申命記19:1-3(19:1-21)申命記11 『正義とあわれみの神』2026/10/04 けんたろ

申命記19:1-3(19:1-21)
19:1 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、【主】が絶ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったとき、
19:2 あなたの神、【主】があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。
19:3 あなたは距離を測定し、あなたの神、【主】があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこに逃れることができる。

前回は、王と預言者について学びました。
私たちは最終的に、「キリストの声を聞くことが大切」ということを学びましたね。
そして申命記19章では、裁判の話と逃れの街の話を通して、神の正義とあわれみが同じ個所で語られています。

神さまの正義とあわれみは、どのようにして共存し、どこで一つになるのでしょうか。
今日の箇所を通して、そのことを見ていきたいと思います。

1. 神は逃れの道を備えられる(19:1-13)

まずはあわれみの方から…申命記19章は逃れの町から始まります。
実は逃れの町はここで初めて登場する制度ではありません。
民数記35章でもすでに定められていたのを覚えているでしょうか。
そこでは、ヨルダン川の東に三つ、西に三つ、合計六つの逃れの町が指定されていました。

民数記の時には、すでに占領地となっていたヨルダンの東側に三つの逃れの街が作られていましたから、カナンを攻め取ったら残り三つを作らなければなりません。
そして、誰でもすぐに逃げ込めるようにしておきなさいと神さまは言います。
神さまは正義を行われる方です。
しかし同時に、逃れる道を備えることにも熱心な方なのです。

2. 逃れの町はキリストを指し示している

古くから教会は、逃れの町をキリストの型として読んできました。

第一に、それは神さまが備えたものだからです。
逃れの町は人が考えた制度ではなく、神さまが用意されました。
救いも同じです。
私たちが考え出したのではなく、神さまが備えてくださったものです。

第二に、誰にでも開かれているということです。
逃れの町は、イスラエル人だけではなく、寄留外国人にも開かれていました。
同じように、キリストのもとには、誰でも来ることができます。

第三に、守られるためには逃げ込まなければならないということです。
逃れの町は知っているだけでは意味がありません。
実際に、その町の中に逃げ込まなければ守られません。
同じように、キリストについて知っているだけではなく、キリストのもとへ行かなければ救いを受け取ることはできないのです。

第四に、大祭司の死による解放があります。
民数記35章によれば、逃れの町に逃げた人は、大祭司の死によって自由になります。
これも、キリストを表す型のひとつでした。
大祭司なるキリストの死によって、私たちも罪から解放されました。

このように、キリストこそが私たちの逃れの場所なのです。

3. 神は真実を重んじられる(19:15-21)

19章には、もう一つ重要なポイントについて書かれています。

申命記 19:15 いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。

これは、一人の証人だけで人を裁いてはならないという規定ですね。
なぜでしょうか。
私たちは間違えることがあるからです。
思い込み、偏見、感情、誤解…そこにはさまざまな理由があります。
だから神さまは、慎重に調べなさいと命じられます。
誰かが不正に、不当に裁かれるようなことがあってはならない。
思い込みや、一方的な感情、人のうわさによって誰かが裁かれるようなことがあってはならない。
神の民は、感情ではなく真実によって生きる者であるようにと示されているのです。

4. それでも人は正義を守れなかった

しかし聖書を読み進めると、人間は神が求める正義を実現できなかったことがわかります。
その象徴が、イエスさまの裁判です。
申命記19章は、偽証で裁くな、慎重に調べよ、真実によって判断せよと命じていました。
しかしイエスさまが裁かれたとき、何が起きたでしょうか。

偽証人が立てられ、証言は一致せず、結論だけが先に決まっていました。
本来なら、無罪になるはずでした。
なぜならイエスは、「無実の人」そのものだったからです。

ではなぜ神さまは、この不当な裁判を許されたのでしょうか。
それは、私たちを救うためです。
本来なら、申命記19章の教えによって守られるべきだったのはイエスです。
偽りの証言によって裁かれてはならない方でした。
しかし神さまは、その不当な裁判さえも救いの計画のために用いられました。
本来なら守られるべきだったイエスが裁かれ、 裁かれるべきだった私たちが赦される。
ここに福音があります。

逃れの町は、罪に問われた者を守る場所として定められました。
しかし、それでは罪の問題そのものが解決されたわけではありませんでした。
イエスさまは、ただの避難場所ではありません。
イエスさまは、私たちを守るためにご自身が裁きを引き受けてくださったのです。
逃れの町が指し示していたものは、イエス・キリストの内に完成しました。
そして大祭司の死によって逃れの町の者が自由になったように、大祭司キリストの死によって、私たちは罪の責めから解放されたのです。

だから私たちは、救いの避け所であるイエス・キリストに信頼して歩み続けようではありませんか。
その方の十字架において、神の正義とあわれみは完全に一つになったからです。
祈りましょう。