使徒17章 アテネでの説教:異文化の中で語られる「知られざる神」
あらすじ
パウロとシラスは第二回宣教旅行を続け、テサロニケとベレアで福音を語ります。
テサロニケでは多くの人が信じましたが、反対者たちによる騒動が起こり、パウロたちは町を去らなければなりませんでした。
次に訪れたベレアの人々は、
「非常に熱心にみことばを受け入れ、毎日聖書を調べた。」
と記され、福音を真剣に吟味しました。
しかしテサロニケから来た反対者たちによって騒ぎが起こり、パウロはアテネへ向かいます。
アテネでは町中に偶像があふれているのを見て心を痛めます。
彼は会堂だけでなく市場でも語り続け、やがて哲学者たちによってアレオパゴスへ招かれます。
そこでパウロは、
「知られざる神に」
と刻まれた祭壇を手がかりに、天地を造られた唯一の神と、復活されたイエスについて語ります。
ある人々は嘲りますが、ある人々は信じました。
その中にはディオヌシオやダマリスもいました。
背景
使徒16章では福音が初めてヨーロッパへ渡りました。
そして17章では、さらにギリシア世界の中心部へ入っていきます。
特にアテネは当時、
- 哲学
- 学問
- 文化
- 宗教
の中心地として知られていました。
ここでルカは、福音がユダヤ人社会だけでなく、ギリシア思想の世界にも語られていく様子 を描いています。
テサロニケでの宣教
パウロはいつものように会堂へ入ります。
そして聖書から、
「キリストは苦しみを受けて死者の中からよみがえるはずだった。」
と論じます。
これは使徒の働き全体で繰り返されるテーマです。
福音の中心は、
- 十字架
- 復活
- イエスがキリストであること
です。
しかし多くの人が信じる一方で激しい反対も生じます。
反対者たちはこう叫びます。
「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも来た。」(17:6)
皮肉なことに、彼らは重要な真実を語っています。
福音は世界を変える力を持っていたのです。
ベレアの人々
ベレアの人々については有名な記述があります。
「彼らは非常に熱心にみことばを受け入れ、毎日聖書を調べた。」(17:11)
興味深いのは、盲目的に信じたのではないことです。
また最初から拒絶したのでもありません。
彼らは神のことばによって確かめようとしました。
ここに健全な信仰の姿があります。
偶像に満ちたアテネ
アテネへ到着したパウロは、
「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」
とあります。
当時のアテネには無数の神殿や祭壇がありました。
人々は非常に宗教的でした。
しかし真の神を知りませんでした。
パウロはその状況を悲しみます。
単なる文化批判ではなく、神を知らない人々への愛がそこにありました。
アレオパゴスでの説教
アテネでの説教は、他の説教とかなり違います。
ユダヤ人相手なら旧約聖書から語ります。
しかしアテネの人々は聖書を知りません。
そこでパウロは、彼らが持っている文化や思想を出発点にします。
これは非常に興味深い点です。
福音の内容は変わりません。
しかし伝え方は相手に合わせているのです。
「知られざる神」
パウロは、
「知られざる神へ」
と刻まれた祭壇に注目します。
そして言います。
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、私は知らせましょう。」(17:23)
これは巧みな導入です。
彼はまず人々の関心から出発し、そこから福音へ導きます。
天地の創造主
パウロは語ります。
「この世界とその中にあるすべてのものを造られた神は、天地の主です。」(17:24)
ここで彼は偶像礼拝の根本的問題を示しています。
神は人間が作った神殿や像の中に閉じ込められる方ではありません。
むしろ人間の方が神によって生かされているのです。
これは創世記から始まる聖書全体の世界観です。
「私たちは神の子孫」
さらにパウロはギリシアの詩人を引用し、「私たちもまた、その子孫である。」と語ります。
ここは聖書以外の文学を引用する珍しい場面です。
パウロは相手の文化の中にある真理の断片を用いながら、真の神へ導いています。
悔い改めへの招き
説教の後半でパウロははっきり言います。
「神は今、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(17:30)
これは単なる哲学の講義ではありません。
福音には応答が求められるのです。
神はすべての人を招いておられますが、同時に悔い改めを求められます。
復活で終わる説教
説教の結論はやはり復活です。
神はイエスを死者の中からよみがえらせることによって、
「この方によって世界を正しくさばく日を定められた。」
と証明されました。
すると反応が分かれます。
- 嘲る者
- もっと聞きたい者
- 信じる者
です。
使徒の働きでは毎回同じです。
福音は歓迎も拒絶も引き起こします。
神の国とのつながり
17章は神の国が文化の壁を越える場面です。
福音はユダヤ人だけのものではありません。
また特定の文化だけに属するものでもありません。
神の国は、
- ヘブル文化にも
- ギリシア文化にも
- ローマ世界にも
入っていきます。
しかし文化に合わせながらも、その中心である
「十字架と復活のキリスト」
は決して変わりません。
この章が私たちに語ること
私たちも現代社会の中で、さまざまな価値観に囲まれて生きています。
アテネの人々は非常に知的でした。
しかし神を知りませんでした。
知識だけでは救いを与えられないのです。
またパウロは人々を見下さず、彼らが理解できる言葉で語りました。
福音の真理は変えずに、伝え方を工夫したのです。
その姿は今の私たちにも大切な模範です。
そして最終的な希望は、哲学ではなく復活されたキリストにあります。
この章の中心メッセージ
福音はユダヤ人社会を越え、ギリシア文化の中心アテネにも語られた。
パウロは人々の文化や思想を理解しながら、天地の創造主と復活されたキリストを宣べ伝えた。
神の国はあらゆる文化を超えて広がるが、その中心は常に十字架と復活の福音である。
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、私は知らせましょう。」(使徒17:23)
「神は今、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)
「神は、この方を死者の中からよみがえらせることによって、その確証をすべての人に与えられたのです。」(使徒17:31)

「私たちもまた、その子孫である。」(使徒17:28)
(ギリシア語: του γαρ και γενος εσμεν)
この言葉は、一般的に アラトス(Aratus, 前315頃~前240頃) の詩『パイノメナ(Phaenomena)』冒頭部分からの引用と考えられています。
アラトスはキリキア地方のソリ出身の詩人で、パウロと同じくキリキア出身でした。
その詩の冒頭には次のような一節があります。
「ゼウスから始めよう。
われわれは常にゼウスを必要としている。
なぜなら、われわれもまた彼の子孫だからである。」

