人の期待に生きる人生から、神の前に立つ人生へ
「人にどう思われるだろう。」
「嫌われたくない。」
「期待を裏切ってはいけない。」
「もっと認められたい。」
多くの人は、このような思いを抱えながら生きています。
頼まれると断れない。
本当は疲れているのに無理をしてしまう。
自分の意見よりも周囲の空気を優先してしまう。
そして気づけば、人間関係に疲れ果てている。
そんな経験をしたことはないでしょうか。
もちろん他人を思いやることは大切です。
私たちは一人で生きているわけではありません。
でも、人への配慮が行き過ぎて、いつの間にか自分自身を見失ってしまうことがあります。
近年の心理学では、そのような状態を「他人軸」と呼ぶことがあります。
一方で、自分の価値観や考えを大切にして生きることを「自分軸」と呼びます。
この言葉を聞いた人の中には、「自分は自分軸で生きている」と思った人もいるでしょう。でも実際には、多くの人は自分が他人軸で生きていることに気づいていません。
なぜなら、それが当たり前になっているからです。
そのためまず必要なのは、「自分は他人軸で生きているかもしれない」と気づくことです。
他人軸とは何か
他人軸とは、「他人の期待や評価を基準として生きる状態」です。
例えば、
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親を失望させたくない
-
周囲に認められたい
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嫌われたくない
-
良い人と思われたい
-
リーダーの期待に応えたい
という思いが判断基準になっています。
本人は善意のつもりです。
責任感もあります。
献身的な人も多いでしょう。
しかし、その根底では、「私はどうしたいのだろう」よりも、「周りは何を望んでいるのだろう」が優先されています。
そのため他人軸で生きる人は、常に緊張しています。
人の反応によって安心したり落ち込んだりします。
期待に応えられれば安心し、批判されれば深く傷つきます。
なぜなら人生のハンドルを他人に握られているからです。
自分がどうしたいのか分からない
他人軸で長く生きてきた人に、「あなたはどうしたいですか?」と尋ねると、意外な答えが返ってくることがあります。
「分かりません。」
「考えたことがありません。」
「自分が何を望んでいるのか分かりません。」
自分の気持ちが分からない。
それは不思議に聞こえるかもしれません。
しかし本人にとっては本当に分からないのです。
長年、
「何が正しいか」
「何を期待されているか」
ばかりを考えてきたからです。
自分の感情や願いに耳を傾ける習慣そのものが弱くなっています。
そのため、自分の内側を見ようとしても何も聞こえません。
「どう感じていますか?」という問い
他人軸から抜け出すためには、まず内側の声に耳を傾ける必要があります。
そこで大切になるのが、「あなたはどう感じていますか?」という問いです。
これは単純な問いですが、多くの人にとって簡単ではありません。
なぜなら、本当の気持ちを感じることを長年避けてきたからです。
しかし、この問いによって少しずつ気づきが始まります。
「本当は怒っていた。」
「本当は悲しかった。」
「本当は認めてもらいたかった。」
「本当はやりたくなかった。」
こうして抑え込まれていた感情が見え始めます。
そしてここから、自分軸への第一歩が始まります。
どろどろした本音と向き合う
ところが、自分の本音に気づき始めると別の問題が現れます。
見えてくるものが美しいとは限らないからです。
そこには、
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怒り
-
嫉妬
-
承認欲求
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自己憐憫
-
復讐心
-
自己中心性
が含まれていることがあります。
そのため多くの人は、「こんなことを思う自分はダメだ」と感じます。
そして再び感情を押し込めようとします。
しかし、そのどろどろした部分に気づくこと自体は非常に重要です。
なぜなら、自分の本当の姿を見ない限り、本当の変化も起こらないからです。
問題なのは、どろどろした感情を持つことではありません。
それを認められないことなのです。
だからまず必要なのは、「私は今こう感じている」と正直に認めることです。
本音を認めることと、本音に従うことは違う
ところがここで別の落とし穴があります。
長年抑圧されてきた人が、「これが本当の自分だったんだ!」と気づいたとき、そのどろどろした部分を自分自身のすべてであるかのように考えてしまうことがあるのです。
例えば、「私は怒っている」が、
「だから怒りのままに生きていい」になる。
「私は認められたい」が、
「認められたい自分こそ本当の私だ」になる。
これは成熟した自分軸ではなく、単なる反動です。
今まで他人に支配されていた人が、今度は自分の欲求に支配されるようになっただけです。
健全な自分軸とは何か
成熟した自分軸とは、欲求を否定せず、しかし欲求の奴隷にもならない状態です。
例えば、「私は今怒っている」と認める。
しかし、「だから相手を傷つけても良い」とはならない。
「私は認められたい」と認める。
しかし、「だから人を利用しても良い」とはならない。
欲求は敵ではありません。
欲求は情報です。
感情は敵ではありません。
感情は心の状態を教えてくれるメッセージです。
成熟とは、それらを認識しながらも、それらに支配されない状態です。
聖書が示す神軸
実は聖書は、自分軸を最終目的にはしていません。
聖書が目指しているのは、神軸です。
ガラテヤ1:10でパウロは語ります。
今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。
これは他人軸からの解放です。
しかし同時に聖書は、自己中心的な生き方も勧めていません。
神を愛し、人を愛しなさいと教えています。
つまり、
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他人軸でもない
-
自己中心でもない
という道です。
ダビデに見る神軸
詩篇を読むと、ダビデは非常に正直です。
彼は、
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恐れ
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怒り
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悲しみ
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復讐心
-
孤独
を神の前に隠しません。
しかし興味深いのは、それらの感情を神格化しないことです。
彼は、「私はこう感じています」と言います。
しかし、
「だから私は正しい」とは言いません。
自分の本音を神の前へ持っていきます。
そして神との対話の中で整えられていきます。
これが神軸の特徴です。
他人軸から神軸への旅
振り返ると、人の成長はしばしば次のような過程をたどります。
まず、他人軸
人の期待と評価によって生きる。
次に、自分の本音の発見
抑圧してきた感情や願いに気づく。
その後、反動的自己中心
本音こそ真実だと考え、欲求に振り回される。
さらに成熟すると、健全な自分軸
自分の感情と願いを認識しながら責任をもって選択する。
そして最終的には、神軸
神の前に立ち、自分の本音も弱さも願いも持ちながら、神に従う。
という旅路です。
終わりに
「自分らしく生きたい」という願いは大切です。
しかし本当の自由は、人の期待から解放されることだけではありません。
また、自分の欲求のままに生きることでもありません。
本当の自由とは、
自分のどろどろした部分も、美しい部分も正直に認めながら、それらを神の前に差し出して生きることです。
他人軸から自分軸へ。
そして自分軸から神軸へ。
そこに、人を支配する必要もなく、人に支配される必要もない、本当の自由があるのではないでしょうか。

