マタイ5:31-48 『「天の父のごとく完全なものとなりなさい」-神の義と愛によるいのちの道ー』2026/10/11 小西孝蔵
(初めに)
・ボンヘッファーの映画観賞会を教会で開いて、多くの参加者と共に、映画に描かれたボンヘッファーの信仰と行動感動を新たにした。特に、山上の垂訓で終わる処刑台の場面は感動的。彼は、8福の後半を唱えつつ、死を迎える。マタイ5章7~10節「憐み深い人は幸いである・・。こころの清い人は幸いである・・。平和を創りだす人は幸いである。彼らは、神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害される人は、幸いである。天国は、彼らのものである。」
・山上の垂訓は、単なる道徳訓ではなく、キリストの愛の力によって実現できる究極の道徳である。と同時に、私たちが永遠の救いにあずかる祝福の言葉、まさに山上の福音である。旧約では、モーセの律法があり、新約では、キリストの恵みがある。
・前回は、マタイ5章の総論「17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」を取り上げ、その各論として、キリストが取り上げた6つの律法のうち、最初の二つ(殺すなかれ、情欲をもって女を見るな)を学んだ(パワポ資料参照)。
・律法を守れというこの箇所を単なる道徳と解釈すると分かりにくい。キリストによる福音であり、究極の道徳と解釈するとよくわかる。律法自体は、神から人に与えられ、それによって守られる善きもの。問題は、人間が神から離れ、律法を自分の力で守ろうとして、外見だけ守ろうとする律法主義(偽善)が問になること。律法を守ることが第一目的ではなく、悔い改めて、天の父のもとに立ち帰ることが最優先。私たちは、キリストの十字架の贖いにより無条件に神の前に義とされ、復活のキリストと共に、人を愛する人間に造り変えられる。これが愛による律法の成就の真意。本日は残りの4つの律法について取り上げたい。
1.離婚してはならない
マタイ5章「31また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」
・日本人の結婚する3組に対し、1組が離婚するのが日常茶飯事。残念ながら、私たちの身の回りにも、少なからず見受けられる。性格の不一致が6割、経済的理由が2割と言われる。不品行以外の理由で離婚するものは、姦淫するものと同じ。このキリストの教えは厳しすぎる、ついていけない!という印象をお持ちの方も多いのではないか? しかし、キリストの結婚観、夫婦関係は、次の聖書箇所に記されている。
マタイ19章「4イエスは答えて言われた、「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 5人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 6・・・だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
エペソ人への手紙5章「 32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。 33いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
・夫婦は、キリストと教会の関係になぞらえている。キリストが私たちのために自分を捨てて十字架に掛かって下さったことに、キリストの無償の愛が現わされている。その愛をもって互いに愛し合いなさいといういうのが夫婦関係のあるべき姿なのだ。配偶者が、信者でない場合であっても、夫または妻のためにとりなしの祈りをすることによって、相手も聖なるものとなるとパウロは言う(1コリント7章)。
2.誓ってはならない
マタイ5章「33また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 34しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。」
・日本でも、「天地神明に誓って」という表現がよく使われる。ここで言われる旧約時代の誓いの言葉は、天や地を勝手にさして、己の力で、約束を果たそうとする。それが多くの場合、偽善に陥ったり、挫折に至ったりする。しかし、神の御心を信じ、神の力に頼れば、自ずと約束は果たせるもの。それが、37節「37あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。」という言葉に帰着する。
・結婚式の誓約はどう解釈するのか?一般に当たり前のように行われているので、意外と解釈が難しい。私自身の解釈は次の通り。結婚式の牧師の前の誓約は、単なる夫婦間の約束(pledge)ではない。神様に対する信仰告白であると思う。私たちの婚約式、結婚式の誓詞を思い出すとそれを実感する。誓詞を準備するのに1か月近くかかるかかったという思いでがある。司式をして頂いた伝道者の先生に感謝している。
3.復讐してはならない
マタイ5章「38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
・ウクライナ・ロシア、イスラエルとパレスティナ、イラン等を見ると、世界は、「目には目を、歯には歯」による力の支配が現実。憎しみの連鎖、拡大、行き着く先は、世界の破滅。この憎しみの連鎖を愛の連鎖に変えるものは、キリストの十字架の愛と和解によるしかない。この世は、キリストが十字架と復活によってサタンに打ち勝ったからこそ、神の支配下におかれている。裁きは、神に任せるべき。歴史は、最終的な神の支配を証明している。裁きは神様がなさること。
ローマ人への手紙12章「19愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」
・ボンフェッファ―のヒットラー暗殺計画への加担は、復讐するためのものではない、。ナチに殺されていく数百万人ものユダヤ人の命を救うため、神の御心と信じ最後の手段として選んだもの。彼の行動が、「殺すなかれ」「敵をも愛せよ」というキリストのみ言葉に反するものであったとは思えない。隣人を愛するが故の彼らの行動は、私たちの眼から見て、神の前に許された決断だったと思える。しかしながら、この世の支配者である神様は、ヒトラー暗殺計画を失敗させられた。そして、ボンフェファーが処刑された数週間後にヒトラーが自殺した。神様は、人が自分の手柄を誇ることのないよう、人間の思いを超えて働かれた結果ではないかと私は理解している。
・「41もし、だれかが、あなたをしいて一ミリオン行かせようとするなら、その人と共に二ミリオン行きなさい。」
・1ミリオンとは、千歩歩く距離、約1時間で歩く距離。イエスは、ローマ兵に荷物を運ぶ役務を課された民間人の例えを用いて、上から要求される距離の倍歩きなさいと言われた。これは、現代の会社の職場でいうと、どんな上司でもその命令の倍の仕事をしなさいというのに等しく、理不尽にも思える。しかし、相性の良くない上司であっても、その上司の意図をよく組んで、期待以上の結果を出せば、信頼を得ることにつながる。割の合わない、理不尽な仕事のやりかたに見えても、神の御心と信じ、神の知恵を求めるとき、上司との信頼関係を回復することが可能になる。これがサラリーマンの信仰の証の一つとクリスチャンの友人から教えられた。
4.敵をも愛しなさい
マタイ5章 43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
・「復讐するな」という段階からもっと高いレベルのイエスの教えが「敵をも愛せよ」という言葉。OMFの日本人教会の先駆者であるメトカフ先生(この教会の2代目の宣教師、トマス先生が牧会しておられる仙台の教会の初代宣教師の一人でもある)は、戦争中、映画「炎のランナー」の主人公のモデルとなったエリック・リデルさん(オリンピック金メダリストから中国大陸伝道に献身)と共に日本軍の強制収容所に入れられていた。メトカフ先生は、リデルさんから、キリストの愛をもって敵国日本を赦すようにと言われ、彼のシューズを受け渡された。メトカフ先生は、強制収容所から出られたなら、日本で伝道を始めると決心された。その時、リデルさんが語った御言葉は、マタイ5章の「敵をも愛しなさい」という言葉であった。使徒パウロも、キリストの愛こそが律法を完成させると証言している。
ローマ人への手紙13章「 9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 10・・・愛は律法を完成するものである」。
5.天の父のように完全でありなさい(締めくくり)。
マタイ5章「45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 ・・・ 48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
・神様は、すべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせられる、善人にも悪人にも等しく公平に恵みを与えられる。このことは、自然の中に身を置くとよくわかる。神様の恵み、神様の愛は、限りなく広く、大きい。善人にも悪人にも、信者、未信者にもすべての人の上に神の愛が平等に注がれている。信仰といっても、自分の誇れるものは何もない。神様の憐み、恵みによるだけ。私たちは、ただ感謝あるのみ。
・山上の福音は、八福という神に従うものに与えられる祝福で始まる。マタイ5章の後半は「キリストが律法を成就するために来られた」という言葉で始まり、5章の最後は、「天の父のように完全でありなさい」で締めくくられている。これは、弱い私たちにとってあまりに厳しい言葉に聞こえる。人間の力では到底できない。しかし、キリストの真意は、悔い改めて、父なる神のもとに立ち帰りなさいということにある。そこには字架の贖いによって神の前に義とされ、キリストの愛により生かされるという「いのちの道」が示されている。これは、単なる道徳の教えではなく、究極の福音であり、究極の道徳でもある。
・人間は、完全な愛を持つことはできないけれども、神の愛を受けるから人を愛することができる。弟子のヨハネはこう記している。「10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネによる第1の手紙4章10節)使徒パウロは、神の愛をこう記している。「35だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。」(ローマ人への手紙8章35節)
・人間の力では到底できないことでも、復活されて今も共に居て下さるキリストに在って新しく作り変えられ、時が来れば、敵をも愛するような人間に作り替えられる。
第2コリント5章「17だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
・主は、聖霊を遣わして、弱い私たちをとりなし、導いて下さる。聖霊の働きに委ねることによって善を行うことができる。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。(ガラテヤ書5章22節)。
・最後に、ダビデの詩編37篇が本日の聖書箇所をよく表しているのでお読みしたい。主に委ね、主に信頼し、主を喜びとせよ。主の栄光が現れるよう、キリストを賛美しよう。
詩編37篇1~5節「1悪をなすものに怒りを燃やすな。・・・3主に信頼し、善を行え。・・・4主を喜びとせよ。主は、あなたの心の願いをかなえて下さる。5あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主がなし遂げて下さる。
以上

