申命記30:15-18,34:1-7 『主に聞き従い、人に仕えるー約束の地を目ざして』 2019/3/24 小西孝蔵

「主に聞き従い、人に仕えるー約束の地を目ざして」

―申命記30章15~18節、34章1~7節

 

申命記30章

30:15見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。 30:16すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。 30:17しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、 30:18わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。

 

申命記34章

34:1モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、 34:2ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、 34:3ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。 34:4そして主は彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。 34:5こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。 34:6主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない。 34:7モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 初めに    (祈り)

モーセシリーズ第6回目、最終回。前回1月のメッセージの後、モーセばかりでもういいんじゃないか?とも思ったこともありました。そんなある夜、モーセが私の夢枕に立ってこういわれた。「まだ終わってはいないぞ。何か、・・・・」目が覚めて、今日の箇所を取り上げることにした。カナンの地を前にしてモーセが最期を迎える場面です。モーセをジョークに使ってしまい、申し訳ない。

 

  • これまでの振り返りと申命記

 

1)出エジプトの後、イスラエルの民は、モーセを通じて、神からシナイ山で十戒を授かり、神様との間に契約を結ぶ。ところが、民の反抗は続く。①シナイ山のふもとにおける金の子牛事件、②カデシュ・バルネアからのカナンの地への進入命令拒否、③メリバの事件(飲み水がなく、民が不平反乱)、④モアブの地、シティムの女とバール信仰への誘惑 → 24,000人が疫病によって死亡。

2)神の命令に逆らって、カデシュ・バルネアからカナンの地に進軍しなかったため、40年間も余分に荒野をさまようことになり、その間に、出エジプトに参加した人たちは、ヨシュア、カレブを除いて死に絶えた。遠回りしてたどり着いたヨルダン川東岸のモアブに地で、新しい世代に、十戒をはじめとする改めて授けたのが、第2の律法といわれる申命記、シナイ契約を結び直したのが、申命記30章のモアブの契約といわれるもの。

3)神の声を聞き、民との間に入ってとりなしをしたモーセは、キリストの証人としての一生だった(ヨハネ5(46))。

本日の箇所から、学ぶ2つの点。①主の戒めを守る―神と人とに仕えること、そのためには、常に、主の御声に聞き従うこと、②約束の地を仰ぎ見、御国を目ざすこと

 

  • 神と人とに仕えること

申命記30:16「すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道

に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。」

 

1)ヤーベの神は、偶像礼拝を禁止。異民族との交流を禁じたし、滅ぼしもした。

イエスの教えでは、神を愛し、隣人を愛する、すなわち、神に仕え、人に仕える。

 

マタイによる福音書20章27,28節「20:27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 20:28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

2)現代の私たちは、職場や地域社会、家庭でどのような態度をとればいいのか?

今月初め、元の職場のクリスチャンの後輩が週1回昼休みに、仲間8人でバイブルスタディしている会によばれた。そこで読まれていたテキストが「この世界で働くことー仕事を通して神と人とに仕える「(ティモシー・ケラー)(いのちのことば社)(Every Good Endeavor, by Timothy Keller。そこで、紹介されているのが、「一般恩寵」(神の恵みと働きがクリスチャンとそうでない人の区別なく、すべての人々に注がれている地言うという考え方)です。この視点に立つと、世界が本当に広く感じます。クリスチャンは、この世を対立概念ととらえないこと、身の回りの人たちのいいところを評価して謙虚に学ぶことができます。

 

マタイによる福音書「5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」

 

3)人によっては、仕えることは難しい。

私の体験談、①上司の上司からのいじめ、②二人の上司の反目と「二君にまみえず」、に大変苦労させられたことがあります。その後、仕事を取り巻く問題が大きくなりすぎて、お互いにいがみ合っている状況ではなくなり、1~2年の忍耐のち、何とか解決の道が与えられました。主は、耐えきれない試練に会わされることなく、逃れる道を備えて下さったと感謝しています。

 

4)私の寮の先輩のつらい体験

80歳近くの夫婦で奥様が認知症。介護24時間。愛は、仕えることでもありますが、同時に、最後まで与えれた人に対して責任を負うことでもあることでもあります。これから結婚する若い方には、結婚式の誓いは、現実のものとなるということを頭の隅において、結婚に踏み切ることをお勧めします。

ただし、この先輩の場合、奥様から長年の抑えてきた感情が、恨み節となって一挙に噴き出して、余計に大変な状況にあるそうです。私の家内からの助言―普段から、言いたいことをため込まないことが大事。神を恐れると同時に妻を恐れることも? 本当に愛するために。

 

5)自分は何に向いているのか、何をしていいか、わからない時

新渡戸稲造が聖書の次にボロボロになるまで読みこなしたのが、トーマス・カーライルの「衣装哲学」(Sartar Resartus)と言われているが、そこから引用している座右の銘が、「あなたの最も身近な義務を果たしなさい」Do the duty which lies the nearest Thee)私の座右の銘にもなっています。

 

  • 主の御声に聞き従うこと

この言葉は、申命記30章17節のほか、申命記全体で、20回ほど出てくるキーワー

ド。私たちは、自分の力で主の戒め、神の律法を守ることはできない。主の戒めを守ることと、御声に聞き従うことは、表裏一体。キリストに罪を赦していただき、聖霊の働きを受けることにより、神様の命令に従っていくことが出来る。これが新しい契約、新約の恵み

 

へブル人への手紙10章12~16節「10:12しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 10:13それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 10:14彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。 10:15聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、10:16「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」

 

日々の祈り、デボーションが大事、神様に直接つながることが必要。拙い私の経験でも、管理職の仕事で大変な重責を担わされていた時、朝起きた時、出勤して部屋に入る前に短くても祈ってからでないと力が得られなかった。

他方、安息日の教えも大事。週に一度くらい、他の人と礼拝を共にすることによって、神様から離れていた自分を発見することがしばしば。私たちは、弱い存在なので、一人でいると流される。

 

  • 約束の地を目ざして

モーセは、80歳で出エジプトの指導者としての召命。40年間の荒野での試練を経

て、120歳。約束の地を目の前にして、入ることは許されなかった。なぜか。メリバで民の不満を受けて、岩を打って水を出したことが原因のように思われているがそうではないと思う。民の罪を負って、ともに、神のさばきを受けたからに違いない。モーセのとりなしの生涯の結末だと思われる。

でも、本日の聖書箇所の最後では、申命記「34:7モーセは死んだ時、百二十歳であ

ったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」とある。なんという慰めであろうか。我々は、60歳で定年を迎えても、普通、あと20年、30年生かされる。モーセに寄れば、人生の第3ステージで、神様の新しい召命(辞令?)をいただく。生涯現役でありたい(日野原先生)。

 

ここで、ご紹介したいのが、 昨年4月、没後50年を迎えた、マーティン・ルーサー・キング牧師の次の言葉です。そもそも、私が、礼拝でモーセを取り上げるきっかけとなった言葉です。暗殺された前夜、メンフィスで演説した中で、このモーセの山から約束の地を前にした心境を歌っています。

「私は、今、何が起ころうとしているかわからない。困難な日々が続いていくが、それはどうでもよいこと。山の頂きに到達したからだ。誰しも長生きを願うものだが、私は、もはや、望まない。ただ、神の御旨を行うことを願うのみ。神は、私が山を登ることを許された。神は、ここから見渡すと、目の前に、希望の地が広がっている。私は、あなた方と共に、そこには着けないだろう。しかし、今晩、皆さんに知っていただきたい。私たちは、一つの民として、必ずや希望の地へ到達することを。だから、今晩、私は幸せだ。何物も恐れない。いかなる人も恐れない。私の目には、主が来られる栄光の光を見たから。」

“Well, I don’t know what will happen now. We’ve got some difficult days ahead. But it doesn’t matter with me now. Because I’ve been to the mountaintop. And I don’t mind. Like anybody, I would like to live a long life. Longevity has its place. But I’m not concerned about that now. I just want to do God’s will. And He’s allowed me to go up to the mountain. And I’ve looked over. And I’ve seen the promised land.  I may not get there with you. But I want you to know tonight, that we, as a people, will get to the promised land.  And I’m happy, tonight. I’m not worried about anything. I’m not fearing any man. Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord.‘

最後に、へブル書が御国を目指す信徒のことをこうとらえています。

 

へブル人への手紙11章13~16節「11:13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 11:14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 11:15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 11:16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」

 

今日まで、1年間、6回にわたって、モーセの生涯を通じて学んできましたが、今日の締めくくりは、申命記を通して、①モーセは、キリストのことを指し示していること、②主の御声に聞き従いつつ、身近なところから、神と人とに仕えること、そして、③神の御国を目ざしつつ、生涯現役で、希望をもってあゆみ続けることを学ばせていただきました。         (祈り)