申命記9:1-6(9:1-11:32)申命記7 『かたくなな心と神のあわれみ』2026/09/05 けんたろ

申命記9:1-6(9:1-11:32)
申命記 9:1 聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。
9:2 あなたがよく知っているアナク人は、大きくて背が高い民である。あなたは「だれがアナク人に立ち向かえるだろうか」と言われるのを聞いたことがある。
9:3 今日、知りなさい。あなたの神、【主】ご自身が、焼き尽くす火としてあなたの前を進み、彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは【主】が約束されたように、彼らをただちに追い払って滅ぼすのだ。
9:4 あなたの神、【主】があなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、【主】が私をこの地に導き入れ、所有させてくださったのだ」と言ってはならない。これらの国々の邪悪さのゆえに、【主】はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。
9:5 あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心が真っ直ぐだからでもない。これらの国々の邪悪さのゆえに、あなたの神、【主】があなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また【主】があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。
9:6 知りなさい。あなたの神、【主】は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。

今日は申命記9–11章に耳を傾けましょう。
前回、申命記7–8章では「神の選び」と「謙遜」が語られました。
神は一方的な恵みによって民を選び、
その選びの目的は 神の民として生きる使命を果たすこと でした。

しかし、私たちは選ばれたにも関わらず、本来の目的である神の国に生きることがなかなかできません。
その背後に働いているのは 人々が持っていた「心のかたくなさ」 です。
神の選びは恵みですが、その恵みを生きるためには、心が神に向いている必要があるのです。

1. イスラエルの問題(申命記9章)

申命記9章は驚くべき言葉から始まります。

「知りなさい。あなたの神、【主】は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。」(9:6)

神はイスラエルを選ばれました。
しかしその選びは、彼らが正しい民だったからではありません。
むしろ、彼らは頭が堅く、繰り返し神に逆らった民でした。
その具体例として、ホレブでの金の子牛の事件を思い起こさせます(9:7–21)。

神が契約を結んだ直後、神の栄光を見た直後、神の言葉を聞いた直後、彼らは偶像を造り、神を捨ててしまいました。
ここでモーセが強調しているのは、「選びは民の義によるものではなく、神のあわれみによるもの」だということです。

2. モーセのとりなし:神のあわれみの中心(申命記9:18–29)

イスラエルが滅ぼされてもおかしくない状況の中で、モーセは40日40夜、民のために祈り続けました。

「それから私は、前のように四十日四十夜、【主】の前にひれ伏して、パンも食べず水も飲まなかった。」(9:18)

モーセは、神の選びと約束を思い起こし、神の栄光が損なわれないように願って祈りました。
つまり、民が生き延びたのは、イスラエルが正しかったことの証拠ではなく、ただ神のあわれみと、とりなしによるのだということです。
これは、私たちも同じですね。
正しい人間だから救われたのではありません。
罪人であったのに、神のあわれみによって救いを与えられたのです。

3. 心のかたさとの戦い(申命記10章)

申命記10章でモーセは、民の心のかたくなさというテーマをさらに掘り下げます。

「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。」(10:16)

割礼というのは、男性器の包皮を切り取るという、選ばれた民に与えられた外面的なしるしのことですね。
しかし、ここで語られるのは、外側の行動ではなく内側の心の問題です。
心の包皮とは、神に対して閉ざされた心、神の言葉を拒む心、自分の力に寄り頼む心を表しています。

つまりモーセは、このように言っているのです。
「神に心を開き、柔らかい心を持って、神と共に歩みなさい。」
これは、選びの民が使命を果たすための最も重要な条件です。

4. 神の民として生きる姿(申命記10:12–13)

モーセは、神の民として生きる姿を明確に示します。

「イスラエルよ。今、あなたの神、【主】が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、【主】を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、【主】に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、【主】の命令と掟を守ることである。」(10:12-13)

ここで語られているのは、律法を表面的になぞって守るかどうかという話ではありません。
私たちが、神との関係を心の中心にいて生きるということです。
「主を恐れる」「主を愛する」「主に仕える」「主の道を歩む」、これらはすべて、心の向きが神に向いているときに自然に流れ出る生き方です。
イスラエルが約束の地で生きるために、そして私たちが神の国で生きるために求められている生き方がここにあるのです。

5. 今日の私たちへの問いかけ

私たちの心は神に向いているでしょうか。
かたくなな心が忍び込んでいないでしょうか。
神のあわれみを忘れていないでしょうか。
神の民として生きる使命を喜んで受け取っているでしょうか。
神の言葉を心に置いているでしょうか。

そのように生きるために、必要なことがあります。
イスラエルの民にとっては、それは律法に従って生きるという生き方でした。
新約の時代を生きる私たちには少し求めることが変わってきます。
私たちに必要なのは、聖霊に満たされるということです。
神さまご自身が私たちの内に住んでくださっているのですから、私たちは神様に生きていただけばいいのです。

では、聖霊に満たされるために何が必要なのでしょう?
祈ることでしょうか、聖書の言葉を学ぶことによってでしょうか、瞑想によってでしょうか、賛美することによってでしょうか、礼拝することによってでしょうか?
そのように教えられてきたかもしれませんが、それは正確ではなかったと僕は思います。
聖霊に満たされるために必要なのは、自分を明け渡すことです。
自分が中心にいて、自分の正義や思い、感情や願望を優先にする限り、私たちは何をしても聖霊に満たされることはありません。

自分の十字架を負って主に従い、自分自身を十字架につけて主と共に生きる。
それこそ、イエスさまが教えてくれた聖霊に満たされる方法であり、神の国の入り方です。
かたくなな心を捨てて、主と共に生きましょう。
神の国は、私たちの目の前に広がっているのですから。