ルカ19:29-48 『ルカ93 主の宮をきよめる』 2017/01/29 松田健太郎牧師

ルカの福音書19:29~48
19:29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
19:30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。
19:31 もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
19:32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。
19:33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。
19:34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。
19:35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
19:39 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください」と言った。
19:40 イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」
19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
19:45 宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
19:46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、
19:48 どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。

2週続けてDavidさん、小西孝蔵さんにメッセージをしていただきました。
他の皆さんも、必要であれば僕の方でサポートしますので、やってみたいという方がいたらぜひおっしゃってくださいね。

今日の聖書個所は長いですが、前半についてはざっくりお話しして、後半に焦点を当てていきたいと思います。
早速見ていきましょう。

① エルサレム入城
ここは、イエス様がいよいよエルサレムへと入って行く所ですね。
イエス様はまだ誰も乗せた事のないロバに乗って、エルサレムに入りました。
なぜ、誰も乗せた事のないロバなのでしょう?
それは、神様へのいけにえには傷のない初い子が捧げられたように、聖い方に捧げられるのは初めてのものである必要があったからです。

これによって、旧約聖書の預言がまたひとつ成就します。

ゼカリヤ 9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

平和の君である救い主は、戦いのための馬に乗ってではなく、穏やかなロバにのってエルサレムに来るという預言です。
神様は戦いや、強要によってではなく、平和な方として私たちの王となられたのです。

そんなイエス様を、エルサレムの人々は大歓声を持って迎え入れました。
道には自分たちの上着を敷き、ルカの福音書では描かれていませんが、棕櫚の葉を振って『ホサナ!(主よお救い下さい)』と叫びました。
棕櫚というのはナツメヤシの事ですが、これは当時、戦争に勝利をして凱旋する人たちを迎え入れる時にした事でした。
エルサレムの人々は、まさにキリスト、油注がれた王としてイエス様を迎え入れたのです。

しかしイエス様は、そのエルサレムを思い、泣きました。
それはイエス様が、これからエルサレムに起こる出来事を知っていたからです。
この出来事からわずか3日後、このエルサレムの人々はイエス様を十字架にかけることになります。
イエス様はその事を知っていましたが、その悲しさによって泣いたのではありません。
もちろん、エルサレムの人々を恨んだりもしませんでした。
むしろ、それがもたらず滅びという運命を、嘆かずにはいられなかったのです。

19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

この出来事から数十年後、ユダヤはローマ帝国からの独立を目指して戦いを挑みます。
そしてその戦いに敗れ、紀元70年エルサレムは陥落し、滅ぼされてしまったのです。
それは、彼らがイエス様を受け入れず、十字架にかけてしまったからなのです。

エルサレムにイエス様が入場した時、人々がイエス様を本当に救い主として受け入れていたら何が起こっていたでしょう?
王としてのイエス様は政治的な王でなく、私たちの罪を贖い、愛によって治める方だという事を信じていたら、結果はどうなっていたでしょう?
彼らがローマ帝国からの独立を求める事はなかったかもしれません。
しかし、人々がイエス様を受け入れない事も、イエス様は知っていました。
それは、私たちが罪びとだからです。
最初から受け入れる事ができるなら、イエス様が十字架で死ぬ必要もありませんでしたね。
私たちが罪びとであり、イエス様を受け入れないからこそ、私たちはイエス様を十字架にかけ、それによって私たちの罪は贖われたのです。

こんな風にして、イエス様の最後の3日間が始まりました。
メッセージでは、この3日間を2か月くらいかけてみていく事になるわけですね。

② 宮きよめ
さて、エルサレムに入ったイエス様は、神殿へと向かいます。
そこでイエス様が目の当たりにするのは、神殿の中で商売をする人たちの姿でした。
それを見たイエス様は憤り、商売人たちを追い出し始めたのです。
ルカはこの出来事をシンプルに書いていますが、他の福音書にはこの時に起こったことを、もう少し具体的に書かれています。

マルコ 11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。

こうして見てみると、この時のイエス様はそうとう怒っていた事がわかりますね。
あの優しいイエス様が、どうしてこれほど怒りを露わにしたのでしょうか?
それは、この直前にイエス様が涙した出来事、エルサレムが神様に背を向け、腐敗してしまった姿が、宮で行われていた事の中に表されていたからです。

さて、この商売人たちは、エルサレムの神殿で何をしていたのでしょうか?
彼らは、いけにえとなる動物を売る人たちや、両替人でした。
律法によって、いけにえとして捧げる動物は牛、羊、もしくは山羊、そして鳩と決められていました。
そして捧げる動物は、傷のないものと定められていたのです。
そこで、神殿の庭では傷のない、検査済みの動物を用意して売っていたというわけです。

また、神殿に納める献金はユダヤの半シェケルと決まっていましたから、当時流通されていたギリシアのお金やローマのお金ではだめでした。
だから両替人がいたというわけです。

そう考えると、彼らは礼拝に来る人たちの便宜を図ってやっていた事ですから、悪い事ではないように思います。
しかし実際には、彼らはその状況を利用して、たくさんの手数料を要求していました。
そして、そこで購入した動物でなければ、いけにえとして許可を出さないようにしてしまっていたのです。
彼らはそこでたくさんのお金を儲けていました。
そして、高い手数料によって、貧しい人たちはいけにえを捧げる事ができない状況だったのです。

律法で定められているいけにえが何のためのものだったかというと、イエス様の十字架とそれによる罪の贖いを象徴したものでした。
ユダヤ人たちにとっては、救いを表すものだったのです。
そこにお金が絡むことによって、救いにはお金が必要だということになってしまいました。
そして救いのための価格をコントロールするのは、ここにいる商売人たちの権限という状況が起こってしまっていたのです。

だから、怒りを露わにしたイエス様は、彼らにこのように言い放ちました。

19:46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

神様が示す救いの道は、救い主であるイエス様を信じ受け入れるかどうか、それだけです。
そこに別の条件を加えて、救いの道を狭めるようなことをしてはいけませんね。
そして救いの権威は私達ではなく、神様にだけあるのだという事を忘れてはなりません。

③ 私たちの主の宮
さて、この話から、私たちが気を付けるべきもう一つの事があります。
それは、宮は神様の家であり、祈りの家でなければならないという事です。

さて、ここで言われている宮とは、エルサレムの神殿の事でした。
しかし、神殿はこの後に壊されて、今は存在しません。
では、クリスチャンである私たちにとって、宮に当たるものとは何でしょうか?

教会? と思ってしまいがちですが、そうではありません。
聖書にはこう記されています。

Ⅰコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
新約時代に生きる私たちにとって、宮とは私たちひとりひとりのことなのです。

私たちのからだは宮であり、聖霊が住まわれる神様の家です。
そして、神様に家は、祈りの家なのだとイエス様は言っているのです。
私たちは、もう一度そのような視点で、自分自身の事を見てみる必要があるのではないでしょうか?

私たちの体が主の宮なのだとしたら、私たちは自分自身をどの様に扱うべきでしょうか?
祈りの家ではなく、別のものにしてしまっていないでしょうか?
イエス様が私たちを見た時、どのようにおもうでしょう?

私たちもまた、きよめられる必要があります。
私たちの心、私たちの価値観を、イエス様は根底からひっくり返し、痛い思いをする事もあるでしょう。
それは、私たちが本来の姿から離れたけがれた状態にあるからです。
そしてそれは、イエス様が私たちを愛して下さっている事の証でもあります。

ヘブル 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

エルサレムのためにイエス様が声をあげて泣いたように、イエス様は私たちの滅びを望んでおられないのです。

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