ったら大変な事でしょう。
ましてや、イエス様の似姿に自分の努力によって近づかなければならないとしたら、大海原を泳いで渡るほど無謀で、厳しい事に違いありません。

しかし、私達が全てを委ねて浮いているなら、イエス様がそこに力を与え、その海原を進めてくださるのです。
それが厳しくて困難である事に変わりはありませんが、自分で泳いでわたるのに比べれば、ずっと楽で安心な道のりでしょう。
そして、大きな波が来る時に私達がしなければならない事は、もがいて波を逃れようとすることではなく、信仰を確かにして流れに身を任せ、浮かび続けているという事だけです。

イエス様が私達の内に生きていないというのであれば、ただ浮いているだけで私達が変わるなどということはありません。
しかし、イエス様は確かに私達の内に生き、私達と共にいてくださるのだからそれが可能なのです。

このイースターの日、皆さんがキリストによって生きる新しい命と共に歩む事ができますように、心からお祈りいたします。

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