使徒1:3-8 『キリストの弟子として生きる⑥』 2009/06/07 松田健太郎牧師

使徒の働き 1:3~8
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

先週はペンテコステでした。
だから本当は、今日のこのメッセージは先週できればよかったんです。
でも、愛に関しての話が先週まで続いてしまったので、間が悪いですがこれが神様のタイミングだと信じて、ペンテコステについての話を一週遅れでお話したいと思います。

ペンテコステの事を、日本語では五旬節と呼ぶのですが、これはもともとユダヤ人の収穫に関するお祭りです。
過ぎ越し祭からちょうど50日経ったこの日、ユダヤの人々は収穫を終えた喜びと歓喜を神様に捧げたのです。
しかし、私たちクリスチャンには、ペンテコステは全く別の意味を持っています。
ペンテコステは、イエス様が十字架にかけられてから50日であり、イエス様を信じる人々の上に聖霊が下った日として覚える、とても重要な日なのです。

聖霊とは何でしょう。
私たちクリスチャンが信じる神様は、三位一体の神様であると言われます。
聖霊はその三位の内のひとつですね。
創造主であり父なる神様と、御子イエス、そして聖霊は、それぞれ別の性質を持ちながらも、その三つが合わさってひとつの存在です。
番組を収録するテレビ局と受信するテレビ、そして電波がそろってテレビ番組を見る事ができるのと似ています。
存在としては全く別々のものですが、みっつそろってひとつの存在とも言えるのです。

さて、私たちの教会は穏健な福音派の教会というのが神学的な位置づけですが、福音派の教会はどうも、聖霊について話す機会が少ないようです。
しかし、三位一体の神様なのだから、父なる神様も、イエス様も、聖霊も、それぞれが同じくらい大切です。
そこで今日は、少し聖霊に焦点を当てて、一緒に学んでみたいと思います。

① 聖霊の役割
使徒の働きを読んでいると、聖霊を受けた人々に奇跡的なことがどんどん起こっています。なので、聖霊というのは、何か不思議な力の源であるように思われる方がいるかもしれません。
実際、使徒の働きの中でもエルマという魔術師が、使徒たちの不思議な力を見て、その力を自分にも売ってくれと言って退けられた話が出てきます。
しかし、聖霊が私たちに与えられたのは、私たちが特別な力を受けてスーパーマンになるためではありません。
聖書にはこのように書かれているのです。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

聖霊が私たちに力を与えるのは確かです。
それは人知を超えた、まさに神様が与える特別な力です。
しかし、それは私たちがその力を受けて喜んだり自慢したりするためのものではなく、イエス様の証人となるために地の果てにまで福音を伝えるためのものなのです。

私たちがその目的を忘れて、奇跡的な力の部分だけに焦点を当ててしまうと、その力は私たちを高慢にさせ、人を傷つける事にしかならない事でしょう。
そのような事が起こるなら、それがどれほど素晴らしい力だったとしても、神様に喜ばれるようなものではありません。
そもそも私たちは、それが本当に聖霊からきているものなのかという事を、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
同じような出来事が自己暗示によって引き起こされたり、悪霊によって奇跡が起こることさえあるのですから。
聖霊が力を発揮するのは、あくまでもイエス様の栄光と、福音が人々に伝えられるためなのだという事を、わたし達は忘れてはなりません。

聖霊の力を受けた時、弟子たちにはどんな事が起こったでしょうか。
聖書にはこのように書かれています。

使徒 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

多くの人は、この現象の部分に注目してしまいます。
しかし大切なのは、彼らが学んだ事もない他国の言葉で福音を語る事によって、そこにいた外国人たちが、自分たちの母国の言葉で福音を聞く事ができたと言う事です。
その結果、何が起こったでしょう。

使徒 2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

その日一日で、なんと3000人の人々がクリスチャンになったのです。
これが聖霊の力です。
私たちがどれだけ一生懸命に伝道しても、一日で3000人の人々に福音を理解させ、信じるように説得する事はできません。
それどころか、実を言えば私たちがどれだけがんばって伝道し、説得したとしても、私たちの力だけではひとりの人さえも信仰に導く事はできないのです。
なぜなら、信仰は御霊によって促されるものだからです。

Iコリント 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

また、このようにも言われています。

Iコリント 12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

今はクリスチャンとなった皆さんも、初めて聖書に触れたときには、書いてある事の意味がさっぱりわからなかったり、キリスト教の教えがとてもバカバカしく思えたりしたのではないでしょうか。
それがある時、突然わかったり、イエス・キリストを救い主だと確信する事ができるのは、まさに聖霊の働きなのです。

ひとつの地域に、短期間に多くの人がクリスチャンになる事をリバイバルと呼びますが、リバイバルは大規模な伝道活動を一生懸命にやったから起こるのではありません。
それは、その伝道活動や集会を通して働かれる聖霊の御業なのです。
聖霊の力が臨むとき、私たちの力を遥かに超えた神様の働きによって、私たちの想像を絶するようなリバイバルが起こるのです。
この様なリバイバルが、日本には必要なのではないでしょうか?

② 聖霊の力
私たちが信仰を持つためには聖霊の働きが必要であり、すべてのクリスチャンの内に聖霊が住んでいます。
このように書かれていますね。

ローマ 8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

私たちが信仰を持った時に聖霊は私たちの心に働かれ、そして今も私たちの心にいてくださいます。
では、信仰を持っているクリスチャンの皆さんにお聞きします。
皆さんは、ペンテコステの時にイエス様の弟子たちが経験した出来事を、自分自身の事として体験した事があるでしょうか?
皆さんの周りでは、リバイバルが起こっているでしょうか?
もし起こっていないのであれば、私たちのうちに聖霊がいるはずなのに、どうしてそのような体験を私たちはしないのでしょうか?

ある人たちは、それは聖書の時代にだけ起こった事であり、今はそのような現象を見る事はできないと言います。
実を言えば、この考えは日本の多くの教会で今も教えられている事で、このような教えをリベラル神学と言います。
彼らは奇跡そのものを否定したり、少なくとも現代に奇跡は起こらないと教えています。
しかし、自分の常識や体験だけを土台にしたそのような考え方は、御霊の働きを消してしまう事にもなってしまいます。
私たちが信じる神様は、天地を作られた神様なのですから、昔も今も力にあふれた神様ではないでしょうか。
表面的な奇跡ばかりを求めてはいけませんが、奇跡を否定してはいけません。
世界中を見ていれば、今現在もそのような奇跡とリバイバルが起こり続けているのです。

聖霊は、旧約聖書の中にも、骨となった人を生き返らせる神の息吹として、川の流れとなってすべてを生かす水として、さまざまな形で描かれてきました。
そのどれを読んでも、聖霊は私たちに力を与えてくださると書かれています。
新約聖書ではそれが実際に人々に注がれ、臆病で勘違いだらけだった弟子たちが奇跡を起こし、殺されるまで福音を伝え続けたその働きが記されています。
それは聖書の時代だけでなく、様々な時代、様々な国にリバイバルを起こしてきました。
そうでなければ、キリスト教はこれまでの迫害と分裂の中で、生き残ることはできないでとっくの昔になくなってしまっていた事でしょう。

わたし達がその力を目にしていないのには、二つの理由があると思います。
一つ目は、神様の時ではないという事。
聖霊でわたし達を満たし、聖霊の賜物を与え、御業を示してくださるのは神様です。
わたし達がどれだけ御霊を発揮させようとしても、それはわたし達にコントロールできるようなものではありません。
復活したイエス様は、天に帰られる前、弟子たちにこの様に伝えています。

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

わたし達もまた、信仰を持って留まり、約束を待つ必要があります。

しかしもうひとつ、わたし達の側がするべき事もあります。
それは、わたし達が御霊の注ぎ、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマをわたし達は願い求めるべきだという事です。
聖霊がわたし達の内に働いてくださることなしに、どうして主のための働きができるでしょうか?
しかし多くの場合、わたし達は御霊の力を求めて祈る代わりに、自分で行動したほうが効果的だと思ってしまうのです。
申し訳ないですが、それはわたし達の思い上がりです。
御霊がしてくださるのでなければ、わたし達に神様の働きは何ひとつできません。
何一つです。
だからイエス様はわたし達に、心の貧しいこと、自分の可能性のなさに悲しむことの大切さを教えているのです。

イエス様はこうも言いました。

ルカ 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

ここで言われている求めなさいという事は、わたし達がただ試みに神様にお願いしてみると言うようなことではありません。
わたし達が信仰を持って、例えなかなか答えがなかったとしても求め続け、しつこい程に捜し続け、うるさいくらいにたたき続けるという事です。
わたし達は聖霊がわたし達の内に満ちて働いてくださることを、その様に求めた事があるでしょうか?
わたし達は、自分自身の力のむなしさを知るからこそ、心から聖霊の働きを求めるのです。
そしてわたし達が求めるなら、神様がどうしてそれを与えてくださらない事があるでしょう。

聖霊は、私たちに愛されている喜びを与え、救いの確信を与え、人々に福音を述べ伝える力を与えてくださいます。
教会に集う全ての人々が聖霊に満たされ、このような喜びと確信に満ちるなら、わたし達の教会にリバイバルが起こるでしょう。
韓国にリバイバルを起こされた聖霊は、霊的砂漠と呼ばれるこの日本をも潤され、リバイバルを起こす事ができるはずです。
今、心から、聖霊の満たしを求めましょう。
ここに集う皆さんの中に、喜びと確信とが満ち溢れますように。

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