エペソ6:5-9 『 エペソ13~真心から従う 』 2013/11/24 松田健太郎牧師

エペソ6:5~9
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

さて、しばらく開いてしまいましたが、みなさんエペソ人への手紙の内容を覚えているでしょうか?
エペソ人への手紙もテーマは、「クリスチャンとは何か」、「教会とは何か」という事でした。
わたし達がクリスチャンになったという事は、単に教会に通うという事ではなく、教会になるという事でした。
そして教会とは、わたし達がキリストの体になったという事を意味していたのでした。

手紙の後半は、キリストの体として生きるというのがどういうことかという事について一緒に考えてきました。
そしてそれが、夫婦の関係の中で、また親子の関係の中でどのような影響を与えていくかという事について、前回まで見てきたのでした。
今日は、仕事の中でクリスチャンとして生きるという事の話です。
日本では、仕事をしていれば、1週間で最も多くの時間を職場で過ごしていても不思議はありません。
家族よりも、会社の人たちとの時間を過ごすことの方が多いという事になります。

わたし達がキリストの体であるという事は、職場ではどのような意味を持っているのでしょうか?

① キリストのために働く
そもそも私たちは、どうして働くのでしょうか?
ある人は、生きるために働くんだというでしょう。
生きるためにはお金が必要で、お金を稼ぐためには働かなければならない。
「嫌だけど、生きるためにわたしは働いています。」
それが、ひとつの見方です。

ある人たちは、「私は働くために生きているんだ。」というかもしれません。
仕事こそが生きがいであり、人生です。
そこでは自分の役割があり、居場所があります。
だから人生の大半を会社で過ごし、会社を通した人間関係こそが社会です。
僕の父親はこういうタイプの人でした。

ほとんどの人たちは、このどちらかに当てはまるのではないでしょうか?
しかし、聖書はそのどちらも正解ではないと教えています。

「空しい」という言葉で始まる伝道者の書の中でソロモンは、お金のために働くことの空しさと、仕事をするだけの人生の虚しさを教えてくれています。
それでは、わたし達は何のために働くべきなのでしょうか?
それは、イエス様のためだと、聖書は教えているのです。
わたし達クリスチャンは、神様のために働くのです。

神様のための働きというと、多くの皆さんは宣教の働きやミニストリーを思い浮かべるかもしれません。
「そんなことを言われても、すべての人が牧師をやって生きていけるわけじゃない。
神様の事を話しているだけで生きていけるほど、この世は甘くない。」
まったく、おっしゃる通りだと思います。
そして、聖書が“神様のための働き”という時、それは必ずしも教会の奉仕や、ミニストリーの事だけを意味しているのではないという事を、わたし達は理解する必要があるのだと思います。

そもそも神様は、わたし達人間をどのような目的のために創ったでしょうか?
聖書では、一番最初のところでこのように書かれています。
創世記 1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

支配という言葉は少し強すぎるかもしれませんが、神様はこの世界を管理させるために、わたし達人間を創ったのです。
その目的は今も変わっていません。
教会だけが世界のすべてではありませんよね?
伝道だけがクリスチャンの働きではありませんよね?
神様がわたし達に与えている目的のためには、わたし達はこの世界と関わっていく必要があります。
わたし達はこの世界にあって、環境を守り、人間関係の中に回復をもたらし、この世界に神様の愛を広げて行く事が求められています。
わたし達は、むしろ教会の外に遣わされて、神様に創られた自分として生きて行く事が求められているのです。

それでは、教会の外、わたし達が社会で働くその場所で、わたし達はどのようにしてキリストの体となることができるのでしょうか?
それこそまさに、今日の聖書箇所で書かれている事なのです。

② 神の国はここにある
今日の聖書箇所の内容について、ひとつひとつ丁寧に取り上げて行ってもいいのですが、要はこれまで夫婦の関係や親子の関係について話してきたことと同じことです。
わたし達は、神様に仕えるように雇用者に対して仕え、雇用者は神様がわたし達にするように労働者に対して接しなさいという事を、パウロは言っているのです。

「そんな事を言いますけど、クリスチャンの会社だったり、上司や部下がクリスチャンなのであればこういう理屈も通るかもしれないけれど、日本という国では現実的に言って、そんなのムリでしょう。」
「大体、これは会社の話ではなくて、奴隷と主人に向けて言われている言葉じゃないですか。」
わたし達は、そう思ったりします。
でも、考えてみてください。
パウロが生きていた時代、奴隷と主人との関係の中でキリストにある愛の関係を実行することこそ、今の社会でするよりもずっと難しい状況だったのです。
奴隷は人権など無視され、道具や家畜と同じような扱いをされてきました。
主人に人格を否定される中で、奴隷は表面的にだけ仕えることで自分自身を守ってきたのです。
でもパウロは奴隷に、「真心から仕えなさい。」と言います。
そしてパウロは主人に対しても、「奴隷を自分と同じように接しなさい。」と言います。
主人が、奴隷を自分と同じような存在として扱うなんて、非社会的であり得ない事です。

普通ならだれもがこれを読んで、「そんなバカな。」と思うようなこと、「ありえない。」と考えたような事が、この手紙には書かれているのです。
しかし、当時のクリスチャンは、バカなのでその通りにしたのです。
パウロが言う事を、まさに神様の言葉として受け取って、心からそれに従ったのです。
そしてその結果、ローマ帝国が根底からひっくり返って、社会が変わってしまったのです。
“人権”なんて、特権階級であるローマ市民にしか与えられていなかった時代に、社会的な平等が、一時的にではありますがローマ帝国に訪れ、イエス様の価値観によって帝国中が収められる時代があったのです。

わたし達は、日本がキリスト教国になるなんて夢物語だと思ってしまいます。
「日本にリバイバルを!」と叫んでも、それが日本をどのように変えるかという事も想像できていないかもしれません。
でも、想像してみてください。
夫婦が、親子が、会社での人間関係が、すべて愛に根差し、自分中心ではなくお互いを立て上げることによって成り立つ環境になっていったとしたら、それはどんなにすばらしい環境でしょうか?
そこにこそ、神の国はあると言えるのではないでしょうか?
それは、わたし達がキリストの体としてこの世界で仕えて行く事から始まるのです。

③ 神様にならって
どうして、わたし達にそんなことができるのでしょうか?
それは、イエス様がわたし達のために、そのようにして仕えて下さったからです。
学んできたエペソ人への手紙にも書かれてありましたね。

エペソ 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

イエス様は本来王の王としておられる方だったのに、わたし達のために、悪意をもって扱われ、侮られ、罵られ、不当な裁きを受けました。
イエス様はへりくだり、わたし達のために命を投げ出してくださったのです。
なぜそんな事をしたのですか?
それは、わたし達を愛しているからです。
イエス様が、わたし達を愛して下さるから、イエス様の弟子であるわたし達も、同じように人々を愛するわけです。

いつでも、どんな時でも、イエス様がわたし達のお手本です。
イエス様が生きたように、わたし達も生きるのです。
イエス様のように、わたし達もなるのです。

言っておきますが、そんな事、本当はわたし達には不可能なことです。
表面的に、小手先の方法論を使って真似るならばともかくとして・・・。
でも、そんな小手先の事をいくらやっても、人にはバレバレでしょう。
それこそ、偽善者以外の何物でもありません。

わたし達が、内側から変えられてキリストのようになっていく。
それ以外に、わたし達がクリスチャンとして生きる道はないのです。

神様の愛をいっぱい受け取ってください。
それは、聖書の言葉を自分の事としてしっかりと受け取り、信じることです。
聖霊に満たされてください。
それは、聖霊がわたし達を変えて下さるのに任せて、変えられようとする事です。
いつでも、心から神様だけに従い続けてください。
それは、わたし達が神様に与えられている使命だけに生きるという事です。

わたし達がイエス様のために働くという事は、結局のところ、イエス様がわたし達を通して働くという事なのです。
わたし達は、イエス様のように人を愛することはできないかもしれません。
でも、イエス様が、わたし達を通して人々を愛してくださいます。
わたし達は、イエス様が仕えたようには働くことができないかもしれません。
でも、イエス様が、わたし達を通して働きをして下さるのです。

わたし達の主は、耐えられない試練を負わせることないお方です。
わたし達の主は、疲れた者を休ませ、負いやすいくびきを負わせてくださる方です。
そして、わたし達ともに歩んでくださり、重荷の大半を抱えて下さる方なのです。
そんな主のために、心から仕えていきませんか?
生きるための仕事から、神様のための仕事へ。
仕事のための人生から、神様のための人生へ。
その時わたし達の仕事は、喜びの時と変わるはずです。

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