申命記4:9-10(4:1-49) 申命記3 『神の言葉を忘れないために』 2026/7/25 けんたろ
申命記4:9-10(4:1-49)
4:9 ただ、あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。
4:10 あなたがホレブで、あなたの神、【主】の前に立った日に【主】は私に言われた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせる。それによって、彼らが地上に生きている日の間わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」
今回は申命記4章です。
申命記は、約束の地の入り口に立つイスラエルの民に、モーセが人生の最後に語った“遺言”であり“メッセージ”です。
その4章で語るのは、律法の細かな規定ではなく、心の向きを守るための注意点です。
モーセは、荒野40年の旅路を振り返りながら、 民の心がどこに向いているのかを問いかけます。
それは、私たちの信仰生活に導きを与えるものでもありますから、その言葉に心と耳を傾けていきましょう。
目次
1. 忘れてはならない
申命記では、全体を通して繰り返される言葉があります。
それは、「忘れてはならない」そして、「心に留めなさい」です。
4章では、言葉としてそれほど何度も繰り返されているわけではありませんが、中心となるメッセージではあるのです。
では、何を忘れてはならないと言っているのでしょうか。
① 神の言葉を忘れてはならない
ホレブ(シナイ山)で神は「声」だけで語られました。 姿は見せず、形も示されませんでした。 それは、神が形に閉じ込められる方ではないことを示しています。
神さまの言葉を忘れると、心は別の声に向かい始めるからです。
② 神のわざを忘れてはならない
主はエジプトから救い、荒野で導き、守り、養ってくださいました。
これらを忘れると、神さまの力が現実でなくなります。
すると、人は目に見える力に頼り始めることになります。
③ 神との契約を忘れてはならない
契約とは、神が民を愛し、民が神に従うという関係そのもの。
契約を忘れると、心が神以外のものに向かいます。
つまり、 忘れるとは、心が神の方向から離れていくこと。
これは単に記憶の問題ではなく、心の向きの問題です。
2. 偶像とは何か
申命記4章は、忘れてはならいということと共に「偶像を造ってはならない」と語ります。
偶像というと、石や木の像を思い浮かべるかもしれませんが、それだけではありません。
聖書が語る偶像とは、 神以外のものに心が依存することです。
見える力、見える成功、見える安全、見える保証、見える形、これらが神の代わりになるとき、それは偶像となります。
そう考えてみると、どれほど私たち偶像に依存し安いかがわかるのではないでしょうか?
では、偶像崇拝の何が問題なのでしょう?
偶像崇拝の本質は、神さまを自分の理解の範囲に閉じ込めるということです。
神はこうあるべきだ、こうするべきであり、私のために良いことをもたらすべきなんだ。
その思考の中心にあるのは神さまではなく、自分です。
それは、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べた時から変わらない罪そのものなのです。
そう考えると、偶像崇拝がどれほど大きな罪と繋がっているのかという話になるのですが、神さまはそれとは違う視点でこの罪の問題を明らかにしています。
3. 妬む神
申命記4章24節には、このように書かれています。
申命記 4:24 あなたの神、【主】は焼き尽くす火、ねたみの神である。
この「ねたむ神」という視点は、解説しておかなければならない部分だと思います。
私たちの感覚で、ねたむという感情はネガティブなもので、神さまにはふさわしくない性質のように思いませんか?
それに、私たちが神さまに成り代わろうとしていることの方が、どう考えても大きな問題だと思うのですが、「そうではない」と神さまは言うのです。
なぜでしょう?
そんなことはどうでもよくなるくらい、あなたの心が違う所に向いていることを私が許せないからです。
神さまの私たちへの愛は、私たちの心が別の方向に向かうことが許せなくなるほど、私たちを愛しているということです。
これって、すごいことだと思いませんか?
「いま、すれ違った女の子のことを見てたでしょう?」みたいなかわいさまで感じます。
もちろん神さまの愛は、それよりもはるかに深いものです。
でも神さまは、神に成り代わろうとする私たちの暗くて深い問題を取り上げず、ご自身がどれほど私たちを思っているかという気持ちによって、ここにある問題を指摘しているのです。
これは、神さまの愛の表現である以外のなにものでもありません。
4. 大切なのは愛すること
神さまが私たちに求めているのは、悪い行いを避けて、善い行いをすることだとほとんどの人が思っていると思います。
皆さんの中にも、まだそのように思われている方がいるかもしれません。
でも、聖書のメッセージはびっくりするくらいそれとは全く違うものです。
私たちに求められているのは、神さまが私たちを愛しているように、神さまを愛することです。
まぁ、私たちが神さまを愛しているなら、悪い行いは避けますし、善い行いをしようとするものですが、それはあくまでも愛していることの結果です。
行動が中心ではないというのは、これまでの宗教的価値観をひっくり返すほど大きな違いです。
最後に、行いが中心となる問題ではないなら、どうして律法が与えられているのか?ということについてお話しして終わりたいと思います。
神さまは、律法を与えた理由についてこのように言っているのです。
申命記 4:40 今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も幸せになり、あなたの神、【主】が永久に与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
律法はイスラエルの民を閉じ込めて自由を奪うためのものではありません。
律法は、それに沿って歩んでいけば、平和に幸せな人生を長く生きていくことができる秩序なのです。
それは、クリスチャンの生き方にそのまま当てはめることができます。
クリスチャンになることは私たちを不自由にして、味気ないものにするものではなく、私たちに自由と喜びを与えるものです。
皆さんは、そのような歩み方をイエスさまと共にすることができているでしょうか?


