聖書以外の文献を引用している聖書箇所について
引用と霊感について考える
はじめに
聖書を読んでいると、ときどき不思議な箇所に出会います。
ユダの手紙にはエノクの預言が引用され、パウロはギリシアの詩人の言葉を引用しています。
また、旧約聖書に記録されていない伝承が新約聖書に登場することもあります。
こうした箇所を知ると、
- 聖書は外典を認めているのか
- 引用された本は聖書なのか
- 聖書の権威は損なわれないのか
という疑問を持つ人もいるでしょう。
しかし実際には、これらの引用は聖書の権威を弱めるものではなく、むしろ神が歴史の中でどのように語られたかを示しています。
聖書は聖書以外のものを引用している
実は新約聖書には、聖書外の資料や伝承への言及が少なくありません。
ユダの手紙
ユダ1:14-15
「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる。」
この言葉は第一エノク書によく似ています。
またユダ1:9には、
ミカエルがモーセの遺体について悪魔と争った
という出来事が登場しますが、これは旧約聖書には書かれていません。
パウロ
使徒17:28
「私たちは神の中に生き、動き、存在している」
「私たちもその子孫である」
これはギリシア詩人の言葉です。
また、
テトス1:12
ではクレタ人の詩人エピメニデスを引用しています。
第二テモテ
第二テモテ3:8
「ヤンネとヤンブレ」
という人物名が登場します。
しかし出エジプト記にはその名前はありません。
これは当時知られていたユダヤ伝承です。
ヘブル書
ヘブル11:37
「のこぎりでひかれ」
という殉教者への言及があります。
旧約本文にはありませんが、イザヤの殉教伝承との関係が指摘されています。
引用された本は聖書なのか
ここで最も多い誤解があります。
それは、
「引用されたのだから、その本も聖書なのだ」
という考えです。
しかしこの結論は成り立ちません。
たとえば現代の牧師が説教の中で、
- 新聞
- 歴史書
- 学術論文
を引用したとしても、
それらすべてが神のことばになるわけではありません。
パウロがギリシア詩人を引用したからといって、ギリシア詩集が聖書になったわけではありません。
同じように、ユダがエノク書を引用したからといって、エノク書全体が正典になるわけではありません。
聖書記者が保証しているもの
聖書記者が保証しているのは、
引用元の文献全体ではなく、引用された内容です。
聖霊は、当時の人々が広く知っていた資料の中に含まれていた真実を用いて語ることがおできになります。
つまり権威は、
- エノク書にあるのではなく
- 詩人にあるのでもなく
- 伝承にあるのでもなく
聖霊によって書かれた聖書そのものにあります。
神は人々が理解できる方法で語られる
ここには重要な原則があります。
神はしばしば、人々が既に知っている言葉や文化を用いて語られます。
パウロがアテネで伝道した時、
旧約聖書を知らないギリシア人に向かって説教しました。
そこで彼は、相手がよく知っている詩人の言葉を引用しながら福音を説明したのです。
これは妥協ではありません。
福音を分かりやすく伝えるための知恵でした。
聖書と参考文献を混同しない
一方で現代には別の危険もあります。
エノク書やユダヤ伝承に興味を持つあまり、
それらを聖書以上に重視してしまうことです。
確かに、
- エノク書
- ヨベル書
- 死海文書
- 初期ユダヤ教文献
を学ぶことは有益です。
新約聖書の背景理解に大きく役立ちます。
しかしそれらは、
聖書を理解する助けであって、信仰の基準ではありません。
私たちの最終的な権威は、常に聖書そのものです。
おわりに
聖書は時折、聖書以外の文献や伝承を引用します。
しかしそれは聖書の権威を弱めるどころか、神が人々の歴史や文化の中で働いておられることを示しています。
大切なのは、
「どの本が引用されたか」
に心を奪われることではありません。
むしろ、
「聖霊はその引用を通して何を語ろうとしているのか」
を読むことです。
聖書は今日も、あらゆる文化や時代を超えて、人々をキリストへ導き続けています。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)

