2015年クリスマス・イブ『 インマヌエル 』2015/12/24 松田健太郎牧師

日本では、クリスマスというともう恋人たちのための日のようになってしまいましたね。
愛のお祭りというと、聞こえは良いようですが、愛は愛でも恋愛ですから、全然違います。
日本人は、どうもこの恋愛というものが大好きで、流行する歌も、映画も、マンガも、小説も、圧倒的に恋愛について語っているものが多いですね。
私たちは、どうしてこんなに恋愛が好きなのでしょうか?

恋愛をすると、胸がキュンと苦しくなります。
大好きな人の顔を見ると、思わず笑顔になります。
その人と一緒にいると、世界が何倍も明るく、輝いて感じられます。
時にはそばにいるだけで、とろけるような気持ちになります。
一瞬でも長く、相手と一緒にいたいと感じ、少しでも離れると寂しくなります。
その人なしには、生きていけないと感じるほどです。
恋愛は、退屈な毎日にドキドキとワクワクを与え、人生が何倍も楽しく感じます。
好きな人のためなら、なんだってできるように思えます。
命を投げ出すことも怖くないし、自分の欠点や弱点も、その人のために帰ることができると思えます。
誰もが、そういう甘くて切ない時を経験したことがあるからこそ、恋愛をテーマにしたものは人気があるのです。

しかし、恋愛にはふたつの問題があります。
ひとつ目の問題は、恋愛とは自分では抑えることのできない感情だという事です。
感情というものは、私たちの行動に影響を与えるほどに力がありますが、時間の経過とともに薄れたり、状況によって変わってしまうものなのです。
どんなに熱烈な恋愛も、結婚して何年か経てば、同じようなドキドキはありません。
人は年を経ると、顔にはシワができ、体型は変わるものです。
そこまで待つまでもなく、生活を共にして相手の本当姿が見えてくると、実は欠点だらけで、問題がたくさんある人間だということがわかってきます。
そうして時間や環境が変わると、あれだけ一緒にいることが嬉しかった感情がなくなり、相手が近くにいるのも煩わしいほど嫌いという感情に変わってしまうこともあるのです。

ふたつ目の問題は、恋愛と愛は間違えやすいということです。
“相手が好き”という感情が強くあるときには、相手のために何でも出来ると私たちは感じます。
私たちは、それが“愛”なのだと思い込んでしまうのです。
でもそれは、強い感情の流れに流されているだけでしかありません。
やがてその流れが枯れてしまったり、違う流れになってしまうと、“愛”はなくなってしまったか、間違えた人と一緒になってしまったと私たちは思って、別れてしまうのです。

神様の愛が、もし“好き”か“嫌い”の感情だけだったら、大変なことになりますね。
私たちはとっくに、滅ぼされてしまっていたことでしょう。
私たちは、神様が創ったあらゆるものを汚し、壊し、台無しにしたのですから。
私たちはこれまで、どれだけ神様を無視してきたでしょうか?
どれだけ神様に背いてきたことでしょう?
神様が愛し、似姿として創られた他の人たちを、どれだけ傷つけてきたでしょうか?
私たちはどれだけ、神様が創られた素晴らしい自分とはかけ離れた生き方をしてきた事でしょう?
僕たちはどう考えても、神様に好かれることをしてきた量よりも、神様をムカつかせ、怒らせてきた数の方が圧倒的に多いのです。

でも神様は、おそらくは何度も腹を立てながら、それでも私たちを滅ぼさないできました。
それだけではなく、こんな私たちをそれでも愛し、私たちのすべての罪を買い取るために、自らの命を犠牲にしてくださったのです。
留めることのできない感情が、恋愛です。
でも、その感情がネガティブなものになった時、感情を越えて相手を受け止めることが愛です。

神様が私たちを、いつでも好きでいられるかと言ったら、そんなことはありえません。
でも、たとえ私たちのことが好きでない時でも、私たちを見捨てず、あきらめず、赦し、忍耐し、ともに歩み続けてくださったところに、神様の愛はあるのです。

”愛”とは、誰かに夢中になって、その人なしには生きていけないと感じる感情の事ではありません。
”愛”とは、心がワクワクしたり、とろけてしまいそうになる感覚のことではありません。”愛”とは、自分の理想を勝手に押し付けてそう言う人だと思いこみ、そうではないとわかって途端に冷めてしまうものではありません。

“愛する”とは、裏切られ、傷つけられ、それでもなお共に歩み続ける事です。
“愛する”とは、相手が不完全な存在だと知り、欠点がたくさんある中でも、その中に良い部分を見つけ、寄り添い、その人の成長を助け続ける事なのです。

聖書には、イエス様は「インマヌエル」と呼ばれると書かれています。
インマヌエルというのは、「主がともにおられる」という意味の言葉です。
何処か遠く、いるかいないかわからない存在だった神様は、イエス様としてこの地上に来て下さり、目にみえ、手に触れ、会話することができる方となって下さいました。
今は聖霊として、信仰を持つ私たちの内に住まい、寄り添ってくださっています。
神様は、私たちをそのような愛で愛されているのです。
それは、どんなに素晴らしいことでしょうか?

神様は、私たちも、そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われます。
私たちが、自分自身を愛するように隣人を愛するという事や、敵を愛するという事は、まさにそのような愛を表しています。
そう考えると、私たちがどれほど、そのような愛から離れたところにいるかということがわかるのではないでしょうか?
クリスマスの恋人たちを取り上げるまでもなく、神様の愛を知るクリスチャンだって、そのような愛からは程遠いところにいるということがわかってきます。

なぜなら、私たちはことごとく自己中心だからです。
自分を殺してでも相手のために尽くすことが愛ならば、自己中心とは愛の対局にある状態です。
そんな私たちが、どうやって互いに愛し合うことができるというのでしょう?
私たちが互いに愛し合うためには、私たちはまず愛を知る必要があります。
そのような愛はどこにあるのですか?
愛は、神様とともにあるのです。
聖書にはこのように書かれています。

Iヨハネ 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

 

I ヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

私たちが神様の愛を知り、神様の愛に生きるとき、クリスマスは本当の意味で愛のホリデーとなります。
それが恋人であろうと、夫婦であろうと、家族であろうと、友人や、教会の仲間であろうと・・・。
神様が、私たちへの愛を示してくださったこのクリスマスの時に、この愛を心から受け止めて、本当の愛の関係を築き始めませんか?
今日から、今からそれを始めることができます。
祈りましょう。

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