箴言3:5-6, イザヤ28:16 『心から主を信頼して』 2008/03/09 松田健太郎牧師
箴言 3:5~6
3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
イザヤ 28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
日本のクリスチャン人口は1%であるという話をよく聞きますが、神様は存在すると信じている日本人は、実は意外なくらい多いものです。
それがどんな神様であるかはまちまちで、確かに八百万的な神様として考えている人たちは多いですが、僕がお話してきた中には唯一の神様に近い神様を想像している方も、決して少なくはありません。
日本の多くの人たちが、宗教をもつとしたらキリスト教を信じたいという統計結果も出ていますね。
では、もしその人が正しい神観を持ち、その実在を信じていたら、その人はクリスチャンでしょうか?
答えはNoです。
例え三位一体の神が存在すると信じている人がいたとしても、イエス・キリストの実在を信じていたとしても、その人はそれによってクリスチャンになるわけではありませんね。
悪霊だってその事は認めているのですから。
神様は私たちを愛していて、私たちのために御子キリストを送ってくださり犠牲とされた。
そのことによって私たちの罪は贖われたのだと信じるとき、そこに信仰が生まれ、その人はクリスチャンとなります。
私たちがクリスチャンとなるために求められているのは、知識ではありません。
私たちは、罪によって断絶されていた神様との関係を回復し、主との人格的な関係によってクリスチャンとなるのです。
「神様はいます。」という事ではなく、神様が私たちを愛し、私たちも神様を愛するという関係の中にクリスチャンとしての信仰はあり、神様はそれを求めているのです。
だから、十字架を信じて救いを受けるというのは、クリスチャンとしての信仰の始まりであって、それで終わりではないんですね。
ゲーテというドイツの有名な作家は、信仰についてこの様に言っています。
「信仰とは、見えない神への愛であり、不可能な状況における信頼である。」
今日は、この信頼というものに焦点を当てて、神様との関係について共に学んでいきたいと思います。
① 律法の中で
「神様に対する信頼。」と言うのですけれど、私たち人間同士の間でも、信頼がなければ人間関係が成り立ちません。
しかし、目に見える人間同士の間でも、信頼を築くという事は本当に大変なことですね。
ましてや、見ることも、感じることもできない神様に対する信頼をどうやって深めていくことができるんでしょうか。
神様の側にとっても、それは大きな課題だったのでした。
この世界を創造した神様が、被造物でしかない私たちにそれ程までに力をつくして、関係を深めようとしてくださっている事、それ自体がすごい事だと思いませんか?
旧約聖書の時代から、神様は様々な方法を通して人との信頼関係を深めようとしています。
私たちは昨年の出エジプト記からの学びの中で、律法について少し学びましたが、律法の中のいくつかも、私たちとの関係を深めるために与えられたものなのです。
律法の中に“安息日を守りなさい”というものがあります。
これは週の一日を聖なる日として、一切の仕事をしてはならないという律法です。
これによって、私たちは週の一日を休むことができるわけですが、ただそれだけの事にしてはずいぶん厳しい律法なんですね。
安息日を破ったものは民族の中から追放されるというような記述もあるわけです。
「休んでいいよ」ではなくて、「絶対に休まなければならない」。
当時はもっと時間にゆとりがあって、ゆったりとしていたように感じるかもしれませんがそうとは限りません。
一日休むことが直接、収穫や牧畜に大きな被害をもたらす可能性のある時代です。
大きな収穫の日と安息日が重なったらアウトです。
安息日の日に敵が攻め込んできたら、もう一巻の終わりです。
人々は、あらゆる状況から神様が守ってくださる、例えそんな事が起こったとしても神様が助けてくださるという信頼なしには、決して守ることのできない律法だったのです。
私たちは教会に献金をしますが、これもまた神様への信頼が試される律法のひとつです。
旧約時代には、神様から与えられた収穫や収入の十分の一を、厳密に計って捧げていました。
今でも、収入の十分の一を献金としてささげる什一献金を大切に守っている教会はたくさんありますね。
収入の十分の一をささげるというのは、やってみるとわかりますが、非常に大変な事です。
十分の一というのは、割合としては結構大きいですね。
生活に直接響いてくる額です。
これを捧げる事も非常に勇気を必要とするのですが、それを通して神様は信頼する事を教えようとしているのです。
私たちの教会では、十分の一を献金しなさいと、特に言う事はありません。
僕自身は、皆さんがそれぞれの信仰に応じて、祈りつつ、献金額を決めるべきだと思っています。
イスラエルにとって十分の一を捧げることは祭司であるレビ人を経済的に支えるための税金のようなものでしたし、イエス様によって律法は完成されたのですから、私たちが絶対的に守らなければならない事ではないでしょう。
新約の時代にはこの様に薦められています。
IIコリント 9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
それが二十分の一でも、逆に十分の九でも、信仰によって心から喜びをもって捧げる献金でなければ、神様は喜ばれません。
でも、私たちが神様を信頼して捧げるとき、神様は必ず私たちを祝福してくださると約束してくださってもいます。
マラキ 3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
神様は私たちに挑戦を与えています。
私たちは、十分の一という数字に何もとらわれる必要はありません。
でも、神様がそう約束されているなら、大胆に捧げてみるのもひとつかもしれませんね。
その決断は、私たちひとりひとりに委ねられているのです。
② 試練を通して
私たちの神様に対する信頼が鍛えられるもうひとつの機会は、試練です。
試練って嫌なものですね。
せっかくクリスチャンになって神様との関係を得たのに、どうして苦しい目になんてあわなければならないのだろうと思ってしまいます。
試練として苦しい状況に陥る事を神様が許されるのは、私たちが経験を通さなければ成長することができないからです。
使徒パウロ自身が経験したその試練を、手紙の中で書き記しています。
IIコリント 1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
私たちは、自分にできることは自分の力でしてしまいます。
私たちは自分の力で就職先を探し、生活費を稼ぎ、子供を育て、人々に伝道し、教会を立て上げ、自分の力で生きることができると思っています。
神様との繋がりがない人生の中では全て当たり前のことですから、これは仕方のないことですね。
しかしだからこそ、私たちが積極的に委ねるという事をしなければ、私たちは神様の力を必要としないのです。
そんな私たちに必要なのは、自分の力ではコントロールできないような状況に陥る事です。
そのような試練の中にあって初めて、私たちは神様に委ね、信頼するという事を覚えるのですから。
でも、そう考えてみると、私たちが試練を与えられているとき、絶望的な気分にならなくても済むのではないですか?
この試練は、私の成長のために与えられたものなのであって、ちゃんと神様の支配の中にあるのですから。
皆さんの中で、今試練の中にあると感じている方はいらっしゃるでしょうか?
私たちに求められているのは、その問題をまず神様に委ね、神様を信頼することです。
もちろん、後は手を話して黙って見ているだけになるというわけではありませんが、神様に示された必要なことだけをなしていけば、必ず脱出の道を備えてくださっているはずです。
そしてその様な経験を経て、試練は残らず祝福へと変えられていくのです。
③ 神様への信頼がもたらすもの
私たちは、「恐れるな。私に信頼して、委ねなさい。」という主の声に従い、信頼を深めます。
また、時には苦難や試練を通して信頼を学ばなければならないときもあります。
その様な経験を通して、私たちは少しずつ神様との関係を深め、絆を強めていくんですね。
神様との関係を深めれば深めていくほど、私たちの内には変化が起こってきます。
それは、私たちがキリストに似ていくという事なんです。
キリストに似るということは、私たちの努力によって、自分の力でできるような事ではありません。
しかしそれは、残念ながら自分は何もしなくてもいい、楽な方法だというわけでもありません。
私たちの中にある罪はあまりにも大きく、私たちが本当に成長していくためには何度も脱皮をしなければならないという事なのかもしれません。
脱皮には痛みが伴います。
しかし、それがただ苦痛として終わるのではなく、私たちに素晴らしい結果をもたらすものだと信じていれば、私たちはどんな苦難にも耐える勇気を持つことができるのではないでしょうか。
パウロは、数々の試練・艱難の中で多くのことを学び、この様に言いました。
ローマ 5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちの希望は、私たちの中から搾り出されるものではありません。
決して失望に終わることがない主にある希望は、キリストとともにあります。
忍耐を持って、主に信頼してください。
皆さんと共に祝福がありますように。