ルカ20:1-18 『ルカ94 礎の石』 2017/02/05 松田健太郎牧師

ルカの福音書20:1~18
20:1 イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、
20:2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
20:3 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
20:5 すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
20:6 しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」
20:7 そこで、「どこからか知りません」と答えた。
20:8 するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。
20:9 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
20:10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
20:11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
20:12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
20:14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
20:15 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。
20:16 彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。
20:17 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
20:18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

さて、イエス様の十字架に向かう最後の3日間が始まりましたね。
先週のメッセージで、イエス様は旧約聖書に預言されていた救い主、エルサレムの新しい王として、大歓迎の中で迎え入れられたというお話をしました。
しかし、イエス様はすべての人々が歓迎されたわけではありませんでした。
自分たちの権威と権力を脅かす存在となったイエス様に、敵対視する動きが大きくなっていったのです。

① 権威はどこから?
それまでイエス様に敵対していたのは、パリサイ派のユダヤ教徒や律法学者たちでした。
しかしここでは、祭司長や長老の姿が出てきています。
祭司長は神殿の責任者、長老はユダヤ人たちのリーダーですね。
それぞれに権威を持ち、権力にしがみついている人たちが、民衆から支持されている「ナザレのイエス」という新しいリーダーに、危機感を持っていたのです。
そこで彼らは、イエス様を糾弾するために集まってきたというわけです。

20:2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」

この時イエス様は、神殿で福音を伝えていました。
律法学者や他の宗教者とは違い、イエス様はどの学者の元で学んだわけでもありませんでしたから、誰の後ろ盾もありません。
「そんな話、どんな学者の口からも聞いたことがない。誰の権威でそんな事をいっているのか?」
それだけではありません。
イエス様はこのすぐ前に、祭司長たちの権威の元で神殿にいた商売人の机をひっくり返したり、両替人を追い出したりしていますから、それに対する釈明の要求でもあります。

この質問が、純粋に彼らの疑問から来たことだったなら、イエス様は喜んで答えたかもしれません。
しかしこれは、質問であるというよりは詰問です。
もしも「神の権威だ」とでも言えば、すぐに冒とく罪で逮捕する事もありえます。

イエス様はどう答えたでしょう。
イエス様は、質問に対して答えを言うのではなく、質問で返しました。

20:3 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」

バプテスマのヨハネは、敵対するグループの人たちでさえ一目置くほどの宗教者でしたから、彼が授けているバプテスマの権威がどこから来るものなのか、宗教的に権威を持っていた彼らの見解を聞くことは何もおかしなことではありませんでした。
そして、この問いに答える事が、彼らの質問への答えにもなったでしょう。
バプテスマのヨハネは、「イエスこそがメシアである。」とも言っていたからです。

しかし彼らは、事実がどうであるかという事よりも、自分自身の立場に関心ありました。
彼らが「ヨハネの権威は神からのものだ」と認めれば、彼らはイエス様がメシヤであるという事を認める事になってしまいます。
逆に、「ヨハネの権威は人間のものだ」と群衆の中で言えば、ヨハネは民衆からとても支持されていましたから、人々の反感を買って暴動が起こるかもしれません。
自分の権威や立場を大切に考える彼らは、結局何も言えなくなって、「わかりません。」と答える事しかできなくなってしまいました。
そこでイエス様も、「それでは私も言う必要はないですね。」と言って、話を打ち切ったのです。

② ぶどう園の主人のたとえ話
さて、イエス様を陥れようとするだけで、物事を追求しようとしない人に対しては早々に話を打ち切ってしまったイエス様ですが、この話はこれで終わりではありません。
イエス様の話に耳をしっかり開いていた民衆には、権威についてこのようなたとえ話をしています。

20:9b 「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
20:10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
20:11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
20:12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
20:14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
20:15 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。
20:16a 彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

この話を聞いていた人たちは、イエス様が何の話をしているのか、すぐにわかった様です。
皆さんはおわかりになったでしょうか?
たとえ話の中に出てくるぶどう園の主人は神様を表していて、農夫たちは神様に契約の民として選ばれたイスラエルを表しています。
神様がイスラエルの人々を選んだのは、神様の事を証するためでした。
その民を導くために、神様は預言者を送ります。
それが、収穫のために農夫たちの所にしもべを遣わしたという事です。
ところがイスラエルの人々は、神様の証をするどころか偶像崇拝をし、神様が送った預言者たちを迫害して殺してしまいました。
その後も神様は、何度も預言者を送りますが、預言者たちはいつも人々からそしられ、迫害され、時に殺されていきました。
このたとえ話の中で、主人は最後に、自らの息子を遣わします。
「農夫たちも、私の愛する息子を送れば、私の気持ちを受け取って敬ってくれるだろう。」
主人は、自らに背いて主人から土地を盗もうとする農夫たちに、信頼を持って答えようとしました。
しかし農夫たちは、主人の期待には応えませんでした。
財産を横取りするために、主人の愛する息子まで殺してしまうのです。

これはまさに、これから起ころうとしている事でした。
父なる神様が地上に遣わした最愛の息子イエス様を、イスラエルの人々は殺そうとしていたのです。
イエス様の権威がどこにあるか、イエス様はこのたとえ話の中ではっきりと話しています。
イエス様は、父なる神様の最愛の息子であり、神様からの直接の権威を持ったお方だという事です。

この話はどのように締めくくられているでしょうか?
息子を殺された主人は怒り、農夫たちを皆殺しにして、ぶどう園を他の人に与えてしまうだろうとイエス様は話しています。
紀元70年、イエス様を迫害し、殺してしまったユダヤは、ローマ帝国によって跡形もなく滅ぼされてしまいました。
そして、神様の福音を述べ伝えるという使命は、異邦人である私達クリスチャンへと渡されたのです。

③ 礎の石
それを聞いてた人々は、「そんな事があってはなりません。」と言いました。
確かに、そのような事が起こったら大変です。
そこでイエス様は彼らを見つめ、この様に言われました。

20:17 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
20:18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

これは、詩篇118篇に書かれている言葉の引用です。
家を建てるためには土台が必要で、その土台の中でももっとも中心となる石を礎の石と言います。
日本の家で言うと、大黒柱を支える石のようなものですね。
この言葉が表しているのは、石工大工たちが、「こんな石はいらない。むしろジャマだ」と言って捨ててしまった石が、その家の礎の石としてちょうどいいものだったという話です。
人々はイエス様を虐げて捨ててしまいましたが、実はそのイエス様が、自分たちの救いのためには欠かすことのできない存在だったのです。
そしてこのイエス様によって、人々は裁きのために打ち砕かれることにもなるのです。

多くのユダヤ人たちが、この救いの石につまずいてしまいました。
私たちクリスチャンにとっても、この話は他人事ではありません。
私たちも、ユダヤ人たちと同じあやまちを犯してしまってはいないでしょうか?
私たちも、自分たちの権利や権威を求めて、神様からの遣いを虐げてしまってはいないでしょうか?
神様の愛と寛容さに甘えて、神様を侮ってしまってはいないでしょうか?
あるいは、神様をジャマに思って、排除しようとしてはいないでしょうか?
私たちは、この救いの礎の石につまずいてしまう事なく、むしろその石により頼むものでありたいですね。

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