申命記26:1-11(26:1-28:68)申命記13 『神様とともに歩む道』2026/10/24 けんたろ
申命記26:1-11(26:1-28:68)
26:1 あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、
26:2 あなたの神、【主】が与えようとしておられる地から収穫する、大地のすべての実りの初物の一部を取って、かごに入れ、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ばれる場所へ行かなければならない。
26:3 そして、そのとき任務についている祭司のもとに行って、「今日、あなたの神、【主】に報告いたします。私は【主】が私たちに与えると父祖たちに誓われた地に入りました」と言いなさい。
26:4 祭司があなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、【主】の祭壇の前に置いたら、
26:5 あなたは、あなたの神、【主】の前で次のように告白しなさい。「私の父はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。
26:6 しかし、エジプト人は私たちを虐待し、苦しめ、私たちに激しい労働を課しました。
26:7 私たちが私たちの父祖の神、【主】に叫ぶと、【主】は私たちの声を聞き、私たちの苦しみと労苦と虐げられている有様をご覧になりました。
26:8 そこで、【主】は力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもって私たちをエジプトから導き出し、
26:9 この場所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに与えてくださいました。
26:10 今ここに私は、【主】よ、あなたが私に与えてくださった大地の実りの初物を持って参りました。」あなたは、あなたの神、【主】の前にそれを供え、あなたの神、【主】の前で礼拝しなければならない。
26:11 あなたの神、【主】があなたとあなたの家に与えられたすべての恵みを、あなたはレビ人および、あなたがたのうちの寄留者とともに喜びなさい。
申命記も終盤に入ってきました。
ここまでモーセは、礼拝について語り、共同体について語り、王や預言者について語り、日常生活の中に表れる神の心について語ってきました。
そして26〜28章では、その総まとめとして、「祝福と呪い」が語られます。
現代人である私たちがこの言葉を聞くと、「神に従えば成功する」「従わなければ不幸になる」という話のように聞こえるかもしれません。
しかしモーセが伝えたかったことはもっと深いものでした。
それは、神と共に歩むことが命であり、神から離れることが滅びであるということです。
1. 神の恵みを忘れてはならない(26章)
26章では初穂のささげ物について語られます。
イスラエルの民は収穫を得たとき、その初穂を神に献げながら、自分たちの歴史を告白しました。
「私の父はさすらいのアラム人でした」という言葉です。
つまり、「私たちは最初から豊かだったのではない」「自分の力でここまで来たのではない」ということを思い出すのです。
我々はもともと奴隷であり、弱く、貧しかったにも関らず、神が救い出してくださった。
だから今ここにいる。
モーセはまず、神の恵みを忘れるなと教えているのです。
2. 神との契約を軽く見てはならない(27章)
27章ではエバル山で契約を確認することが命じられます。
そして、「のろわれよ」という言葉が何度も繰り返されます。
「自分の父や母を軽んじる者はのろわれる。」「隣人との地境を移す者はのろわれる。」といった具合です。
現代人の私たちには、恐くて厳しい箇所に感じるかもしれません。
しかしここで神が教えているのは、罪は決して軽いものではないということです。
私たちはつい、「これくらい良いよね」「寛大な神さまは許してくださる」と考えがちです。
これは、決して現代人の感覚ではなく、私たち人間が持つ間違った宗教感でした。
神との契約は、単なる約束ではなく、神との関係そのものです。
だからその関係を壊してしまう罪は、真剣に受け止めなければならないものなのです。
3. 祝福と呪いの分かれ道(28章)
28章は申命記のクライマックスです。
前半には祝福が語られ、後半には長い呪いが語られます。
申命記 28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
申命記 28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
ここで大切なのは、神が祝福したいのか、呪いたいのか、ということではありません。
神が示しているのは、神と共に歩む人生と、神から離れた人生の違いです。
魚が水から離れれば生きていけず、木が根を失えば枯れてしまうように、人は神との交わりの中で生きるように造られています。
だから神から離れる時、人生は壊れていきます。
神から離れている生き方そのものが呪いとして描かれているのです。
4. 誰も完全には従えなかった
しかしここで問題があります。
イスラエルは律法を守れず、神から離れてしまいました。
旧約聖書は、まさにそのことを表した歴史ですね。
そしてそれは、私たちも同じです。
神を愛しなさいと言われても、神より大切なものを作ってしまいます。
隣人を愛しなさいと言われても、自分を優先してしまいます。
28章が私たちへの判決文なら、祝福ではなく呪いの側に立たされることになります。
だからこそ、私たちには福音が必要だということなのです。
5. キリストが呪いを引き受けられた
パウロはガラテヤ書でこう語っています。
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)
これは驚くべき言葉です。
申命記28章が語る呪いを、キリストご自身が引き受けられたというのです。
本来なら私たちが負うべき裁きを、キリストが十字架で負われました。
そして私たちには、神の子としての祝福が与えられました。
ですから新約の時代に生きる私たちは、祝福を得るために神に従うのではありません。
すでに与えられた救いと恵みに感謝して、神と共に歩むのです。
まとめ
申命記26〜28章は、祝福と呪いについて語っていました。
しかし中心にあるのは、成功すれば祝福、失敗すれば呪いという話ではありません。
私たちが神と共に歩むか、神から離れて歩むかの違いです。
祝福は報酬ではなく、のろいは罰として与えられるものではありません。
祝福は常に神と共にあり、神から離れるならそこには呪いしかないという警告なのです。
神さまがここで警告しているのは、民を祝福したいからです。
神は愛しておられるからこそ、立ち返るように語られているのです。
そして私たちは、キリストによって神との関係へと招かれました。
キリストは私たちの代わりに呪いを負い、私たちに祝福を与えてくださったのです。
だから私たちも、神の恵みを忘れず、神との関係を大切にしながら、主と共に歩む者として生きていきませんか?
祝福を選ぶか、のろいを選ぶかという選択肢は、私たちに与えられているのですから。
祈りましょう。

